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あまりにも「自然」な排除
私が仏教の根源的な射程を「言語の問題」に矮小化することに違和感をもつ理由もそのあたりで、たしかに言語は重要な問題であるにせよ、かつて仏教者が見据えた執著の根源は、もっと深いものなのではないか。たとえば猫は言語をもたないが、彼らに執著がないかと言えば、全くそんなことはないのだから。
— ニー仏 (@neetbuddhist) September 13, 2016
私は仏教の根本問題を「言語の問題」に還元してしまうことは、この教説の根源的な射程の矮小化だと考えているのだけど、その理由は上掲のツイートにあるとおりで、ゴータマ・ブッダが苦の原因として名指しした渇愛は、(少なくとも私たちと同じ形での)言語をもたない人間以外の動物にも、当然に作用しているものだからである。仏教用語の衆生(有情)というのが人間だけを示す言葉では全くなくて、かつそこに含まれる生きとし生けるものは、解脱しないかぎり根源的には苦なる存在であると理解されていることからしても、これは問題なく首肯できる話ではないかと思う。
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