epiphanyによって、根源的に規定された世界を生きる人々
昨日のエントリでは、『さかなクンの一魚一会』のエピソードを取り上げつつ、尋常ではないルートで成功する人に関しては「全て運です」で片付けるというインターネット民の愛好する論法について、「それはちょっと違うんじゃないか」という指摘をした。
本稿では、その「ちょっと違う」の内実について書いてみようと思うのだが、その前提として、そもそも特定の人の人生について「運だ」とか「実力だ」とかいった評価を与えること自体が、事実判断というよりは「物語」に近い性質の語り(騙り)であると私は認識しているということは、あらかじめいっておかなくてはならない。私がそう考える理由については上掲の過去エントリに詳述してあるから、ここでは再説を控える。
ただ、事態を客観的にどう理解すべきかということとは別の問題として、自分自身その他の人間の人生について、それが主観的に「運でそうなったのだ」とか、「意思に基づいてそうしたのだ」とかいったふうに、感じられることはあるだろう。以下で述べるのは、そうした主観面からの「世界の見え方」に軸足を置いた話である。
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