遠く見える誰かの灯り
エドワード・ホッパーが好きだ。
正確に言うとエドワード・ホッパーの描く絵が好きだ。
エドワード・ホッパーの絵は、いつも少し離れた世界が多い。
たまにぼんやりと眺めてみる。
彼の絵はいつも少しだけ遠い。
他人との距離や、景色。
どこかでよく見る世界。
そこでは誰も私を認識していない。
決して気安くなく、誰も知らない他人、あるいは私一人か、大人しかいない世界。
だからそこは息がしやすい感じ。
そして少し寂しい感じ。
遠く離れた誰かの人生を、
日常にたまたま目に入ってきた誰かの景色を、
ぼんやりと眺める。
そのうち、それは主観になる。
私を通した世界。
誰も私を認識していないし、誰も私が誰かは分からない。
銀行の待ち時間。
通勤時の街角。
学校から帰ってから急いで行く習い事や、病院へ行く道。
映画を見に行く時、まだ来ていない相手を待つ所在のない時間。
泊まった先のホテルのベットで、ふと目を覚ますと、部屋の中は暗く、朝か夜かわからないままゆっくり起き上がり、ぼんやりと小さな頭痛を感じながら、閉めようとしたカーテンの先に見える、誰かの生活や明かり。
ささやかな、でも自分の中では大きな出番を待つ時。
冬。耳や鼻の頭まで冷たくし、マフラーに顔を埋めつつ足を早めて歩く、凍った息の先に見える店内の暖かさ。
子どもの頃。友達の家の前で、友達が出てくるのを待っている時の(一旦カバンを置いてくるだけのはずの時間がなぜか意外と長かったりするものだ)その子の家の窓や日の光。
思った以上に遅くなった、仕事の帰り道。
遊ぶ事に夢中になり過ぎて、気がついたらいつもと違う暗闇の世界を、風を切って自転車を走らせ家路を急ぐ時。
昔行った、どこかは思い出せない家族との思い出。
その車の中、電車の中で見た景色。
そういった景色を行ったり、来たりする。
誰かと、私の中とで、行ったり、来たり。する。
それはほんの少し何かを加えるだけで、消えてしまう。
一言私に話しかければ、意識はたちまちそちらへ向かう。
誰かがこちらの明かりをつければ、その明かりに飛び込めば、そのひっそりとした悲しみは形を変えてしまう。
その瞬間、現実に戻される。
私は、その中の一つの絵を、
本当に小さな絵を、部屋に飾っている。
数年前、妹から誕生日に貰った絵だ。
寂しいことは孤独ではない。
孤独とはまた違う、
冷たく澄んだ透明の空気。
寂しい事も、また小さな明かり。
その今にも消えそうな揺らぐ灯りを眺める時、世界が美しくて切なくなる。
それは、寂しいからこそ、悲しいからこそ、見える小さな灯り。
そして、私はその場所で、少しだけ息を深く吸い込む。
誰にも分からない様に。
気づかれない様に。
それから、また日常に戻る。
そういった場所が、必要なのだ。
そういった場所へ帰れるという事が、必要なのだ。
そのひっそりした場所で息をし、
私と他人だけが生き、私が誰かを生きる世界。
そういった場所から、誰かの物語は始まるから。