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写真と向き合うということー高野ぴえろ写真展「AINE」を観てー

どうして、と思った。
その写真で波打ち際に首を垂れているのは、太陽に向かい跳んでいるのは、何故わたしではないのか?
わたしではない、このひとがわたしであるべき場所にいるのは何故だ?
この女性は、わたしではないのか?
思わずそう言いたくなるほど、その展示は、その写真たちは胸に迫ってきた。

それは、中崎町イロリムラで行われた、高野ぴえろさんの写真展「AINE」での出来事。
入ってすぐの写真で、まず衝撃が走り、そこから展示を観ていくにつれ、その思いはどんどん強くなった。

なんて懐かしい。
なんて悲しい。
なんて痛ましい。
なんて無垢で無邪気な、わたしの心の塊が躍動していた。

「AINE」は、今回の被写体である大坂あいさんの告白から始まる。
「わたしには、誰にも言えない過去があります。」
その秘密のメモに、高野さんが共鳴し、撮られた写真群だという。

でも、そこに写っているのは、まさしくわたしだった。
苦悩し、痛み、もがき苦しむわたし自身だった。
いや、写ってるのはあいさんなんだけども。
でも、そこにいるのはわたしだ、と思えるほどに、胸に迫ってくる写真群だった。

あいさん自身の告白は、そこにはない。
あいさん自身に何があったかは、全くわからない。
でも、その告白は写真に強く深く刻まれていた。
そしてその告白は、高野さんというメランコリックでアイロニーに富んだ撮り手により、見事に昇華されていた。
だからこそ、わたし自身の痛みや傷跡に直接触れてきたのだろう。

解釈、はいらない。
ただ、感じてほしい。
そう高野さんは言っていた。
そうだろうなあ、と思う。
解釈、してはいけない写真群だ、と思った。
それは邪推になりかねないからだ。
だからわたしはひたすら向き合うことになった。
自分自身と。
あいさんという凄まじい被写体を媒体とし、自分の痛みや過去と向き合う時間になった。

写真は、どんどん身近な文化になりつつある。
新聞にも広告にも写真は溢れ、スマホのカメラ機能で手を出すのも容易い文明の利器。
でも、だからこそ写真を撮る意味とは?という問いがわたしには常にある。
わたしには言葉がある。
言葉でも表現できることを何故、写真にする必要がある?
その問いの答えが、そこにはあった。

言葉だと直接的すぎる。
映像だと助長すぎる。
写真だからこそ表現できることが、たしかにここにある。
誰にも言えないことを。
どんな言葉にもならないことを。
ただ突きつけること。
ただ見せつけること。
それだけを目的として、凛として佇む写真たち。
これが答えか、と思った。

この展示は、まだまだ序章にすぎない、と高野さんは言う。
一年かけて撮り溜めているけれども、まだまだ撮らなければならない、と。
展示を観て、わたしもそう思った。
まだまだこんなもんじゃないだろう。
人生が続く限り、苦悩は続く。
過去は終わらない。
生きている限り、それはついて回る。
面白くなるのは、これからだろう。

この展示が完結する時は来るのだろうか?
わからない。
そのためには高野さんも、そしてあいさんも、たくさん経験し、苦悩し、削り取られ、もがき苦しまなければならないだろう。
でも、わたしは楽しみでならない。
どこまでも行け。
どこまでも苦しめ。
そして、写真の行き着く先を見せてほしい。
苦悩の息づく先を。
そう願ってやまない。

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