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めんどくさがり屋のひとりごと⑨「不自由な自由の不自由・その4 予定調和にゃ程遠く」

入院してから三日ほど経った頃、主治医の長澤先生(仮名)が定期観察にやって来た。
顔の動きを診て、どれほど回復しているのかを確認するためだ。

最初に目をギュッとつぶる。
次に片目ずつウインクをする。
そこからおでこにしわを寄せる。
その後小鼻をピクピクさせる。
最後に口を「イー、ウー、エー」と動かす。

これを回診の度に行う。
この三日目の時点では、微塵も動いていない。
動かすためには点滴、投薬、そして顔のマッサージが必要となる。

点滴や服薬開始と同時に顔のマッサージをすると、顔の神経が回復していない状態で行うために逆に神経を損傷してしまうらしい。
ただ、私は入院前に一週間服薬をしていたので少しは症状を抑えていたと判断され、この段階から顔のマッサージを開始することを告げられた。

マッサージの順番は問わないが、もらった紙に書かれていたマッサージをすべき箇所は目尻、頬、鼻、口だった。
それぞれを神経の向きに合わせて任意の回数、神経に届くように指を沈めて円を描くようにマッサージをする。
そこに加えて、リンパを流すように神経に沿って耳の下の神経が集約している部分に向かって指を動かす。
それを一日数回、自分で決めた時間に行うように説明を受けた。

それからと言うもの、私は暇さえあれば顔のマッサージに勤しんだ。
起床時、朝昼晩の夕食後、就寝前、あとは「やっとくか……」と思った時。
カーテンで仕切られているので誰かの眼に触れるような心配もせず、ひたすらに顔をもにゅもにゅと擬音がつくような感じでマッサージをした。
元々耳の下の痛みが発端だったので、神経を目覚めさせようと神経流しをすると終着点の耳の下に触れるたびに鈍い痛みが起こった。
また、汗で顔がベタついて何度もウエットティッシュで顔と手を拭う羽目になったので、その工程が面倒だった。

それに加え、定期的に点滴の針の刺す箇所を変えねばならぬ影響で、右肘の内側に刺さっていた針が今度は左の手の甲に刺されることになり、上手く左手を曲げたりすることが難しくなった。
手首よりは抜けないことは判っていても、少しでも拳を作るように曲げようとすると抜けないかと心配になり、おまけに刺さっている箇所に鈍い痛みが走って鬱陶しさを感じた。
それでも、どうにかこうにか顔を揉んだ。
トイレの鏡の前でやってみると、にらめっこで多分勝てそうなほどのへちゃむくれがそこにはいた。

そして前回の投稿のように入院から一週間後、少しだけ左の口角が上がるのを眼にしたのである。
その時、「あ、これは治るかもしれない」と僅かばかりの光明が見えた。
必要なこととは言え、正直マッサージの有用性を信用していなかった私にとって、それは有用性を信用するに値する大切な欠片だった。

これに味を占めた私は、さらに顔のマッサージに勤しむ。
2週間入院することは決まっているのでそれを縮めることは出来ないけれど、退院時には少しはマシな状態で娑婆の空気を吸いたい――その一心でもにゅもにゅと顔を揉んだ。

その甲斐あってか、回診にやって来た長澤先生には「結構回復が早いですね……」と若干引かれた。
その証拠に、食事で口を動かす時のぎこちなさが次第に解消されていた。ただ、味噌汁やペットボトルの飲み物を飲む時は吸うのではなくて少量ずつ流し込むスタイルに変更していたので、吸引力に関してはまだ回復は先の話である。

以前にも話したように、当時世間はGW真っ只中。
情報番組ではレジャー施設をタレントが満喫する映像を垂れ流していたが、旅行やら遠出に関心が無い私にとっては羨ましさを感じなかった一方で、「コナンのイベント行きたかったなぁ……」と既にチケットを取っていたイベントへ行く予定が断たれたことや、大量の文庫本蔵書の一部を帰省時に持ち帰って実家に保管する予定などの決まっていたスケジュールの狂いに関しては、「もうメチャクチャだわ」とリスケすることの面倒さを感じた。

早くのびのびと日の元を歩かせてくれないかな、と思いつつ点滴の滴下を見つめる。
ぽたり、ぽたり、ぽたり。
一定のリズムで点滴が落ちる。
時間はどんな時も早く進むことは無いようだ。

起床して、決まった時間に食事して、点滴をして、暇つぶしに読書して、テレビを観て曜日感覚を保って、定期的に入浴して、そして寝て――それを繰り返して2クールが終了した。
その時点でステロイド薬の点滴は終わり、残りの5日間は別の神経修復のための点滴を打つことになった。
退院までのカウントダウンはもうそこまで来ていた。

しかし、そこからが長かった。
持ってきた本を読み終わってしまい、小説の構想も少し行き詰まり、何もすることが無くなってしまった。
寝るのにも飽き、平日午前のテレビは物足りない。
さて、何をしようか……そう思った時、売店の様子を思い出す。
懸賞パズルの雑誌が何種類か売っていた。
そうだ、その手があったかと売店へ急ぐ。

私は中学から高校の頃、懸賞パズルの雑誌を毎月買って応募していたことがある。
いつも現金か金券に狙いを定めて応募していたが、生憎それが当たったためしは無い。
ただ、一度だけWiiが当たったことがある。しかし、ゲームに興味の無い私たち家族には宝の持ち腐れであったので、母の友人に一万円でそれを売った。
そこからしばらくして、懸賞熱はスーッと冷めていき、その後も幾度か熱を帯びることはあったが、あの頃のように熱中することは無かった。

売店へ行き、昔よく買っていたパズル誌を探すが、どうやら置いていない。先日視た時には売っていたので、売れてしまったかもしれない。
ならばと、陳列棚で再度品定めをする。
すると、漢字パズル専門の雑誌があった。
生粋の漢字の変態である私だが、パズル誌に関しては幅広く楽しみたいので専門誌は買っていなかった。
ただ、目当ての品は無く、他の雑誌の賞品には食指は動かない。
となれば、少しでも集中出来るものがいいのかもしれないとそれを買い、残りの5日間はそれに没頭した。
やっぱり漢字は、私を耽溺させてくれる力を持っているようだった。

そうして日々は過ぎ、5月10日の退院の日はやって来た。
退院当日の点滴も、やっぱりぽたり、ぽたりと静かに滴下していた。
早く落ちろと思いながらも、少し名残惜しさも感じた。
しかし、家に帰ってゆっくりしたい気持ちがそれを上回り、結果、改めて早く落ちろと思った。

点滴のさなかで最後の回診にやって来た長澤先生は一通り顔の動きをチェックして、次の外来の予約を確認して去っていった。
とても淡泊な先生というのが、2週間通しての感想だった。

そんなこんなで点滴が終わり、退院する身支度を整え、あとは看護師さんからの退院後の説明を聞く……はずだったのだが、待てど暮らせど看護師さんはやって来ない。
診察券も薬もまだもらっていない。忘れられているのだろうか。
いや、ナースステーションへ行くんだったか。
そんな気持ちで荷物一式を携えてナースステーションへと行く。

「……あのぉ、診察券まだ返ってきてないんですけど……」

恐る恐る、そこで見つけた別の看護師さんに訊く。
すると、看護師さんは「……あー、そうですかぁ。すいません、もう一度お部屋戻っていただいてもいいですか?すぐにお持ちしますんで」と答え、キャリーケースをゴロゴロ言わせながらまた病室へ戻った。

戻ってから少しして、その看護師さんがやって来て諸々の説明をして、あとは下で精算をするだけとなった。
よし、今度こそ帰ろうとしたら、本来説明をしてくれるはずだった看護師さんがやって来た。
最後の挨拶に来たのかと思った。すると、あまり浮かない顔をしている。
何故だろう。そう思ったら、看護師さんは言った。

「すいません、もう終わってるかと思ってました」

……おいおい、点滴終わってから1時間、私待ってたんですけど?
あなたが来ると思って、待ってたんですけど?
あなた、点滴外した時に「診察券とお薬をお渡しして退院です」と語っておられましたよね?
それは「後で私が伺います」という意味じゃなかったの?
そう思った。

ただ、規模の大きい病院なので、1人当たり受け持つ患者さんも多い。
だから、全てに手が回らないこともあるだろうから仕方無いか、とも思い、その場は「あぁ、そうですか……」としか言えなかった。
自分の存在感の無さがここで発揮されるとは、まったく私は……。

それでようやく精算までこぎつけ、昼過ぎにようやく2週間ぶりに外の空気を吸うことが出来た。
そこから駅に向かって帰るわけだが、ほとんどベッドの上で過ごし、2週間病室と売店の行き来のみだったので体力が落ちたらしく、少し歩くだけでバテた。
それでも家には帰りたかったし、定期購読の雑誌も受け取りにいかねばならなかったので、ヨボヨボになりながらも用を済ませて、帰宅した。

その日は何もやる気が湧かず、翌日水曜日も体力が回復しなかったので休むことになり、木曜日から出社となった。
会社の方々からは心配の声をいただき、ジャスティン・ビーバーが私と同じ病気にかかったことが分かるまで病状の説明に面倒を感じながらも、現在まで日々を過ごすことになる。

中々忘れられないGWは、こうして幕を閉じたのであった。
次の投稿では、その日々の中で考えたとこを連ねることにしたい。
だからもう少しだけ、お付き合いください。
では、また。

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