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「この人が書くなら意味がある」
このエントリに使った「将来する」という表現について、「これは『招来する』の誤記ではないか」という指摘をいただいたのだけど(とても有り難いことです)、この場合の「将来」は「将(も)ち来たる」と訓じて、たとえば「唐から将来した文物」とか、そういうふうに使ったりすることもできるタピよ。
— ニー仏 (@neetbuddhist) May 20, 2020
漢籍とか戦前の人が書く文章とかに馴染みのある人であれば、まあさほどに違和感のない表現だろうと思うのだけど、たしかに現代日本語で一般的な語用とは言い難いでしょうね。こういう「現代日本語に入れるとちょっとした "軋み"が発生する」表現って、私はわりと好きで、ついつい使ってしまうんです。
— ニー仏 (@neetbuddhist) May 20, 2020
高校生や大学生であった時に三島由紀夫の文章などを読んでいると偶にあったことなのだけど、なんだか彼の使っている言葉に違和感というか、「これはどうも間違いなんじゃないか」と思われるものがあって、しかしいちおう確認のために辞書等で調べてみると、たいていこちらが間違っている。というか、より正確に言えば、「これは間違いじゃないか」という判断をする程度には知っていた言葉について、典拠や歴史的な用法を踏まえれば、別の使い方もできるのだということを、教えられることがあった。
文章を読みながらこういう経験ができるということは(私だけかもしれないが)すごく気持ちのよいことで、個人的には誇張抜きに「世界が新しく拡張された」かのような感覚がある。それまで知らなかった言葉の新しい使い方を知るということは、それまで見えなかった世界の「別の切り取り方」が見えるようになるということであり、一つ一つは小さなことに過ぎない(かもしれない)そうした視野の微細な拡大が累積することで、自分にとっての「世界」の範囲が実際に拡張されるという経験を、私は何度もしてきたからだ。
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