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ニートのSEのプロフィール

目次
1.はじめに
2.ニートの前兆
3.そして不登校へ
4.1回目の社会復帰
5.母壊れる~そしてプチホームレスへ
6.大学二回ダブり!
7.ニート生活
8.ITスクール時代
9.2回目の社会復帰、美味しい話なんてないと悟る
10.半年で何故かスペシャリストに
11.転職~これから
12.まとめ

1.はじめに
私はどこにでもいる30過ぎのSEである。
普段はSES事業の会社で客先に常駐し業務用アプリケーションを作っている。

現在、この仕事を始めて3年ほどが経過した。
じゃあ、その前は何をしていたのか?
"ニート"である。

これまでの振り返りと自己紹介を兼ねて、筆を取った。
IT関係の人だけでなく、

同じような経験をしている人

現在進行形で"ニート"の人

他の人と同じように生きれない人

読んで貰いたい。

この記事が何かを感じたり、きっかけになったりしたら私は嬉しい。

2.ニートの前兆
思えば幼稚園の頃から私は浮いていた。

思い込みが激しく、やってもいないことを色々と想像してやったように思いこんだり、
同じ組の女の子を彼女だと(一方的に)思っていた。

いうなれば、生まれながら"ニートの素質"なるものがあったわけである。

意外かもしれないが、小学校に上がって案の定、すぐに落ちこぼれたわけでもなかった。
母親が教育ママであったため、小学校に上がるころ、ローマ字がかけたり九九や三桁の計算ぐらいができた。そのため、勉強では割と困らなかった。

しかし、小学校高学年になると皆が思春期になりだす。
となると"空気の読めない人”はイジメなどの"淘汰"される。
とはいえ、私が受けた虐めは机を離されるぐらいの軽いもので大したことはなかった。

ここから少しずつ"ニートの前兆"といえるものが出始めていた。

3.そして不登校へ
進学した中学は公立であったが体育系の部活動がとても盛んで生徒の9割が何らかの部活動に属しているような学校だった。
私も背伸びしてバスケ部に入ることにした。

思えば、これが誤りの始まりであった。

県大会のいいところまで行く程度には強い部活だったので、皆真面目に練習に励む。
一方、私は"生来の怠け者"なのでだんだん練習に行かなくなり、"部活動をやっていない奴はクズ"みたいな風潮さえあった学校では居場所がなくなっていた。

そして、私は気が付いたら学校にいかなくなっていた。
中学一年生の夏だった。

それ以降、中学は行っていない。
つまり、私は半年で中学校を"卒業"したわけだ。

そこから中学三年生までいわゆる"引きこもり"となったわけだが、"出会い"もあった。
PCとインターネットである。
このあたりで初めてのプログラミングを経験した。
といっても、C言語で"Hello,world"を出したり、htmlを軽く触って簡単なホームページを作った程度だったが、思えばこれが"原体験"になっているのかなと思う。

4.1回目の社会復帰
私が中学3年生の年から中学に行っていなくても高校に進学できるようになった。
なので、私も高校ぐらいは出ておきたいなと"社会復帰"をすることにした。

とはいえ、中学校の"黒歴史"からか全日制はめんどくさかったので、県立の通信制の高校に入学することとなった。
年間、学費が17000円ぐらいで後かかるものは交通費だけ。
片道1時間半ぐらいと遠かったが、週に2回ぐらい登校すればよかったので何とか通うことができた。
今思えば、コスパは非常によかったと思う。

高校を3年で卒業したが先のことは何も考えていなかったので、親の勧めもあり予備校に通うこととなった。
そして、1年の浪人生活を経た後、奇跡的に偏差値60ぐらいの大学に合格できた。

大学に行けば彼女もできてバイトもしたりして薔薇色のキャンパスライフが待ち受けていると私は思っていた。
世間知らずというか身の程知らずだったとしかいいようがない。

5.母壊れる~そしてプチホームレスへ
幼いころ、私はどちらかというとお母さんっ子だった。
小学校ぐらいのときにマザコンだと同級生に指摘されて何も言い返せなかった記憶がある。

そんな母親がある日"壊れた"。
思えば、私が中学校に行かなくなったころから兆候は見えだしたと思う。

子育てに過剰なまでに力を注いでいたが、私がマッハで落ちぶれていった。
父親とも仲は良くなかったようで、いつしか母親の中で心のバランスが取れなくなったのだろう。

母親は"現実と想像の境目"が分からなくなっていた。
精神病の一種である"統合失調症"を発症した。
私が浪人から大学に上がるあたりには完全に壊れていたように思う。
ありもしない妄想をノートに書き留め続け、一日中支離滅裂な独り言を語り続ける。
母親の部屋は私の隣だったので、夜な夜な独り言が聞こえてくるのだった。

だんだん私は実家が嫌になっていった。
父親に母親を入院させるように言っても何もしてもらえず、ある時、私の中で何かが完全に壊れる音がした。
そして、大学一年のころ、私は実家を出た。
一人暮らしだったりとか、自立といったちゃんとしたものではない。
いわゆる、"家出"である。

家を出て大学やネカフェ、たまに友達の家に泊めさせてもらったりしつつ、ホームレスのような生活をしていた。
バイトしていた上野ではホームレス向けの炊き出しが行われていたので、並んだりもした。

こうした状況が数カ月続き、さすがに父親も不味いと思ったのか母親を入院させ私と話し合いを行った。
仕送りをしてくれるようになり、ちゃんとした一人暮らしができるようになった。

6.大学二回ダブり!
肝心の大学生活の方はというと全然順調じゃなかった。
当時の私は半端じゃなく支離滅裂でとてつもなく自堕落だった。
思えば大学時代が一番ニートしていた。

バイトもクビ同然でやめることを繰り返していた。
授業もちゃんと出ておらず、当然の結果として単位も取れていなかった。
金がなかったのでブラブラとしていたが、ある日悪い友達から「パチスロで稼がないか?」と持ち掛けられた。
その友達は学費をパチスロで払っているという変わった奴だった。

しかし、彼は本物で手ほどきを受けた私はあっというまにバイトをするより稼げるようになった。
当時は平均すると週三回ぐらいでパチンコ屋に行って月2-30万は稼げていた。
親からの仕送りも受け取らなくなったが、悪い遊びも色々覚えてしまい私はますます大学にいかなくなった。

そして、私は大学を二回も留年した。
完全にアホの極みである。

7.ニート生活
大学はなんとか卒業したが就職活動などはしていなかったしアテも全くなかったので、私はそのままスロットで稼ぐことにした。
ここに完全な"スロニート"が誕生していた。
週5-6パチンコ屋に行き月の平均的な手取りは大体4-50万ほどで、ニート生活を続けるには十分すぎる収入だった。

この間、彼女や結婚どころか友達もほとんどいなかったが、割と楽しかったとは思う。
やることがなくなると近くの安いネットカフェに行って漫画をひたすら読んだり、無駄に1500円ぐらいするランチを食べる生活。

そんな享楽的な生活を気づけば5年もやっていたのだが、転機が訪れた。
大学時代、お世話になった先輩が自殺したのである。
物凄く落ち込んだのはもちろんだが、「人生って何だろう?」と考えるようになった。

自分の中で何かが壊れた気がした。
気づけば私はパチンコ屋にすら行かなくなっていた。
しばらく貯蓄だけで生活している完全なニートをしていたのだが、気づけば何かを求めて故郷へと向かっていた。

久々に訪れた故郷は驚くほど変わっていなかった。
母親は相変わらず入院しつづけていた。
鬱々とした気分は治るわけもなかったが、初恋の人と再会することがあった。
しかし、彼女は変わり果てていた。
私の母親と同じ病気で外見は見るからにやつれ、天真爛漫だったかつての面影はなかった。

結局、故郷からも逃げ出し、また鬱々と一カ月ほど引きこもり続けることとなった。
ある時、死んだ先輩が夢に出てきた。
内容はなんてことなくただご飯を一緒に食べているだけだったが、目が覚めると体が異常に軽くなっていて何か振り切れた感じがした。

死んでしまった人やいなくなってしまった人、幸せになれなかった人の分まで自分はちゃんと生きないといけない。
そう決意した私はニートを辞めて更生することとした。
生まれて初めて、人並にちゃんとした決心ができた気がした。

8.ITスクール時代
なんとなく昔からPC周りは好きだったのでITかなと思い、就職活動を始めた。
とはいえ当時の私の年齢は既に20代後半であり、その年齢でバイトもろくにやったこともない人間である。
転職エージェント経由で何社か受けるも全く相手にされず門前払いされる日々を送った。

普通のやり方をしていては駄目だと判断した私は一ヶ月就業体験ができるサービスを利用することにした。
一ヶ月就業体験したのち、改めて面接を受けて採用されるというシステムのサービスだった。
派遣された先の企業は社員数が30名ほどのIT系のベンチャー企業でここで改めてプログラミングを"再発見"した。
言語はExcel VBAでExcelのマクロをひたすら作る一ヶ月を送った。

そして一ヶ月後、すっかりその気になっていた私は十中八九採用されるものだと思い、その企業の面接を受けることとなった。
が、結果として不合格…。
世間はそんなに甘くなかった。
だけども、この挫折のおかげでスイッチが入り自分の中で"絶対にIT"という行動指針ができあがっていた。

そして改めて2ヶ月間ITスクールに通うこととなった。
費用は無料の就職活動となっているところだった。
そこで改めて経験を積み無事就職できた。

就職が決まった瞬間、自分が生まれて初めて世間に認められた気がした。
しかし、世間はそんなに甘くなかった…。

9.2回目の社会復帰、美味しい話なんてないと悟る
初めての就職した企業はSES事業をしている客先に常駐するタイプの企業だった。
社員数は50人ぐらいの中小企業だったが、最初から上流工程ができるのがウリの企業だった。

ITスクールの同期の中ではダントツでよい待遇であり、正直天狗になっていた。
このときの私は完全にアホだった。
美味しい話には裏があるものだ。
元ニートというブラック人材にはブラック企業がお似合いなのである。

入社して即日で客先常駐することとなった。
事前の打ち合わせでお客さんに渡すという私のスキルシートを見せられたのだが、経歴が盛られていた。
未経験であるのにも関わらず、既に半年間の業務経験があることになっていた。
スキルシートを見せられたのは一瞬でお客さんと事前に面談することもなかったので、軽くスルーしていたが今思えば最初の予兆だったと思う。

派遣された客先は某銀行の次期システム開発だったのだが2ヶ月目でいきなり残業時間が80時間ぐらいとなり、その後半年ほど50時間を切らない月はなかった。
月末に"残業が多すぎる。もっと減らせ"と本社の上司から電話がかかってきて罵倒される毎日。
プロジェクトリーダーのパワハラ、仕事を教えてくれない先輩。

このとき、私は"やっぱり美味しい話なんて世の中にはないんだな"と悟った。

10.半年で何故かスペシャリストに
半年後、私は別のプロジェクトに移動となった。
このときもお客さんと面談することはなかったが、スキルシートが大きく盛られていた。
"経験5年、Javaできてサーバできてネットワークできてマネジメントもできる万能選手"ということになっていた。
酷い話だが、このプロジェクトでも半年ぐらいでお役御免になった。
その次のプロジェクトも同じ感じで"経験7年のJavaのスペシャリスト"ということになっていた。

11.転職~これから
その後一年ぐらいは働きつづけていた。
あるとき、仕事が滅茶苦茶暇な時期が訪れた。
今がチャンスだと思い、転職活動をすることにした。
完全にダメ元のつもりで始めた転職活動だったが、あっさりと3週間ほどで決まった。
年収も上がったし何よりブラック企業から抜けられるのが嬉しかった。

そして、転職し私は今も元気で働いている。
めでたしめでたし。

12.まとめ
最後まで読んでいただきありがとうございました。

駄目人間な私が社会復帰して今も働けているのは奇跡だとしかいいようがない。
ITの仕事は好きだしずっと携わっていきたいと思う。
確かにITは残業やパワハラなどブラックな面はあるけども、とてもやりがいもある仕事だと思う。

何より伝えたいのは"人間は必ず変われるし努力は報われる"ってこと。
私と同じような境遇で苦しんでいる人に伝えたい。

私も自由にのんびりと生きていきたいと考えている。

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