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霊性と祝祭性ー#裸性と身体性 に参加したことー

落合陽一さんをご存知だろうか。
現代の魔法使い、とも呼ばれるメディアアートの第一人者である。

と、えらそうに言ってみたが。

すんません。実はわたし、恥ずかしいことに最近まで存じ上げませんでした。
メディアアートって言葉も。恥ずかしい。

テレビ見ないし。
写真実はそんなに詳しくないし。
メディアアートの本とかも読まないし。

そんなわたしが落合さんを知ったのは、大好きなヌードモデル・半々さんを落合さんが撮っていらして、その記事が出たからだった。
連載のタイトルは「#裸性と身体性」。

白バックに、毛皮と愛し合うように絡まる半々さんは、シンプルに美しい。
裸性、むきだしであること。
身体性、からだを持つということ。
そこに真摯に向き合った丁寧な写真たちだな、と思った。

いいなぁ、と思っていたら、ありがたいことに落合さんからツイッターをフォローして頂き、喜び勇んでわたしも撮られたい旨をDMしたところ、ご快諾下さった。
と、いうのが今回の経緯である。

で、だ。
わたしは、撮られるひとの写真をある程度見て、ゆるーく作戦を立てる、という撮影前のルーティンがあるのだけど。
メディアアートが主戦場の方、とのことなので、そのメディアアートとやらをまず知らなければこのひととは戦えないと思い、noteに上がっていた展示の記事を読むことにした。

これが、凄かった。
有機物と無機物、人工物と自然、生きてるものと死んでるもの。
それらが溶け合って、でも混沌としてなくて、どれも秩序立って、静謐に並んでいる。
魔法みたいだ。
アンモナイトも、猫の内臓も、昔の道具も、虫も、みんな落合さんの写真の中では等しく、ネクタイでも締めたかの如くきちんとして写っている。

このひとの世界の見方は、今まで出会ったどのひとともスケールが異なる。
小さなものは大きく、大きなものは小さく、遠くのものを近いものと同じように手に取り、見えるものに見えないものを見出し、見えないものを可視化する。
不思議だ。

更に深く潜ろう、と思って、そこから派生して色々と読みまくったのだけど。
手当たり次第読むには膨大すぎて、しかもどれも面白くて読めてしまうものだから、途中で迷子になり、落合さんに宿題を出してもらった。

ここらへんに写真を撮る理由がある、とのことで、なるほど、と読んでみた。

そこには、存在しないもの、霊性への憧憬、があった。
非存在を存在させ、質量のないものに質量を与えても、質量のあるものは壊れ、質量のないものも忘れられる。
それらが帰る、または還る、霊性とはどこにあるのか。
霊性、身体及び身体性の対義語。
理解の及ばない場所にある、でも確かにあるもの。
存在しない、質量のない、でも、そのかけらはいつもそこかしこに浮遊している。

その、霊性に憧れて写真を撮るひとが、身体性に回帰した。
しかもひとの。
それはコロナ禍の影響とのことだけれども、すごく大きなことなんじゃないか、と思った。

当日。

その日の撮影は、もはやパーティーだった。
現場には落合さんだけでなく、同行したいと申し出てくれた脱ぐフェミニスト・人間らし子さん、もう一年くらいの付き合いがあるカメラマンmanimaniumさん(ヘッダーと、この記事に載せた写真を撮って下さった。ありがとう!)、そしてメイクをお願いしたモーニングサービスさんがいて、終始賑やかだった。
モーニングサービスさんは、がっつり強めのアイメイクを施して下さった。
原始的な儀式みたいな感じのアイメイク。
実はめちゃめちゃ緊張してたのだけど、このメイクのお陰でだいぶふっきれた。ありがとうモニサビさん。
落合さんは、わたしが服を脱いでカメラの前に立つと、感嘆の声を上げた。
ヒトの体、というより、わたしという個体が持つ肉体の、生命力と驚異に対しての感嘆の声だ。
シャッターが押される度に興奮が伝わってきた。
なんて純粋なひとだろう。
おかげでわたしはノリノリだった。
ポーズを取る時以外はずっと小躍りしていたし、気分は高揚していた。
脱ぐことによる開放感と、表現ができる喜び。
その表現を受け止めてもらえる幸せ。
何より、わたしが、生きている、ということ。

踊るわたしと落合さん

わたしがその日、落合さんに対して提示したかったのは、「霊性と祝祭性」。
目に見えない、でも確かにあるわたしという個体の霊性、つまりは魂。
その魂の器としてある身体をことほぐこと。
それこそが身体性への回帰となる。
そしてヌードは、祝祭なのだ。
身体性をことほぐこと、そして、生きていること、生きてきたことへの祝祭。
そんなヌードの祝祭性を撮ってほしい、と思ったのだ。

予習で真っ先に読んだこの記事には、落合さんが最近気になるものとして、コロナによって失われた身体性と、祝祭性、が挙げられていた。
祝祭性。みんなで「祭」を共有し、大いに喜ぶこと。
コロナ禍において失われたもののひとつとして、お祭騒ぎやライブがある。
みんなでその場の空気感を共有し、みんなでそれを味わい、楽しみ、喝采することは、コロナによって分断されてしまった。
イベントや飲み会は画面越しになり、同じ空間を共有しても、ソーシャルディスタンスが一体感を阻む。
祝祭性の持つ高揚をポストコロナの時代では失ってしまうのかもしれない。

しかし、その日はまさしく、祝祭だった。

わたしは、落合さんの指示で生きたり、死んだり、また生き返ったりした。
そういう儀式のように。
モーニングサービスさんに途中でメイクを変えて頂いたのも良かった。
メイクチェンジの時の落合さんのご注文は「コープスブライド」。
死体の花嫁。死者の婚礼。
また儀式だ。
わたしは神聖なものに体を捧げるような気持ちで、カメラの前に立った。

気持ちや意識とは反対に、撮影は賑やかに進んだ。
「死なない三島由紀夫」、「光る陰毛」、「肉の洪水」など、落合さんが発する名(迷?)言にみんなで大笑いした。
わたしの陰毛が落合さんとモニサビさんの目に留まり、しばらく陰毛祭りになったり、必死になった落合さんが変な姿勢でシャッターを切るのをみんなが囃し立てたり、という変なテンションの場面もあった。
そして、終わった後は、ベランダで煙草を吸ったり、お菓子をパーティー開けしておしゃべりしたりした。
祝祭は、どんな神聖なものでも、ヘンテコなものでも、共有するひとがいて、ことほぐ高揚があり、笑顔に溢れるものだ。
これだ、これですよ。
わたしは煙草を吸いながらほっとした。



本当は、いつも怖い。
撮影の前、わたしは逡巡する。
自分の身体が受け入れてもらえないかもしれない。
自分の表現が受け入れてもらえないかもしれない。
そう思うと足がすくむ。

わたしは、太っている。
大体のヌードモデルがしているであろう体型を維持する努力を全くしていないし。
体型に対してはコンプレックスの塊である。
美しくないとか、よくその体でヌードなんてできるね、とか、撮りたくないと言われたことも多々ある。
結構最近、そういうことがあったので、また更にわたしは怯えていた。

でも、その日の空気はずうっと暖かく、明るかった。
写真の持つ肯定の力に満ちていた。
落合さんは思っていたより腰が低くて話しやすかったし。
同行してくれたひとたちもヌードが大好きで。
肉体の持つ不思議をことほぐ空気があった。
ああ、写真と出会えて、このひとたちと出会えて、良かったな。
そう思えた。

この時の記事がこちら。

まさしく、儀式のような厳粛さと、命のちからを感じる記事になった。
落合さんもいつもより饒舌な印象。
いい記事になったと思うので、ぜひご覧頂きたい。

そして、この記事を見て、ヌードって楽しそうだな、面白そうだな、と思ってくれる方が少しでも増えるといいなと願う。

special thanks to 落合陽一、manimanium(photo)、モーニングサービス(makeup)、人間らし子

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