【言葉遊び空論10】倒置反復法

 霊術家:星天学は かく唱える

 健全なる精神は、健全なる身体に宿ると云ふのは消極的な考へです。身体を丈夫にすれば、精神も健全なるであらうと云ふのは、少くとも積極的に精神を研究せんとする吾人の格言ではあり得ないのです。
 健全なる身体は、健全なる精神に宿ると云つてこそ、始めて私達の考へが満足されます。
(神霊術講義録 第一巻『精神統一法及気合術』より)

 今 注目して 頂きたいのは 太字にした 二つの文だ

 既に お解りの事であろうが この各文では 「精神」及び「身体」の 二つの語句が 入れ替わって 表現されている

 ふと 「One for All, All for One」 といったような言葉に 類似性を見出し 想起する方も 多い事だろう

 2つの語句の配置を 入れ替えて 2種類の文を 生成する こうした技法は 倒置反復法と 呼ばれる

 お笑い芸人:江頭2:50は かつて 「”かっこいい”はかっこわるい ”かっこわるい”はかっこいい」を ポリシーにしている という旨を ラジオで 話していたが これもまさしく 倒置反復の好例であろう

おりおり0602

(朝日新聞より)



 惹句(キャッチコピー)や 詩的な強調表現など 倒置反復法は じいっと目を凝らすと まるで 動物園の レッサーパンダや シロフクロウの如くに ”意外と何処にでも” その姿を拝める事が出来る

 1961年 ジョン・F・ケネディによる 国連での演説の一節で 以下のような 格言がある

Mankind must put an end to war or war will put an end to mankind.
人類が戦争を終わらせなければ、戦争が人類を終わらせるだろう。
(1961年 ジョン・F・ケネディの国連での演説の一節より)

 また 小説家:西尾維新の 『匂宮出夢との関係』の カバーには 以下のフレーズが記載されていた

を愛してを知り を殺してを知る
を愛してを知り を殺してを知る

 こうした例を 列挙していくと 粋狂なご一統様方に おいては ロシア的倒置法が 頭をよぎり得る事と 存じ上げる

 画家:ヤコブ・スミルノフにより その知名度を 飛躍的に上昇させた ロシア的倒置法は 二つの語句 特に主語と目的語を入れ替え 後の文には 典型例として 「ソビエトロシアでは」という 語を忍ばせる

 元々は 全体主義的な 国家の統制及び監視という 旧ソ連の体制を 皮肉ったジョークであるが ソ連無き現代においては それこそ 倒置反復法のような 語の入れ替えで 楽しむのみの 代物と化している現状がある

In America, you watch TV.
In Soviet Russia, TV watches you !
アメリカでは、あなたはテレビを見る。
ソビエトロシアでは、テレビがあなたを見張る!

In America, you can always find a party.
In Soviet Russia, party can always find you!
アメリカではあなたはいつでもパーティー (party) を見つけられる。
ソビエトロシアでは共産党 (Party) がいつでもあなたを見つけ出す!

 ロシア的倒置法が 開花を見るより以前 哲学者:フリードリヒ・ニーチェが 『善悪の彼岸』146節において その片鱗を 覗かせていた事は 驚嘆に値する 

Und wenn du lange in einen Abgrund blickst, blickt der Abgrund auch in dich hinein.
おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ。



 『般若心経』の 次の部分を 想起された人は いるだろうか

不異 不異色  即是 即是

 一見して 確かに 倒置反復的ではある

 しかしこれが 前述の数例と タイプを異にしている という点に お気付きだろうか

 気付かれた方 非常に エクセレンたる着眼を お持ちのようだ

 詳細な講話に 立ち入るのは控えるが 上記の般若心経の部分は 簡易的に言うと 「森羅万象が仮説であり 仮説が森羅万象をなす」 といった具合となる

 難しく考える事は不要 ここでは 「AがBであり BがAである」 という構文で 構成されているという 実感を 所持されれば 充分である

 この構文は より簡潔に置き換えると 「色=空 空=色」 即ち 「A=B B=A」を 形成している

 では それより前の例を 見てみる

 例えば 「おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ。」を 置き換えると これは 「おまえ=深淵 深淵=おまえ」にはならなず あえて 記すとすれば「おまえ→深淵 深淵→おまえ」 要は 「A→B B→A」と 置き換える事が出来よう

 「」は”結びつける働きかけ”であって 「」の”同一のもの”という意味とは 違う

 ここは 10回ほど 復唱して しかと 腑に落とし込んで 貰いたい

 前記における 倒置反復法の神髄は 二語AとBとが 倒置される事による 二種の文の対立である

 AとBは 同一のものではなく Aから働きかけた場合と Bから働きかけた場合とで 意味が異なる というわけだ



 イラストレーター:和田誠は 疑問符を頭上で 揺らしていた

 『クマのプーさん』の中でわからないことがありました。(略)プー歌う歌に「カトルストン カトルストン カトルストン・パイ」というのがあるのを憶えてらっしゃる方も多いと思うんですが、その中に「スズメは はえないが ハエは すずめる」というところがあるんです。これが長いことどうしてもわからなくて、でも、考えると、雀は地面から生えてないけれども、ハエは暑いとき涼むことができるという意味なのかな、と思えば思えるんですが、それでもなんでそうなんだっていうのがよくわからなかったんですね。
(和田誠『ことばの波止場』より)

 この著者は 原書を 手に入れた すると そこには

 その部分をみたら
 Cottleston, Cottleston, Cottleston Pie.
 とあって
 A fly can't bird, but a bird can fly.
 と続くんです。つまり fly は「ハエ」でもあるし「飛ぶ」でもあることと、 bird は「鳥」と「鳥に餌をやる」という意味があることを使って、それをおもしろく歌にしています。
(同掲)

 これまで見てきた 倒置反復法と ほぼ同様の仕掛けが なされている

 だが 決定的に これまでの例と 異なっている点がある

 単語の多義性を利用しているという点 即ち 同一の単語であっても 入れ替えた前と後では 別の意味を表わすものとして 取り扱われている という事だ

 この『クマのプーさん』における例は 英語であった為に 成立し得る 文章であり 著者の和田誠も 「日本語に訳すことがほとんど不可能だと思います」と 言い切る 

 しかし 潜在的な男気か 著者は 以下の様に 訳を試みていた

ぼくは、「鳥は生(ハエ)えない ハエは取り(トリ)たい」っていうふうに訳したんですね。鳥とハエというのをそのまま生かしてやったんですが、それでもあんまり上手な訳とはいえません。やっぱり鳥は生えないというところに無理があるんですね。
(同掲)

 著者にしてみれば 自身の訳も あまり芳しくない 評価であったと 見える

 しかし!!

 この著者は同時に 神戸どうぶつ王国が 日本で初めて スナネコを迎える という 吉報の如く 素晴らしい インスピレーションを 手に入れた

 説く

 倒置反復法では 単語自体を 入れ替える操作であった

 対して 上記「トリ・ハエ」の例において 入れ替える操作は たった2字の文字列同士 という単位にまで ぐっとコンパクト化された

 この教示を受け 著者は 数々の秀作を 生み出すに至った

とりとらない とらとりたい
やまゆきたい ゆきやまない
きりつめたい つめきりたい
むしはねても はねむしるな
まちはしって はしまちぶせ
むらはなれる はなむらさき
にじなみまに なみだがにじ
(同掲)

 著者の開拓により 倒置反復法に 比べると ずっとルールは 易しくなった

 というのも ここでは 2つの文字列が 前文と後文で 入れ替えられていればそれだけで良いのであり 双方の文の構文(「─が~である」などの様式)が 同一である必要は 必ずしもない

 筆者は この技法を カトルストンパイと 便宜的に呼んでいる

自作

しなかちたい かちしなない
(品は勝ちたい 価値は死なない)

つきいきたい いきつきない
(月は行きたい 粋は尽きない)

あわわりたい わりあわない
(泡を割りたい 割に合わない)



拝啓

 カトルストンパイ 倒置反復法 なるほど解りました

 しかし 顧みるに 双方の技法では 「構文の完全なる一致」 という条件は 必ずしも 満たす必要はないと 見受けられます

 その意味では 創作に至る 敷居は 非常に抑えられている 事でありましょう

 さりとて 完全求むるは 世の常 欲求の常 好奇心の常では ございませんか

 「言葉が入れ替えられ」「構文の完全なる一致」かつ「前後文で意味の異なる」ような 技法は 何処にあらせられましょうか

 敬具

 こんな便りは 筆者の親元からすら 送られてきた 憶えなどないが この問いへの 備えとなる 答えは 持っている

 ある!

 正確に言えば そのような技法を 提唱した者がいる

画像1

【募集】お題「こんなAはいやだ」における回答Bが「こんなBはいやだ」でも回答Aを成立させる、というパターンがあったら教えてください。

画像2

A→Bの関係とB→Aの役割上の関係がまるで違ったらかっこいいと思うけどそれを成立させるにはノーベル賞級の頭がいりそう

 ライター:小野ほりでいの 現在は既に削除されている 過去のアカウントでのツイートである

 言わんとする事は 倒置反復法のそれである事は お解りだろう

 ここでは当人は 「問:こんな〇〇はいやだ 答:▼▼」 という構文で あえて固定している

 そして それによる 本人の作が 以下の様になっている

こんな最高裁判所長官はいやだ → キラキラネーム
こんなキラキラネームはいやだ → 最高裁判所長官

前文における 問の中の「最高裁判所長官」と 答である「キラキラネーム」が 後文では 配置が 入れ替えられている

 あまり 細かい解説は 野暮ったいであろうが あえて付すと 「”キラキラネームの最高裁判所長官”はいやだ」 と 「"最高裁判所長官というキラキラネーム”はいやだ」 という意味で 全く意味の異なった 二文となっている

 こうした 「二語の入れ替え」によって 「意味が異なる二種の文」が 成立する技法を 提唱者の名にあやかり オノグラムと 筆者は呼んだ

 オノグラムは 倒置反復法に 最も 厳格な条件を課した 技法とでも言えよう

 しかしながら 当人の別作 あるいは 当人に対するフォロワーからの作 という形での 他の例は 結局のところ 挙げられては いなかった

 当人が 「ノーベル賞級の頭がいりそう」と 言い放った事からも 余程の 難易度である事が 窺い知れる



 入れ替える 二語以外は 文中一切の文字を変換せず 別の文章と為す これが オノグラムの 神髄 かつ 倒置反復法の 究極

 如何に 攻略をすべきか

 こうした場合は まず 最単純化モデルを 構築するに 越した事はない いや 入門の基礎と 言ったところか

 例えば

 「パブロフの犬」という言葉の 「パブロフ」と「犬」の配置を 入れ替えると 「犬のパブロフ」となる (条件反射実験の一例の俗称である という事は ここでは一旦不問とする)

 前文は 「”パブロフ”という人物の飼育している”犬”」のニュアンスを 嗅ぎ取れるが 後文は 「”犬”の名前が”パブロフ”」であるような ニュアンスに なっている

 これによりて 一応の 最単純化モデルは 成立しているものと 思われる

 であれば 次の例は 更に シンプル化しているのではないか と問われる方が いるかもしれない

 日本 ⇔ 本日

 指摘は面白いが このケースは 単語の文字列逆転である為 可逆語 と称した方が 無難だろう

 ついでに言えば 狡猾な策士が

 百円 ⇔ 百円

 などと 回答された場合には その機転を褒め称え 満面の笑みを以て 落第の印を 授けよう

 因みに 

なかに った(田舎に寄った)
なかに った(夜中に行った)

 このようなケースも 認定を下すに 受付も些かの 渋りを 見せる事だろう

 厳密には この技法は 語頭転換 もしくは スプーナリズム と呼ばれる 技法である

 スプーナリズムは 特に 文節の一文字目同士が 入れ替わっているケースが多く また 本来は 音の滑稽さを 引き立たせる手法である為 単語として 成立しなくなっても 良い事となっている (当然 たまたまにして 別の意味を持つ言葉に なるというケースは あるだろう)

 「あつはなつい(夏は暑い)」 などで お馴染みの 技法ではあるが 倒置反復に類するジャンルでない事は ジャンキー大山も 認めざるを得ないだろう

画像3

自作

国のを紹介する
国のを紹介する

こんな目覚ましは嫌だ→悲鳴(アラーム音が悲鳴になっている)
こんな悲鳴は嫌だ→目覚まし(「目覚まし!!」という叫ぶ悲鳴)

「私は医者です」「診察室へ行って下さい」
「私は診察室です」「医者へ行って下さい」



 傑作は忘れた頃にやって来る

 カトルストンパイ

 オノグラム

 倒置反復法に類する これら技法は 今なお 進化の途上である

 新たな技法を生む事は 偉業であるが 既知の技法を研鑽極むる事は それと違わぬ 功績である事 是が非とも 心中に留めて 頂きたい

 特に今 触れる事では無いが 立川談志も言っていたではないか

酒が人間を ダメにするのではない
人間はダメな存在である という事を 確認する為に酒はある

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