「搾取だ」という権力行使

「弱者との関わり合いは、結局のところ搾取的にならざるを得ないのではないか」といった話を見かけて、以下の過去エントリを思い出した。

 私は「搾取」という言葉は「差別」や「暴力性」と同様に、事実そのものの記述ではなくてその価値付けの表現であると考えている。要するに、事実として存在する関係を特定の誰かが観察して、それに対する本人の評価(価値付け)を当該の関係を描写することで明らかにしたいと思った時に、選択され得る表現の一つが「搾取」だということだ。したがって、「搾取」という言挙げをする人たちは、しばしばそれを「権力」や「暴力」の行使の現実の指摘だと自己理解しているように見えるけれども、実際にはある関係について「搾取」という描写をすることは、そう言挙げした人間の基準によって当該の関係を価値付けたことを意味し、ゆえに特定の関係について「これは搾取だ」と規定することは、そのこと自体が一つの「権力行使」であるという側面を有している。
(※言うまでもないことだが、この場合の「搾取」の用法は、マルクス主義の文脈において使われるよりも広義のものである。念のため。)

 ……ちょっと話がややこしすぎて、三人くらいにしか伝わらない文章になってしまった気がするので、わかりやすく言い換えよう。上の段落で言いたかったことは、

ある関係について「搾取だ」と述べることは、それにまつわる「権力」や「暴力」を指摘し直視することだと考える人たちは多いけれども、実際には何かを「搾取だ」と規定することは、それ自体が同時に一つの「権力行使」にほかならない

ということである。もちろん、このように考えた場合、事実として存在するものを価値付ける言説は基本的に全て(広義の)「権力性」を有するということになるし、ゆえに私は上記の意味の「権力行使」がそれ自体として「悪い」という価値判断はしていない。だから、ある関係を「搾取だ」と価値付けるという権力行使をすることも、それ自体が悪いわけでは当然ない。

 ただ、何かについて「搾取だ」と言う人たちは、自身の行為の意味を単に対象の「権力」や「暴力」を指摘し直視することであるとのみ理解して、そこで己もまた権力行使をやっていることについては無自覚であることがしばしばである。そして私は、これについては時に「悪い」行為であり得ると思う。既述のとおり「搾取だ」という規定は事実に対する価値付けであって事実そのものではないのだが、そうした事情にナイーヴなまま強い言葉で「暴力」や「権力」の作用を指摘することは、あたかも「現実を直視」しているかのような響きを伴ってしまうから、その言葉を受け取る人は、(実際は全くそうではないのに)その価値判断を事実そのものの提示として理解してしまいがちだからである。繰り返すが、ある特定の関係を「搾取だ」と指摘することが、それ自体として悪いというわけではない。しかし、そのように言挙げすることが価値付けによる権力行使であるということに発言者が無自覚であった場合には、それは言葉の受け取り手を誤った理解へと導く「悪い」ものになり得るということである。
(※言うまでもないことだが、ここで私が述べていることも、価値判断による権力行使に他ならないのは当然である。ただ、これも既述のとおり、私は権力行使がそれ自体として直ちに悪いという価値判断はしていないということだ。本稿のように理解した場合、権力行使は常に多方面かつ多方向に、人間関係のあらゆる局面において、あたかも因陀羅網のごとく張り巡らされ、相互作用していることになるからである。このことは、後述の内容とも深く関わる。)

 このように説明しても、上記のような議論(指摘)をする実益はよくわからないままであろうから、話を具体的にするために、いくつか例を挙げてみよう。まずは、宗教の場合である。

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