【言葉遊び空論05】回文 ~方法的厳守の可能性~
回文とは 『表記された文字列が正順であっても逆順であっても同じ並びになる文』である
通常は 『前から読んでも後ろから読んでも同じになる文』 もしくは 『上から読んでも下から読んでも同じになる文』といった 説明が なされている
『逆にしても(反対から読んでも)同じになる文』などと 言ってしまうと ここの”逆”・”反対”を 何故か 対義語・反対語だと 解釈し 「"ミギ"を反対で読んでも"ヒダリ"だから同じにならないじゃないか」 などとノイズを喚き散らす ”愚劣”の擬人化如きが 多少なりとも 発生する為 注意が必要だ
それはともかく
この回文ほどに 知名度を持ち 更に 作品性や競技性といった面にまで 発展を遂げた言葉遊び技法は そうあるまい
時は十二世紀鎌倉 日本最古と思われる 回文が白日の下に その容体を明かし それから 約900年もの 長きに渡り 多くの遊戯精鋭の 創作意欲を昂らせてきた
言葉遊びの紹介となれば 必ずその中には 「回文」の項目がある
そもそも 個人の作品集という形で 数多の回文集が 世に出でたる という点から見ても 言葉遊びとして 回文が 余程に 独特な地位を 占めているという事が よく判る
回文は その性質(ルール)も比較的 簡潔であり 創作に 手を伸ばしやすい という事情もあって 多くのエキスパートが存在し 種々の「創作法」が提示されている
なので ここでは 回文に関する事項を 資料的に紹介 解説するような理由は 何一つ無い
繰り返す
こ こ で は
回 文 に 関 す る 事 項 を
資 料 的 に 紹 介
解 説 す る よ う な 理 由 は
何 一 つ 無 い
回文作品を 拝みたければ 作品集を手にすれば良いし 作りたい・作り方を知りたい というのであれば 紹介本の一端 もしくは いわゆるプロ達の 本やブログなどが あるのであれば 目を通せば それで済む
いや そちらの方が よっぽど 内容としては 充実している
(特に 山田航『ことばおてだまジャグリング』では かなり詳細に 作者独自の 回文創りの”コツ”を 伝授しているので 回文創りが初めてである人 あるいは 今一度 原点に立ち返りたい という人にとっては きわめて参考になるだろう)
◆
回文集などの 内容には 「あるテーマに基づいて それを織り込んだ回文を 列挙していく」 という王道パターンが 存在している
食べ物がテーマであれば 食べ物の名前を 織り込んだ回文を並べ はたまた 政治がテーマであれば 税だの役人だの国家だのを 織り込んだ回文を 並べている
もしくは カルタ方式で 50音を文頭にした ”回文カルタ” や ストーリー展開されている という ケースもある
つまりは 「ある事物・事柄をどのように回文で読んだか」 というのが おおまかな 趣向となっている
だが ここでは そうした 王道に 敢えて背き 全く異なった 回文への アプローチを 行なう
すばり 回文の制限 についてだ
はて 制限とは?
回文には 大前提として 「文字列が正順・逆順でも同一になる」という ルールを有しているが これも”制限”の一つには 違いない
しかし 回文には それ以外にも 幾つかの ”制限”が 備わっている
「文字列が正順・逆順でも同一になる」という制限は 回文を回文たらしめる 最も重要なルールであるが それ以外の種々の 補足的制限も 幾つか 設けられている
この 補足的制限が 問題となる
後に見るが この補足的制限は 厄介な事に 回文創作主 各々によって 「寛容にすべきか」「厳格にすべきか」という 異なった主眼の下に 支配される
ただし この事情は 明確な 理由に基づく
つまるところ 両者の意見は 「創作の題材領域を可能な限り拡大していく為」であるか 「困難な条件下でどう創作出来るかに挑戦する為」であるかの どちらの態度を 優先しているか という違いだ
もし 「どちらが優れた意向か」「どちらが正しい見解か」といった 議論を期待した人が おられたら 即刻に 立ち去り より有意義な趣味に 専念する事を 推奨する
そのような論展開は ここから先 一切 登場しない
ここで行ないたいのは 「寛容・厳格を問わず その制限設定を 徹底して厳守した場合 回文はどのように なり得るのか」 という事だ
言い換えれば 「設定された制限を極限まで突き詰める」行為を 回文で試行する という事になる
デカルトが あえて懐疑論を極限まで突き詰めた末に 近代哲学の目指すべく問題の 出発点を新設したように フッサールが あえて独我論を極限まで突き詰めた末に 現象学という思考技術を創始したように
まぁ 参考にしたのは ”極限まで突き詰めた”の 部分だけだが
一先ず ここからの話は どちらかと言えば 回文創りそのものを楽しむ人にとっては あまり関心を持たれない内容で あるかもしれない
むしろ 自分自身の探究心に忠実な人(専門的な用語を使えば”縛りプレイ”や”やり込み”要素に目が無い人)ほど ここからの話は かなりの 関心と共感を抱いてくれる事だろう
なお 以下に掲げる 諸々の回文例では 「現代仮名遣い」である日本語を 基本表記とし かな・カナや漢字以外での日本語表記(ローマ字など)は 除外した
◆
回文にある 幾つもの 制限の中から 4種を 取り上げてみる
【1 清濁】
回文の補足的制限の中でも 代表的なものが 清濁 すなわち 濁音(濁点)の扱いである
多くの書籍では 「清音・濁音の区別は問わない」 「暗黙的に濁点の有無は自由」 「清濁は許容した上で回文は成り立っている」などと 触れている
エゴのみかと神の声
[エゴノミカトカミノコエ]
(杉本寛『回文ことば遊び資料館』)
上記の回文では 文頭の「エゴ(えご)」と 文末の「声(こえ)」における ”こ”の字の 濁点有無が不問になっている事で 回文としての体を 許容している
表音で記した時に 濁点を省いた状態で 正逆どちらの順でも同一の文字列となれば 回文は成立する と見做しており かなり市民権を得た 制限内容であると言える
一方で 厳密に清濁を統一させた回文を 創る人も 少なくない
断崖か果たして下は海岸だ
[ダンガイカハタシテシタハカイガンダ]
(島村桂一『さかさコトバ回文遊び大事典』)
密談 新聞は半分死んだ罪
[ミツダンシンブンハハンブンシンダツミ]
(南雲晴樹『ハイカイハ』)
多くで この清濁区別不問が許容されるのは 「日本では古来 濁音に濁点を付けない 慣習があった」事が 要因ではないかとの 見方もある
だが それを後ろ盾として 「だから回文は清濁の区別は必要ない」と 唱えたとしても 「現代的な表記を 尊重するならば 清濁が区別されない文章というのは 理に適わない」という反論が 当然 噴出しても 不思議ではない
結局のところ 「そういう慣習があった」というのは 清濁不問の切欠の一つである とは言えるだろうが 清濁不問の根拠 として持ち出すのは 不適切という事になる
言ってしまえば 「厳密に清濁を区別してしまうと 作品創作の幅が狭まる為 清濁不問は許容されても良いはずだ」 という心境が むしろ本音であると考えられるし だからこそ こちらの方が 清濁不問の 理由としては 一応 納得は出来る
さて 本題はここから
回文創作の 一般的な補足的制限として 清濁の不問がある という点は 以上で ご理解 頂けただろう
では この清濁不問という設定を 一度 徹底した形で いわば "極端に従った"形で 書き表わしてみよう
以下 自作4文
①酒と菓子と、ここからが午後。ドジが土下座
[サケトカシトココカラガゴゴドジガゴゲザ]
②すぐ手が剥げた画家だけ、馬鹿で屑
[スグテガハゲタガカダケバカデクズ]
③タップ、土壇場で仕込み、半端見越してパンダとブった
[タップドタンバデシコミハンパミコシテパンダトブッタ]
④意外、原罪断言!大懺悔、遺骸
以下意見。再探検、退散警戒
[イガイゲンザイダンゲンダイザンゲイガイ]
[イカイケンサイタンケンタイサンケイカイ]
一つずつ 解説と行く
①「酒と~土下座」は 折り返しの ”ら”を基軸に 前半が全て清音 後半が全て濁音 となっている
折り返し部分を 軸として考えた場合 どちらか一方に 濁点が使われている という例は多いが(短文例「タンス盗んだ」) それを極端な形で 構成すれば このようなものが 仕上がる
②「すぐ~屑」は ご覧の通り 一字置きに濁点が付く 構成となっている(短文例「銀行黄金期」)
この構成が 特に威力を発揮するのは 文字数が 偶数である場合で それにより 対称となっている文字全てが 前半と後半で 濁点有無の入れ替わりが 生じる事となる
③「タップ~ぶった」は ②における ”清濁の入れ替わり”という点を 応用したものだ
全てでは無いが 清音と濁音の交換 がなされており 更に それだけではなく 濁音と半濁音の交換も なされている(短文例「ピンクの軍備」)
④「意外~」「以下~」の2つの回文は 濁点の有無によって 2通りの回文になる ものだ
ある意味で この④は 清濁不問というルールを 最も逆手に取った 例であるとも 言えるだろう(短文例「昼から刈る日」「ビルからカルビ」)
因みに 「意外~」の回文は 全ての文字が濁音 という事では無いが 「地団駄」「ゴンルゴンゾーラ」「ギャグマンガ日和」などと同様に 濁音可能となる文字全てが濁音となっており これは 完全濁音語と 呼ばれる言葉の類である(提唱:@error403)
◆
【2 促音】
促音とは「っ」 いわゆる タ行の「つ」の 小文字を指す
促音は 通常の(大文字である)「つ」と区別しない というケースは 確かにある
だが 大方の傾向としては むしろ 「小文字として使用したら対となる側も小文字で統一させる」ケースの方が 多数であるように 見受けられる
ビン取ったら、腹立つトンビ
[ビントッタラハラタツトンビ]
(石津ちひろ『まさかさかさま動物回文集』)
※大文字・小文字の区別なし
窒素販売盤はそっち
[チッソハンバイバンハソッチ]
(伊藤文人『脳を鍛えるさかさことば』)
※小文字で統一
促音は 文字列を逆にしても 比較的 別の言葉に出来るものが 多く 小文字としての統一は やろうと思えば ”意外と”どうにかなる
小文字で統一する作者が 比較的多いのは その為かもしれない
(勿論 促音の後に ア行・ナ行・ハ行・バ行・マ行・ラ行・ワヲンが来る場合は 困難であるが)
鉄火 ⇔ 勝手 [テッカ] ⇔ [カッテ]
タッチ ⇔ 散った [タッチ] ⇔ [チッタ]
どっきり ⇔ リキッド [ドッキリ] ⇔ [リキッド]
達成よ ⇔ 良い雪駄 [タッセイヨ] ⇔ [ヨイセッタ]
決死の疾駆 ⇔ 屈指の湿気 [ケッシノシック] ⇔ [クッシノシッケ]
促音においては 「促音なら促音で統一させる」ケースが 多いと言った
だが 大文字と小文字を区別する という制限下で 大文字である「つ」と 促音である小文字の「っ」を 同一の文中に 含ませている(簡単に言えば 「つ」「っ」が それぞれ2個ずつある)回文は ほぼ お目に掛らない
促音を統一させる というベクトルだけに 視点が向いているから であろうか しかしながら 不可能ではない事だけは 確かだ
以下 自作3文
①無いか怒ってる狐、金尽きる鉄塊買いな
[ナイカイカッテルキツネカネツキルテッカイカイナ]
②タイでコツっと突っ込んでいた
[タイデコツットツッコンデイタ]
③喫茶で切手迂闊に使う手付きで殺気
[キッサデキッテウカツニツカウテツキデサッキ]
①「無いか~買いな」は 大文字「つ」と 小文字「っ」の 両方を含ませ かつ区別している 回文である
そもそも ”促音”でしか「っ」が 使用されていないのであれば 「促音で統一する」という 言い方しか 出来ないはずだ
「大小を区別する」と 宣言するのであれば このように 大小両者を 盛り込んだ構成の 回文が一つでも 無ければ 成立し得ない
②「タイ~いた」は 大文字「つ」と小文字「っ」が 互いに 大小変換されている 回文である
「つっ」が一見 正順のままに なっているようにも 見えるが 「大小の区別は不問」という制限に 設定するなら このような形でも 問題ない
言うならば 前半と後半で 大小の役割が 入れ替わっているとしても 制限上は 一切 違反に触れる 作法ではない
③「喫茶~殺気」は 大小区別不問 という制限を 最大限に活用した 回文である
個別に見ていくと ”喫茶”と”殺気”は「小文字で統一」 ”迂闊”と”使う”は「大文字で統一」 そして ”切手”と”手付き”は「大小交換」 という具合に 構成されている
◆
【3 拗音】
拗音とは「ゃ」「ゅ」「ょ」 いわゆる ヤ行の小文字を指す
前述の 促音と 一括りに ”小文字”として 並列させたかった所では あるが 実際の作例を 見てみると 拗音と促音とでは 扱いの差が 見られる という現象が発生している
拗音の場合は ほぼ 暗黙的な形で 「大文字・小文字の区別をしていない」状況である
洋画。チャイルド気取る。いや、違うよ
[ヨウガチャイルドキドルイヤチガウヨ]
(大山みほ『中が回文、全部いかがかな?』)
きゅ きゅ と踏む ふと 雪 雪
[キュキュトフムフトユキユキ]
(福田尚代『ひかり埃のきみ 美術と回文』)
酔う余技言えば営業よ
ヨウヨギイエバエイギョウヨ
(トンマのマント回文倶楽部『回文人生劇場』)
促音に比べて 拗音は 制限が 緩いように 見えるが これには のっぴきならない事情が あるようだ
拗音が入る 文字列を 思い浮かべて 欲しい
きゃ きゅ きょ ぎゃ ぎゅ ぎょ
しゃ しゅ しょ じゃ じゅ じょ
ちゃ ちゅ ちょ ぢゃ ぢゅ ぢょ
にゃ にゅ にょ ひゃ ひゅ ひょ
びゃ びゅ びょ ぴゃ ぴゅ ぴょ
みゃ みゅ みょ りゃ りゅ りょ
基本的な 表記法として 拗音は (ア行・ヤ行・ワ行を除く)母音が”i”となる 文字の後に付く事が 決まっている(「フョ」などの外来語由来の表記はここでは除く)
仮に ”拗音は小文字として統一させる”と 制限した場合 回文として 文字列が逆転した時に この拗音の後ろには ”i”が母音となる 文字になる事が その時点で確定となる
ゃき ゅき ょき ゃぎ ゅぎ ょぎ
ゃし ゅし ょし ゃじ ゅじ ょじ
ゃち ゅち ょち ゃぢ ゅぢ ょぢ
ゃに ゅに ょに ゃひ ゅひ ょひ
ゃび ゅび ょび ゃぴ ゅぴ ょぴ
ゃみ ゅみ ょみ ゃり ゅり ょり
よって 回文において 拗音を小文字で 統一させた場合 拗音を挟む前後の文字は 母音”i”の文字しか あり得ない
【「きゃ」の場合】
きゃき きゃし きゃじ きゃち
きゃぢ きゃに きゃひ きゃび
きゃぴ きゃみ きゃり
⇩
きゃき しゃき じゃき ちゃき
ぢゃき にゃき ひゃき びゃき
ぴゃき みゃき りゃき
つまり 「母音”i”が拗音の前後に位置し かつ その文字列を含み成立する言葉」を 探らなくては ならないのである
例えば 拗音とその前後を挟む母音”i”の文字 計3文字の単語に限れば 逆順でも 成立するタイプは 以下の 7種類しかない
虚偽⇔御忌 [きょぎ][ぎょき]
巨視⇔初期 [きょし][しょき]
主事⇔樹脂 [しゅじ][じゅし]
所持⇔女子 [しょじ][じょし]
斜視 [しゃし]
諸氏 [しょし]
女児 [じょじ]
お解りだろうか 諸君 諸さん 諸ちゃん 諸殿 等々
促音と比べると 使用可能な言葉が 圧倒的に 限られてしまう というのが 拗音における 「大小区別は不問」と了解される 最大の理由だ
なお 当然ながら 拗音の統一を 試みる作者は 少なからず 存在している事を 追記しておく
感謝して、写真家
[カンシャシテシャシンカ]
(大山みほ『中が回文、全部いかがかな?』
反射神経が肝心か、外見写真は…
[ハンシャシンケイガカンジンカガイケンシャシンハ]
(まさに何様・闇から神谷 『さかさ言葉「回文」のすべて』)
拗音の統一を ルールに据える 創作主も いるにはいるが そのような果敢な チャレンジャーをして 作品の中に そもそも 拗音が使われているケースは もう片方の手の指を 内側に曲げ込む必要が あるのかと 思えるくらい 極めて少ない
回文に対する 拗音並びに促音の事情 ご理解頂けただろうか
以下 自作
①解釈で妬いたり邪心か。好かん謝辞、リタイヤで悔しいか
[カイシャクデヤイタリジャシンカスカンシャジリタイヤデクヤシイカ]
②抱いて密輸、樹脂。仕込むが故、歪む腰。手術未定だ
[ダイテミツユジュシシコムガユエユガムコシシュジュツミテイダ]
③弱るガタイ。拒食、吐くよ初期。痛がるわよ
[ヨワルガタイキョショクハクヨショキイタガルワヨ]
④新酒所持する、死んでいた鯱。無茶した遺伝記す助手、真摯
[シンシュショジスルシンデイタシャチ
ムチャシタイデンシルスジョシュシンシ]
⑤感謝しないな写真家/監視養い無し野心家
[カンシャシナイナシャシンカ/
カンシヤシナイナシヤシンカ]
①~③については 3種それぞれの 拗音を 区別の有無で 織り交ぜた 回文となっている
前述の 促音でも 行なった操作だが 「区別不問」を 真に表明するのであれば このように 一つの回文を以て ここまで徹底してこそ 拍が付く というモノであろう
④「新酒所持~助手、真摯」は 全ての拗音を用い かつ それらを 拗音として統一させたモノである
回文では 「ゃ」「ゅ」「ょ」のうちの 2種類以上の拗音が 含まれている回文 という例が 殆ど 見られない
そもそも 拗音1種類だけの 使用だとしても 例えば 「じょしのものしょじ=女子のモノ所持=」の「ょ」を 1対と称した場合 2対以上あるという回文も ほぼ無いのが現状である
⑤は 大文字か小文字(拗音) いずれかで 統一させた場合 2通りの回文になる 例である
モチーフは 「金杓子屋 伝兵衛 亀戸へ 引越し申し候」 という意図で 書いた看板「カナシヤクシヤ テンヘイカメイトヘ ヒッコシモウシソウソウ」が 大文字小文字の区別なく 書いてしまったが故に 「悲しや悔しや 伝兵衛が 冥土へ 引越し申し候」と 読み間違えられた というオチの 昔話『金杓子屋の伝兵衛』である
ここまで ご覧頂けれると ある事に お気付きになられた方も いると思われる
回文において 拗音を徹底して 統一させようとした場合 その前後の文字は 「シ」になる確率が 驚異的に高いのである
それは 「拗音を統一させた回文は 創作すればするほど 使用する語句(拗音を含んだモノ)が偏る」 という意味でもある
前述した 引用「感謝して~」「反射神経~」の回文でも ”写真”という語句が 共通して 使用されていた事に 内心「単語かぶってるじゃん」などと 反応した人も 少なくなかったはずだ
より砕いた口語的表現 もしくは 外来語などを 駆使すれば 間口は多少なりとも 広がるかもしれないが それでも だいぶ創作が 困難である事は 変わらないと思われる
@2nd_error403
昔の日記。謎の文章あって戸惑ったけど、たぶん回文だこれ
◆
【4 長音】
長音とは 長く引き延ばした音の事
特に カタカナ語における クソナードの「ナー」 や G・ロードランナーの「ジー(G)」「ロー」「ナー」を指す
ここでは 便宜上 引き延ばす役割を有する 記号「ー」(長音符)を指して 長音と呼ぶ事とする
ご了承願いたい
さて この長音 これまで 縷々相対した 制限の中でも 特に厄介な曲者 回文の問題児だ
<A>スターですものスキャンダル談や記すのもステータス
[スターデツモノスキャンダルダンヤキスノモステータス]
<B>行楽シーズンでお決まりの海苔巻き、おでん、寿司くらう子
[コウラクシーズンデオキマリノノリマキオデンスシクラウコ]
<C>連れ チーズ 鯖とじゃがいもを持てっ!と
じれったく立つレジ とっても重いが 野次飛ばさず一列
[ツレチーズサバトジャガイモヲモテット
ジレッタクタツレジトッテモオモイガヤジトバサズイチレツ]
<D>私デートで街まで遠出したわ
[ワタシデートデマチマデトオデシタワ]
(全て 弘兼憲史『弘兼憲史の回文塾』)
以上に挙げた 4種の回文 それぞれで長音が 使用されているのは ご覧の通りだが よぉく 見返し読み返し して頂きたい
それぞれの回文で 長音の利用法が それぞれ 異なっている事には お気付きか
<A>では 「スターです...」「ステータス」と 長音が付く言葉同士で 統一が 図られている いわば厳守に誠実な方式 であると言える
問題となるのは ここからである
<B>では 「シーズン」「...ん、寿司」が 対にあたるが お解りの通り 前半で「シーズ」であった部分が 後半では「寿司」となり 長音が 排除されている
これは 長音を 音ではなく 単に「記号」として 利用した方式であり 語句の必要性に応じて 加えられたり 取り外されたりする いわば 濁点の有無と 通じるところがある
問題は <C>及び<D>
<C>では 「チーズ」が「...ず一(ずいち)」 <D>では 「デート」が「遠出(とおで)」となっている
まず <C>では 前半に使用された 「チーズ」を 「チイズ」という音にし 「ズイチ」と反転させている
一方 <D>では 「デート」を 「トーデ」と 反転させてから 「トオデ」という音にし 「遠出」を当てている
この<C>と<D>では 長音が類似する音への代用として 利用されている事が 共通している
加えて 長音の付く言葉を 反転させる前に代用音を設定するか 反転させた後に代用音を設定するかの 差異が 見られるのだ
このように 長音は 前述の濁音・促音・拗音 といった制限に比べると その性質が だいぶ複雑である事が 理解できよう
しかも 個々の回文集などを 見渡しても 同一の創作者においても 長音を統一するか・不問とするか という趣旨自体が 触れられていない場合が多い
例えば 『軽い機敏な仔猫何匹いるか』(土屋耕一)などでも
ブーと煤が立つは弱ったガスストーブ
[ブートススガタツワヨワッタガスストーブ]
シーツ摘み義父と娘と不義密通し
[シーツツミギフトコトフギミッツーシ]
峠ルートのトールゲート
[トーゲルートノトールゲート]
というように その時々で 長音の扱い方に ばらつきが出る といった事態が 発生している
以下 自作
①このミートソースだけ貸し出し
「オーダーメードみたいな痛み止めだ」
押し出し駆け出す外見の子
[コノミートソースダケカシダシ
オーダーメードミタイナイタミドメダ
オシダシカケダスソトミノコ]
②熊のルート、ループ。リーダー代理、プール通るのマーク。
[クマノルートループリーダーダイリプールトオルノマーク]
③一番目の油絵ツール一つ選ぶあのメンバー
[イチバンメノアブラエツールヒトツエラブアノメンバー]
④話題濃い夏。芸能界、尽きないな。キツい顔のえげつない恋だわ
[ワダイコイナツゲエノオカイツキナイナ
キツイカオノエゲツナイコイダワ]
①は 前半で用いられた長音が 後半で全て排除され 構成された回文であるが よりシンプルなモノにすれば 『セーラームーン蒸らせ(セーラームーンムラセ)』程度でも 成り立つ
②は 先に解説した 長音の用法 全てを盛り込んだ 回文である
くま ⇔ まーく(長音排除)
るーと ⇔ とーる → とおる(反転後代用)
るーぷ ⇔ ぷーる(不変)
りーだ → りいだ ⇔ だいり(反転前代用)
過剰な外来語摂取によって 一見 これは本当に 日本語なのだろうかと 目を疑う
③は 形状が似ているのをいい事に 長音「ー」と 漢数字の「一」を 前半後半で 逆転使用させている 回文となっている
ふざけているように 見えるだろうが 「性質(ルール)そのものを おちょくろうという 諧謔精神」がある 一部の人々の中では 案外 発生する傾向の 一つとでも言える
問:長音と漢数字の”一”を 混在させるタイプは 横書きでしか 通用しないのでは ないでしょうか?
答:縦書きでは 漢数字ではなく アラビア数字の ”1”を用いれば その問題は 解消出来るであろう(慣用語・固有名詞は この限りではない)
「タテッイガャチッバテ」ってばっちゃが言ってた。(@error403)
ルアデンジ・ウユチウ「ワレワレワ、ウチュウジンデアル」(error403)
一休「ホイー」(@d_v_osorezan)
④は ここまで 触れていなかった 形式であり 「芸能」を「ゲイノウ」ではなく 「ゲエノオ」 いわば「ゲーノー」と 長音的に置換した形で 表している
このタイプは 先ほどにも 登場した 『軽い機敏な仔猫何匹いるか』(土屋耕一)の中にも 確認出来る
昼寝をし苦悩遠のく詩を練る日
[ヒルネヲシクノオトオノクシヲネルヒ]
「苦悩」は本来 「クノウ」と表記される
ここでは 「遠のく(トオノク)」との 兼ね合いもあってか あえて 「クノオ」と 表記しているが 結局のところ 「クノー」という 長音的な用法の 置換であると 推測される
この 長音的置換とでも 言える手法は カタカナ語が無ければ 本来 登場し得なかったはずの 長音の性質を カタカナ語が無くとも 活用が 可能であるという 示唆を与える 非常に貴重な 操作と言えるだ
そういえば 「高校生」の一語で 「コウコーセエ」などのように 長音的な用法を 粗方 詰め込む という事は 果たして 適切なのだろうか?
◆
4種の制限を 掘り下げて来た
しかし 当然ながら この4種は 制限の中の一部に 過ぎず
・格助詞「を」と「お」の扱い
・格助詞「は」「へ」と「わ」「え」の扱い
・「じ」と「ぢ」や「ず」「づ」の扱い
などと言った点も 残っている
更に 今回は 対象としなかった ローマ字をも 射程範囲として 拡大すれば
・表記法の問題(シの「si」と「shi」など)
などの面も 当然 目を向ける必要があるだろう
これら 残された制限への 言及は 演習問題として 不特定多数に 委ねるのも 一向かもしれない
既に 突き詰めの手法は 余すことなく 提示してきた
ヒントは 本文の随所に 散りばめられている はずである
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