XXXとは何だったのか?ー「Anti XXX〜猫撫展〜」を終えてー
猫撫展の挨拶文を考えてほしい、とビーツギャラリーの岡島さんに言われた時、その言葉はふわっとわたしの中に舞い降りた。この二文は、岡島さんの目に留まり、Twitterで猫撫展の宣伝文句として抜粋され、出展者の皆さんが拡散し、想像以上にたくさんのひとの目に届くことになる。
反応は、色々だった。いやいやそんなことないよ、と言ってくれるひと。勇気をもらった、というひと。逆に、そらそうやろ!と笑うひともいた。でも大半が、衝撃を受けてこの言葉を受け取ったようだ。
それもそうだろう。何故なら、わたしはヌードモデルで、必要以上に自分のからだをひとに晒し、ポートレートという一般的には美しいとされるものの中に自分を落とし込んでいるのだ。そのモデルが、自分を美しくないと宣言すること自体まず異例だ。
「そんなことない。猫撫さんは美しいです。」
そう言ってくれるひともいた。ありがたい。非常にありがたいことだ。でもな、わかってる。
一般的に言うたら、おれ、デブだもん。
見たらわかるだろうよ。お腹、出てるよー?顔、デカイよー?足、太いよー?それが現代において世間的に美しくないと言われることくらいみんなわかってるだろうよ。パリコレにプラスサイズのモデルが出ないように、ドラマの主人公にデブが使われるとイロモノ扱いされるように、デブは一般的に美しくないんだよ。
顔もぱっとしない。かわいい系でもキレイ系でもない。ふつうだ。ふつう。
しかし、しかしだ。
美しいとか、デブだとか、顔がぱっとしないから、といって、それが写真という媒体にとってなんだというのか?
写真はアートか?という問いがある。答えは、わたしは否だと思っている。写真は、記録だ。そこにあるものを切り取る、ただそれだけの、記録の手段だ。そこに美しいとか、美しくないとか、持ち込むのは馬鹿だ。かわいい女の子をかわいく撮って、これがポートレートだ!みたいなドヤ顔してるカメラマン。よくわからんポージングをしてにこっと笑えば表現力があると褒めそやされる被写体。そういうやつらにわたしは中指を立てる。そんなもんsnowで十分だ。引っ込め。
写真の力は、そういうところにあるのではない。写真の力は、肯定と気付きだ。ありのままの、でも普段は気にもかけない瞬間を掬い上げ、まざまざと見せつけ、それを全肯定する。それが写真の力だ。だから、美しいとか、かわいいとか、そういうのは関係ないのだ。写真には。
猫撫展で問いたかったのは、そこだ。
猫撫、というごくふつうの、どちらかというと並以下のおばはんを媒体として、写真はどこまでできるのか?ポートレートはどこまでやれるのか?
その試みに、24人ものカメラマンが乗ってくれた。まさかの大所帯。それぞれが「猫撫」という媒体に興味を持ち、魅力を見出し、自由に、楽しんで、写真の力を存分に見せつけてくれたとわたしは思っている。
ただ、問題は思ってもいなかったところから立ち上がってくる。
カメラマンたちが出してきた写真たちは、わたしが思っていた以上に魅力的だった、ということだ。
出展者のひとりであるRindaさんは言っていた。
「ここにいるひとたちは、誰ひとりとして猫撫さんがアンチって思ってない。魅力的なひとりのひととして撮ってるよ。」
わたしは、写真の力を信じている、と思っていた。でも、写真の力は、思っていた以上だった。
「Anti XXX」。このXXXの中身は、わたしが中指立ててきたポトレ界隈のひとたちのことだと思っていた。でも、それだけじゃなかった。
XXXの中身は、「猫撫」。自分が美しくないとか、デブだとか、そういうところで凝り固まってた自分自身に対しての、アンチだ。
展示を迎えて、写真が出揃った時、この言葉がふわりとわたしの頭をよぎった。それは、わたし自身への反撃の狼煙だったのだ。写真に必要なのは、美しいとか美しくないとか、そういうことじゃないのだ。ただ、精一杯生きていること。わたしが生きていることを全力で見せつけること。
それをわかってもらうために、わざわざもう一度美醜の舞台の上に自分を今一度乗せて、わたしは宣言する。いいんだよ。美しくなんてなくても。今を精一杯生きていれば。
猫撫展をする、と決めた岡島さんも、こう言っていた。
「今を精一杯生きている姿勢に胸を打たれた。」
美しいからだなんて、いらないのだ。写真には。ただ、その人生をからだひとつで生き抜いた事実。それさえあれば、写真は素晴らしくなる。そのことを猫撫展で伝えられていたらいいな、と思う。
展示に関しては、はっきり言って賛否両論あった。それは特定のカメラマンに向けられたもの、というより、「全然アンチじゃない」という意見がほとんどだ。でも、わたしは「Anti XXX」という名前で展示ができて良かったと思っている。それは、自分のコンプレックスに対してアンチと言える展示になったからだ。
それに、「Anti XXX」という名前に反応し、モデル展では異例の120人超という大人数に見て頂けた。その呼び水となったこの名前をわたしは誇りに思う。なんせ、アンチ、というのがこの展示の名目だ。アンチな意見はどこからでもきやがれ、と思う。
どんな意見も怖くはない。むしろありがたい。どんどん議論して、写真に還元してほしい。
それはわたしたちの勝利だ。
出展者24人全員の、わたしを見出してくれたビーツギャラリーの、そしてわたしの。みんなの勝利だ。
展示が終わった後、わたしはその場に在廊していた数人のカメラマンに許可を取り、いくつかの写真を破って写真を撮った。
わたしは、もうすぐ被写体活動を終了する。
仕事でちょっとえらくなる、というのが1番の理由なのだけど、このまま突っ走り続けるのはなんか違うな、と思ったのだ。わたしは自分のアンチになれた。この強い気持ちのままで、被写体を終えたいと思ったのだ。
猫撫展はもう、二度とない。きちんとお別れしたい。そう思って、わたしは写真たちを破った。そしてその様子を岡島さんたちに撮ってもらった。これで、きちんとさよならできる。きっとこれからも、この思い出を胸に、いっそう強く生きていられる。そう思った。
最後に。
わたしの試みに乗ってくれた24人のカメラマンの皆さん。
わたしを見つけてくれた岡島さんと、ビーツギャラリー。
ご来場して下さったすべての方に、感謝を。
そこだけはアンチではなく、真摯に、感謝しています。ありがとうございました。
らぶ。
猫撫