神と会う方法。「道(どう)」という古来からのエネルギー再生術
最近、ずっと気になっていることを考察してみたいと思います。それは「道(どう)」と付く古来からの技術についてです。柔道・空手道・弓道などの武術。そして茶道・書道・華道などの文化です。
「弓道」で例を上げてみます。
全日本弓道連盟のホームページには、こういう一節があります。
わたし自身は弓道に触れたことはありませんが、生家の近くに大きな武道館があり、子どもの頃から通りがかるたびに弓道の練習を見かけました。静かに、黙々と続けられる稽古を離れたところからよく眺めていました。
左脳意識を抑え、右脳意識が発動する
弓道では、無心をめざすのだそうです。
的に当てるのではなく、的に当たる弓を引く。
そのために、徹底して動きの指導を受けます。
立ち方、足の開き方、呼吸の整え方、気力の満たし方、弓を掲げ、そして矢を引き、
「心身と弓矢が一体となり、当てたいという欲望を捨て、不動の心とともに何かが満たし、そして熟した果実が落ちるように自然に、指から矢が離れていく」
無心であればそのような弓が引ける。それをめざすのが弓道である、と。
この部分に注目して、オカン流の言い回しに変えてみると、こういうことなのではないでしょうか。
正しい動きを師から習い、習うまま素直な心で動きをくり返しなぞりつづける。身体の運動神経と脳の神経回路が同期をくり返し、やがて、身体の運動神経のほうから脳の別の回路への道がひらく。それは自我のある左脳側の束縛を超え、右脳にある本然の意識とつながる。わたしを超えた何かがあらわれ、これまでなぞってきた動きをとおって、その何かが矢を放つ。当てようという心の無い、当たる弓が引かれた。
その何かを発現させるための、くり返しの稽古がある。
つまり、古来からある「道(どう)」と名のついた技術とは、くり返す動作のなかで左脳の意識システムをオフにし、鍛えた身体神経から右脳の意識システムを発動させるためのものではないでしょうか。
ではなぜ、わたしたちはその「何か」が自身の身体をとおって現れることを願うのでしょうか。
それはいわば、無意識です。
無意識が、意識を超えて発動してくる。
個人の心を超え、もっと大きな何かが自身の身体を通じて発露する‥‥。
それはまるで精神病ではないでしょうか。意識が無意識を制御できなくなったということには、ならないのでしょうか。
ハレとケ
このとき、連想して思い出されるのは、日本古来のエネルギー論、「ハレ」と「ケ」です。
いまでもお祝い事の日を「晴れの日」と言い習わします。
ハレは特別なこと、死からの再生、祓い祓われ、新しいエネルギーに満たされること。
その反対のケとは、日常の気・エネルギーです。日常のなかで、ケが消費されていきます。やがてケが枯れ、ケガレ(穢れ)となります。
ケガレが死や大病とならぬまに、ハレを呼び込まなければなりません。特別な日、再生の日を。
太鼓を鳴らし、踊り、祝い、洗い清め、めでたい柄の祝い着を身に着けて、自己意識を変容します。
この連想をまとめれば、つまりわたしたちは普段、左脳意識で生きていて、その日常ではエネルギーを再生できないでいるのです。
そこで、左脳意識のレベルを下げ、右脳意識を自由にして表面に出てきてもらおうとします。
そのために有効なのは、集中とくり返しの動作です。
集中とくり返しの動作には、左脳意識をうんざりさせて催眠のような状態にさせる効果があります。
ですから「道(どう)」は皆、くり返しです。同じ動作を運動神経に記憶させ、その神経を鍛え、そして高い集中力からの左脳意識の低下を起こします。その身体神経を通じて、右脳意識がめざめ、表面化し、発露します。
そこにハレがあり、再生があり、古来から人々は神を見たのではないでしょうか。相撲が神事であったということも思い出されます。ものすごく鍛えられた、強くて大きなお相撲さんが、心を修めて四股を踏むと、ハレのエネルギーが呼び込まれるのです。実際に、ケガレが祓われるのだと思います。数値では測れないかもしれませんが。
わたしたちはずっと、左脳意識に取り囲まれていて、何かの祓いを行わなければ右脳意識の存在すらも感じられなくなっている。すると、ケガレが起きてエネルギー不足になる。左脳由来のストレス物質が身体を満たしてしまい、健康を損なってしまう。
神に触れたい。
神によって再生したい。
巨大なエネルギー、わたしがわたしを失うときに地の底から上がってくるもの。大波のように、大風のように激しくもあり、朝霧のように静かでもあるもの。それに触れたい。
生かされたい。
神に会う、現代版。
こうしたことをずっと気になっていたのは、いま、研究所の内部を一生懸命作っているからです。システムが効果的であるよう、意図とずれていかないよう、常に中心にいようと心がけているのですが、その中心のイメージがこれらの「道(どう)」だったのです。
現代版の「道(どう)」でいよう。
それをめざそう。それ以上でも以下でもない。
左脳意識を抑え、右脳意識が発動するのを体感すること。
そこには大切な意味があると感じるのです。
わたしたちは皆、自己の内側で神に会いたいのです、きっと。
ほんの少し昔にさかのぼれば、祭りの太鼓や笛の音、盆踊りの単調で流れるようなくり返しの動きがありました。節目を祝う行事があり、先祖の法事があり、人々のふれあいがあり、自然が身近にあり、どろどろに汚れたり、びしょ濡れになったり、生々しい生があったのです。
ここにきていろいろあり、消毒と漂白と、コンクリートやガラスに囲まれて、清潔ではありますが生々しさに欠けた生活を送っています。
いま、まさに、わたしたちの内側に向けての「道(どう)」が望まれている気がしています。
強い生命エネルギー、停滞したものを洗い流すような、神さまの発露を体感したいという欲求が、誰の内にもあるのではないでしょうか。
そうそう、右脳意識は神とイコールなのでしょうか?
わたしのなかでは、切れ目のないつながりと、大きなシステムとして認識されているので、いつも一緒くたになってしまいます。
その答えはぜひ、ご自身で体感してみてください。
人生最高の日になると思います。
そうしたシステムを作り上げたい!
いやもう、ほんとに(ジタバタジタバタ)。
あと少し、奮闘いたします。