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ちょっとした実験です。短編小説「巴里の怪物〜ゴスロリお嬢様の専属メイドになったアクトリスのわたしが拳銃片手に路地裏の野外舞台で無比してみたら東洋の神様を怒らせちゃったみたいなの!」

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 雨音は夢遊病者の吐息だった。石畳を濡らしたあとは霧のカーテンに隠れて世界の理に神経を研ぎ澄ませる。息を殺して噛みしめたのは好奇心という名のダンス。
 踊れ、舞え、そして歌え。
 闇夜に沈んだ花の都に、劇団崩れのアクトリスが立っている。それが、わたしだ。銃弾が飛び交う異空間。ここは既に知っている巴里じゃない。
「さあ、あなたのために用意した舞台よ」
 ゴシックロリータを散りばめて、パンプスの音を響かせて、わたしが絶対的な忠誠心をもって崇拝する令嬢は楽しげに拳銃を鳴らした。連射される弾丸。耳を鬱って、うずくまってしまえば、ここからは逃げられる。でもきっと、そんなわたしの行為をお嬢様は許さないだろう。
 だから、わたしも拳銃を手にする。雪崩のように押し寄せる『バケモノ』を退治するために。

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 ──1ヶ月前。

 そのモダンソファーはブラックフレームのクラシックスタイルで総革貼りだった。深いシックな光沢が、むき卵のような少女のナマ脚を写し込む。肘掛けの側面から伸びるのはバンビのように元気な両脚だ。暇を持て余すように、また所在のなさに不安を覚える子犬のように、ぶらぶらと揺れていた。
 一方で頭はメイドの膝を枕にしている。
 メイドはビスクドールの白磁を思わせる透明感ある肌をしていた。彼女は出会ったときから妖精だった。あるいは魔法の国のエルフかもしれない。ひとの世界ではわたしと同じ仏蘭西人ということになっているようだが、そういえば出身地を聞き忘れていた。
 コメディフランセーズで下働きをしていたわたしに、最初に声をかけてきたのも彼女だ。

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妖精の魔法に魅せられやって来たら、怠惰な子猫が無邪気な笑顔を浮かべた。
 メイドが大人らしい落ち着いた姿勢でソファに腰掛けると、その膝へゴシックロリータが頭を乗せた。それは、いつもの風景のように、当たり前に子猫だった。
 わたしは劇場の仕事に疲れていた。東洋の大金持ちのお嬢様に仕えるのも悪くないと考えてしまった。その日のうちに巴里・壱拾六区の高級ホテルに連れ込まれた。そこに禍々しくも古典的な趣味で着飾る女の子はいた。
 黒髪はショートボブで黒い瞳は宇宙だった。歳は一四とメイドが教えてくれた。なるほど猫の世界では成猫だ。子猫じゃない。極東の列島にある京都という國で『神に並ぶ地位にある』と意味のわからないことをメイドは語った。印度人の叔母がそうであるように、亜細亜人は肌が浅黒い印象があったが、着崩した黒衣から覗くお嬢様の肌は白銀の雪人形だった。羨ましかった。

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 ソファに寝そべったまま起き上がろうともしない『神に並ぶ地位』のお嬢様を慈しむように、メイドが声を張り上げた。
「安倍初春さまです。傅きなさい」
 わたしは妹以上に年下の女の子に対し、神に祈りを捧ぐ信徒のように振る舞うことを要求された。
「セリシア、おいで」
 お嬢様が片手だけあげて、わたしを呼んだ。言われるままソファへ歩み寄ると、メイドが「跪け」と怖い顔で叱った。お嬢様を見下ろすことはいけないようだ。
「ごめんなさい」
 謝罪の言葉とともに、わたしはソファの前で膝をついた。床は大理石で冷たくて硬かった。
「顔を見せなさい」
 お嬢様の命令に困惑してメイドを見上げると「宜しい」と肯定したので、そのままの姿勢で遠慮がちに覗き込んだ。やや丸顔で整っ

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た、愛らしくも涼やかな御顔が迎えてくれた。
「舌を出しなさい」
 言われたことがわからず戸惑う。メイドが「お嬢様の言う通りに、舌を出してお見せなさい」と生真面目に復唱した。
 言われるままに唇を割って舌を出した。すると突然、お嬢様はわたしの舌を指で摘んだ。強い力だ。いや、その深い宇宙のように真っ黒な瞳に見つめられると抵抗出来ない。躰に冷気が走ったが震えすらなく、全身が瞬間冷凍したように動かなくなった。
 やがて口内の唾液が温もりを伴って流れ出る。唾液は舌を伝ってお嬢様の長くて綺麗な指に絡まる。
「コゼット、可愛らしい子を拾ってきたわね」
 コゼットと呼ばれた白磁のメイドは耳たぶをリンゴ色に染めると小粒の涙で頬を濡らした。奇妙な光景だが、それくらい感激しているということか。全てが可笑しくて、全てが

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異常だった。そもそも『京都という國』が本当に実在するのか地理に疎いわたしには分からなかったが、高級ホテルに仮住まいして贅を尽くす生活は、確かに大資産家一族のブルジョワなのだろうと想像出来た。
「セリシア、あなた合格よ」
 お嬢様はわたしの舌を摘んだまま、唾液まみれの指を気にもせず、寝そべったままの姿勢で静かに告げた。

 わたしの仕事は簡単だった──最初のうちは。
 お嬢様の世話係……というよりも、話し相手だった。でも話の内容は知的なものを求められた。お嬢様が求めたのではなく、コゼット=カルティエ=ブレッソンが求めた。白磁のメイドだ。ブルゴーニュの葡萄畑で採れた妖精は教育ママだった。しかも熱心なカトリックだった。お嬢様はゴスロリだから亜細亜で人気のブッダとは縁が無さそうだが、だか

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らといって使徒ペトロの後継者とも縁は無いだろう。迷ったすえギリシア神話をテーマにした。コゼットは「ギリシア神話は創作だ」とまるで見てきたように口を尖らせたので、「もちろん、おとぎ話ですよ」と反論したら、それ以上何も言わなくなった。
 コゼットに代わって、わたしの膝がお嬢様の頭を乗せる枕になった。お嬢様は時々いたずらっ子のように胸を触る。最初は対応に困ったが、女の子なのだし、劇団のマネージャやクライアントとは違って純真な興味からだとわかったから抵抗せず、笑顔で返すことにした。
「セリシアってどうして胸がそんなに大きいの」
「わたしは、それほどでも……劇団にいた頃は毎日牛乳を飲んでいましたから、それが理由かしら」
「ホルスタインね」
「お乳は出ませんよ」

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 何事にも好奇心旺盛なお嬢様だったが、怪物には格別な興味を示された。
 上半身は美しい女性、下半身は魚。腹部には犬歯を持つ六頭の畜生の前半身が生えた『スキュラ』が特にお気に入りだった。この怪物の話をもっと聞かせろとせがんだ。
「かつては人間だったそうです」
 図書館で調べたことをそのまま伝えると黒目を大きく見開いて興奮した。年齢よりも、やや幼い印象を感じた。抱きしめたいほど可愛らしい。このときのわたしは、お嬢様に夢中だった。

 * * *
 シケリア島で暮らしていた美しいスキュラには毎日のように大勢の男性が求婚を申し込んでいました。けれど彼女は今の生活を楽しんでいたので、誰からの求婚も拒み続けていました。
 ある日のことです。スキュラが隠れ場所で

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水に浸っていると、そこへ海の神『グラウコス』が現れました。美しいスキュラを見て恋に落ちた神様はその場で結婚を申し込みます。突然のことにびっくりしたスキュラは逃げ出しました。
 諦めきれないグラウコスはアイアイエー島の魔女『キルケー』に惚れ薬を頼みます。
 しかしグラウコスに気のあったキルケーは嫉妬に狂い、惚れ薬の代わりに毒薬を調合してスキュラが隠れ場所にしている水浴場に流したのです。
 何も知らないスキュラは、グラウコスが見ていない隙きに水へ浸かりました。すると下半身から六匹の犬の首と前足が生えて怪物となってしまったのです。
 グラウコスは、スキュラの変わり果てた姿に愕然とすると、もはや興味を失って去ってしまいました。魔女キルケーも元に戻してはくれず高笑いとともに姿を消しました。スキュラは、そのまま人を食べて生きる怪物とな

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ったのです。


「コゼット、今夜は月がないわ」
 白磁のメイドは深々お辞儀をすると、わたしに手伝うよう命じた。この瞬間、お嬢様の「話し相手」だった毎日が終わりを迎えたのだ。
「セリシア準備なさい。ハンティングに出かけるわよ」
 お嬢様はソファから立ち上がると、その小さな躰で伸びをした。ゴスロリのフリルは不思議と捻れたり、折れたりはしてなく、綺麗に自らを着飾っていた。知識の奥に埋もれた『形状記憶合金』という言葉が浮かんだが、そんな特殊な針金を縫い込んであるように見えない。
 わたしは、すでに気づいていた。
 瑞々しくて艶やかな肌を刺激的な黒衣で包むのは気高いアンティークドールの正体を隠

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すためのブラフ。古風にして垢抜け、華やかにして清楚。国境だけでなく、時間すら超える異邦の姫だったのかと、そんな疑念を持つに相応しいカリスマ。
 それにしても「ハンティング?」とはなんだろう。
「セリシアは狩りを知らないの?」
 無邪気な瞳で、物柔らかな頬で、愛くるしい唇で訊ねられた。
「お城の貴族がイノシシ狩りを愉しんでいるのは聴いたことがあります。それですか?」
「お嬢様はイノシシなどにご興味ない」
 コゼットがぶっきらぼうに口を挟んだ。けれど「勘違いするのは仕方ないわ」とお嬢様は艶然と白い歯を見せた。
「では、何が始まるのでしょう。お教え下さい」
 わたしは胸元で両手を合わせ、指を絡めて握りしめ、膝を折って大理石の床で小さくなると、聖徒のように教えを請うた。お嬢様は

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姉のような、あるいは女神様のような態度でわたしの頭をなでながら「行けばわかるわ」とだけお答えになった。
「これを」
 コゼットから厚手の布に包まれたものを手渡された。家宝を取り扱うような恭しい仕草だ。白手袋の両手が大事そうに抱えたそれを慎重に受け取ると、ずしりと重い。なんだろうと布を開いて驚愕した。
「拳銃だった」

 街は飴色だった。気の早い商店は帰り支度に忙しく、恋人たちも家路へ急ぐ、そんなてろてろの時間。やがて迫り来る黒雲に天使は怯えて石のモラトリアムに身を隠す。
 そんな時間。
 だれも東洋のゴシックロリータを気にもしない。その手に握られたリボルバーが本物だと、いったいどうして信じられる?
 わたしは手渡された拳銃をあらためて見つ

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めた。女子供の手にはゴツすぎるだろうグリップには、見たこともない紋章が描かれていた。
「安倍晴明彦摩呂が産み落とした結界を象ったものだ」
 白磁の妖精は出来の悪い受験生に溜息をつく教師。コゼットと名乗る人間を象ったエルフは「そんなことも知らないのか」と言わんばかりの態度で説明してくれた。
 でも、安倍晴明なんて人は知らない。記憶にもない。新しい勉強をはじめようと決意した矢先に前途多難だ。
「試験に出るんですかあ?」
 わたしの質問を白磁の人形は無視し、代わりにお嬢様の前で膝を折った。
「闇が来ます」
 月は完全に姿を消した。賑わいは既になく、普段なら頻繁に見かける下水口の鼠すら息を潜めていた。もはや「世界は滅んだ」とお嬢様が口にすれば信じてしまうだろう。

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「セリシア、側においで」
 黒衣をまとった小さな躰がわたしを呼んだ。コゼットは面白くなさそうにそっぽを向いている――否、警戒していたのだ。ふたりには見えていた。
 男の子だ。お嬢様よりもずっと幼い、ブロンドヘアーの小さな男の子が長い前髪の隙間から碧眼で覗いていた。カーキ色のダウンジャケットにジーンズの半ズボン。白い靴下に肉厚のスニーカー。一見して中間層の巴里市民だ。年齢的にもテロリストとは思えない。
「お姉ちゃんたち邪魔なんだよ」
 笑顔は悪意に満ちていた。爆弾でも隠し持っているかのような邪悪な雰囲気に、わたしは怯えた。得体の知れぬ恐怖。
「そうね、だからあんたが消えるのよ」
 お嬢様――安部初春さまがリボルバーを構えた、と同時に躊躇なく発砲。爆弾が破裂したような音が暗闇の市内に響いた。とっさに耳を塞いでしゃがむ。これは、なんだ。何が

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起こっているんだ。
 男の子は弾を避けた。俊足だ。人間じゃない。路面を駆けて、壁を駆けて、空を駆けた。飛んでいる、と目の前で起きていることが信じられずに唖然と棒立ちしていると「死ぬぞッ!」とコゼットが大声で叱った。だから、また耳を塞いでしゃがんだ。わたしの周囲で銃撃の音がぐるぐる回った。
「こんばんわあ」
 耳元で声がしたから目を開くと鼻先にいた。本当に互いの鼻が当たるほどの間近、わたしは悲鳴をあげた。
「きゃぁぁぁぁあッ!」
 お嬢様が回し蹴りで追い払ったが、男の子は声変わり前の甲高い笑い声をあげながら周囲をぐるぐる駆け回る。
「どうやらセリシアを気に入ったみたいね」
 冗談じゃないことを、お嬢様は平然と言った。腰が抜けたようにしゃがみ込んだままのわたしを見下ろしながら「拳銃の使い方教え

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てなかったわね」と呟いた。
「銃口を目標へ向けて引き金を引くだけだ」
 コゼットは簡単そうに口にするが、いや、そうじゃない。そういう話ではなく、なぜ見た目は普通の子供――確かに異常な子だと思うが、殺さなきゃならないのか。しかも、わたしが?
「あの子はなんなんですかッ!」
 わたしの周りをぐるぐる駆け回って、隙あらば飛びかかろうとしている猿のような男の子を指して叫んだ。
「ペンギンよ、見たらわかるでしょ」
「わかりません……え、猿じゃなくて、ペンギン?」
「ペンギンだ。知らないのか」
「知るわけありません……いえ、ペンギンは知ってますよ。南極にいる鳥類で……」
「違うわよ」
「違うぞ」
 ふたりはハーモニーのように声を揃えて否

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定した。
 わたしにとってペンギンは、そう南極や水族館にいる動物だ。鳥類だけど空を飛べず、代わりに海の中を弾丸のように滑空する変な鳥だ。
 眉間にシワを寄せて悩む姿に同情なされたのか、お嬢様が優しく教えてくれた。
「学名ピングーユーゲント。研究室で生まれて研究室で暮らし研究室で死ぬ……はずだった、人を模した人ではない生命体。あれは、雄の個体よ。雄は希少種なんだけどね、脱走して、おいたばかりするから破壊するの。我々は、そのために此処にいる」
 だけど「よく、わかりません」わかるわけがない。
 コゼットが嘆息とともに付け加える。
「とにかくだ、その拳銃であれを撃て。当てるのはどこでもいい。体内に弾丸を埋め込むことが出来れば成功だ」
「え、わたし、そんなこと」

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「弾頭のヘコみに注入しているゼリーには特殊なウイルスを混ぜてある。体内へ撃ち込めばウイルスが活性化して、あれは生命活動を停止する。普通の弾丸では死なない」
「セリシアは初陣だから、今日は見学なさい。コゼット、手本を披露なさい」
 白磁のメイドが主人からの期待に頬を染める。石膏のような表情がやや崩れると鼻の穴を広げ唇を舐める。口角がにやけている。確かに初春お嬢様は可愛いけれど、それほどの感情の高ぶらせ方は理解出来ない。レズビアンなのかしら。
 コゼットが手にする拳銃はわたしに押しつけられた、またはお嬢様が手にする拳銃とは違ってかなり大きかった。コゼットは「ハンドキャノン」と自慢げに口にしたが、その意味を今知った。両手で握って腰を僅かに落とし、両足を開いて安定姿勢を取った。そうしないと撃てないほど反動が凄まじいという。確かに、放たれた弾丸は大砲のような――大

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砲の音なんて聞いたことはないけれど、お嬢様が聴かせてくれた銃撃音のそれとは別物だった。
「鼓膜がやぶれちゃう!」
 わたしは再び耳を塞いで、その場にしゃがみ込んだ。大きな爆弾が破裂して空気さえも揺さぶるような音が闇夜の巴里に轟いた。だが銃弾は当たらなかった。コゼットのミスではなく、別の何かが介在したのだ。
「だからあ、ダメだっていったでしょ。初春ちゃん」
 ペンギンの男の子に体当たりして転ばせ、寸前のところで助けたのは女の子だった。男の子と同い年くらいの女の子。お嬢様と同じ、いえお嬢様のゴスロリよりさらに華美なルックスで栗毛の髪は大きく膨らませたツインテールだった。少し吊り目で切れ長。幼い容姿とは真逆に大人の色香を漂わせる――まさに妖艶な存在。
「ッ、あんた邪魔する気?」

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 初めて見た、お嬢様の怒りに満ちた顔。
「男の子は殺しちゃダメよ。晴顯に告げ口しちゃうぞ」
 そう言うや、ツインテールの女の子はその手にリボルバーを構えた。詳しいことはわからないけれど、お嬢様の拳銃と同じタイプに見えた。
「ツインテール、あんた誰に銃口を向けてんのか。わかっているの」
「コードネームで呼ぶなって言ったよね。名前で呼んでよ、初春ちゃん」
「そうだったわね。伊集院の連中に媚びを売って、まるで人間みたいな生活をしているのよね」
 ダンッ、と銃弾が放たれた。お嬢様の顔を掠める。コゼットが「貴様ッ!」とハンドキャノンで反撃した。爆音とともに銃弾が破裂したが、女の子は次の瞬間、コゼットの脇腹にいた。
「ウッ!」

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 脇腹を殴られた石膏の妖精、白磁のメイドが、そのまま腰から路面に落ちた。仰向けになったコゼットのうえに跨がった女の子は、ゴスロリの白いフリルを散らしてパンプスの靴底で腹を踏みつけた。コゼットの口から赤い液体が噴き出した。
「その臓物を引き釣りだして、犬の上半身を埋め込んでやろうかッ!」
 ツインテールを揺らしながら大人の女性の腹を繰り返し踏みつける幼女の姿に、わたしは震えがとまらず、お嬢様にしがみついた。
「やめなさい、ツイン……摩耶。お願いよ、もうやめてあげて」
 お嬢様が両手を胸の前で重ね、指を絡めて握りしめ、膝を折って許しを請うた。驚いた。そして、気位の高い安部初春さまにここまでさせる摩耶と呼ばれた女の子に恐怖した。
「男の子は殺さない。見つけ次第、生け捕りにするか、安部本家または伊集院晴顯へ連絡する。こんな簡単な約束も守れないのかな、

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初春ちゃんは」
 摩耶が言い終わらないうちに、「ほんとうに、困った妹よね」と言葉を被せてくる存在。闇の向こう側で揺れる白い着物――そうだ、思い出した。子供の頃に見た映画。かつて東洋に存在した巨大帝国。三千年の悠久を刻んだ京都ノ國はその一部で世界を統べる存在。神に並ぶ地位――安部家が支配する島国。
「お姉さまッ!」
 お嬢様が声をあげた。それは畏怖と戦慄の声。怠惰で傲慢な子猫が本当の恐怖を前にして怯える。
「安部吹雪さま」
 コゼットは壊れたラジオだった。消え入りそうな音量を発しながら「初春さまをお助けください」と涙を流した。摩耶はその言葉を合図のように腹への攻撃をやめた。代わりに拳銃を手に、銃口をコゼットの口に突っ込んだ。闇夜の着物が冷たく命じる。
「死刑執行」

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「やめてッ!」
 お嬢様は摩耶を押しのけ、コゼットを抱きしめた。泣いていた。あの高慢なお嬢様が。
「初春ちゃん、吹雪の御前で何してるのよ。こんな人形一体の処分で許されるのだから感謝なさい」
「コゼットはわたしの大切な下僕なの。殺させないわ」
「はあ?」
 お嬢様と摩耶のしばしの睨み合い。ふぶき……さま? が闇の中から口を開かれた。
「初春、おまえがやった行いは万死に値する。全てを壊して帰国なさい」
「いやッ!」
 わたしも、いつの間にかお嬢様の側で土下座しながら手を合わせていた。
「お嬢様をお許しくださ……ッ!」
 摩耶が、わたしの髪をわし掴みして引っ張る。蛇のような瞳で「でしゃばるな人間」と喉を鳴らした。

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「おねがいよ、もうやめて。下僕を虐めないで。ここに来て、この街で、一緒に暮らしてきた下僕なの。お姉様、お願いします」
 石畳に額を擦り付け懇願するお嬢様は涙で濡れていた。わたしはツインテールの『バケモノ』に髪を引っ張られながらも手を合わせることをやめなかった。闇の中でこちらを伺う白い着物が真に神様ならば願いを聞き入れてくれると信じていたから。
「私の大切な下僕なの。お姉様にはたくさんいるでしょう。だからわからないでしょう。私に従うふりをしながら、実は誰も私の為に動いてはくれない。すべてお姉様や家の命令で私に尽くしていただけ。私は、私の為の、私と一緒に遊んでくれる下僕が欲しかった。それだけが望みだった。その望みが、ようやくこの街で出来た。初めて出来た、私だけの下僕よ。それを壊さないで。もう、これ以上、私の心を壊さないでッ!」
 うちの父は小さな法律事務所で働く弁護士

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だ。家系を辿れば移民だ。学者一族ではあるが大きな受賞歴など無い平凡な中流家庭だ。喧嘩はしても、そこは家族だ。本気の憎しみなど介在しない。小さなファミリーだけど、仲良く協力しながら世の中を生きてきた。
 上流家庭の寂しさや生きづらさを、だからわたしは理解していない。想像すら出来ない。だからお嬢様に対する同情心や哀れみも感じない。この小さな少女のことを、わたしが嫌いになれないのは――確かに少々傲慢だけど、わたしという存在をとても大切にしてくれるからだ。愛してくれていると、強く感じるからだ。劇場の屈辱はここにはない――下僕という呼ばれ方は、まあアレとしても。でもこのお方になら……「そこの人間」と闇の中の着物がわたしに声をかけた。摩耶から髪を引っ張られていることを忘れて思いを巡らせていたが、一気に現実に戻された。
「は、はい」
「いまから摩耶に、おまえの髪をむしり取ら

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せる。一本の産毛も残さず。それを我慢するなら全ての罪を許そう」
「お姉様ッ!」
 抗議の声は闇の中の神様に届かない。
「他に選択肢はない」
「お姉様ッ、やめて。セリシアは普通の人間の女の子よ。ごめんなさい。もういいの。全ての罰を受けるため國に帰ります。もうワガママは言わず、お姉様の全ての指示に従います」
「人間、おまえに訊いている」
「セリシア、いいのよ」
 わたしの心は決まっていた。頭からたくさん血が出て、とても痛くて、たぶん泣いちゃうだろう。でも、そんなわたしをお嬢様が優しく慰めてくれるなら、それでわたしは幸せだ。
「髪の無くなったわたしであっても、変わらず下僕として愛してくださるなら……どうぞ、わたしの、こんな髪で宜しければ差し上げま

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す。初春さまをお許しください」
 しばし、闇に沈黙が流れた。
 そして、甲高い笑い声が響いた。
「死刑執行……は、おしまい。初春、良き下僕に巡り会えましたね」


 巴里は今宵も無慈悲だ。
 コーラ飴に包まれた濃密な裏路地にメイド姿のわたしは立つ。背には口五月蠅い同僚。そして傍らに、世界にとってもっとも偉大な――もちろん、わたしにとっての世界だけれど、気高くも可憐で、何よりもわたしを愛してくださるゴシックロリータが微笑んでいる。
 安部初春さま。
 わたしは拳銃を手にする。震えも怯えも過去の刻の流れに消えた。今、ここにあるのは情熱。そして愛情。暖かくて柔らかで、ほんのり鼻をくすぐるラズベリー。シャボン玉は夢でなく現実だ。

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「さあ、セリシア。あなたの為に用意した舞台よ」
 ここがわたしの劇場。愛するひとと頼りがいのある友人に見守られ、わたしは舞う。

 ーFinー

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