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「量」が圧倒的なのはとにかく凄い
上のエントリで述べたような事情もあって……というのは言い訳で、単純に面白いので、最近は再び漢籍をよく手にとって、ぱらぱらと読んでいる。別に何の仕事になるわけでもないから完全に趣味であるし、時間があるなら読むべき本は他にもいくらでもある気がするのだが、とにかく楽しいものだから、ないはずの時間をついそちらに割いてしまうわけだ。
たとえば現代日本語でもまだ使われる「刎頸の交わり」という表現の典拠は、『キングダム』にも出てくる廉頗と藺相如のエピソードだけれども、トシのせいか、こういうのも漢文のシンプルな表現で読むのがかえってよい。イキり散らしてた廉頗が藺相如の深慮と衷情に感じて肉袒負荊するところとか、本当にぐっときますね。
戦前の旧制中学以上に進学した人などは、『十八史略』くらいはたいてい読んでいたというから、こういうエピソードは読書人であれば基本的にみんな知っていたのだろう。同じく「刎頸の友」と言うのでも、典拠である廉頗と藺相如の交わりを互いに知っていることが前提となる場合には、それがサラリと語られた時でも表現の言わば「奥行き」は変わってくるはずで、そういうのは個人的に「なんかいいなあ」と思う。
(※もちろん、そもそも旧制中学以上に進学する人の割合自体が実に少なかったということは、別の問題としてあるのだが。)
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