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【供養】小説「私の親友(女)に彼氏ができたのですが、生涯を友にするのは私ですよね?」

 今日もおつかれさまです、みけのです。
 最近はもっぱら小説の設定だけ考えては「やっぱなんか違う……」などと言い訳をして、一文字も書けていません。いや! それでもやる気を見せるときは、一日中書いていることもあります……よ。
 今回は、一旦公募に出そうとして、なんだかやる気がなくなってしまった作品を供養します。短編……? といえばいいのでしょうか。そこまで長くはありませんが、お時間ありましたら、見ていってください。
 カテゴリーは「青春友情ラブコメ」です。ちなみに、主人公の「ラブ」まで到達しておりません。「ラブ」まで書こうか……しかし、なんだかやっぱり話の筋がおかしい気もする……。まあいいや。

〈選手宣誓〉

 真っ白な背景の前に、どこの公園にでもあるようなブランコがあった。
 周囲には幼い少女がふたり、楽しそうに駆け回っている。ひとりがブランコへ飛び乗って、もうひとりに向かって大声で叫んだ。
「ほのー! わたしの背中、押してー!」
「いいよお」
 ほの、と呼ばれた少女は、何の抵抗もなく、小さな手で力いっぱいブランコを後ろへ引き、放す瞬間に目の前の背中を押した。
 何度か繰り返すうちに、どんどん上がっていく目線と、頬をきる爽やかな風。
「すごい、すごい!」
 少女はうれしそうに声を上げた。それを見て、ほのもまたうれしそうに笑った。しばらくすると、少女は足でブレーキをかけ、地面へと降り立った。
「じゃあ交代。今度はきょうこが、ほのを押してあげるね」
 入れ替わるようにして、ほのがブランコに座ったのを確認すると、きょうこは彼女が引いたのよりもっと高い位置から引いて、押した。
「わあ! きょうこちゃん、すごい上手だねえ」
「でしょ? わたしね、ブランコ押しのプロなんだよ」
 勢いよく揺れるブランコに大興奮のほのへ、きょうこは自慢げにそう言って、何度もその背中を押してやる。遊び疲れたふたりは、近くの自販機でジュースを買い、半分こしながら、並ぶ二つのブランコに座っていた。
「ねえ、きょうこちゃん。ここで約束しようよ」
 ジュースの缶をきょうこへ手渡しつつ、ほのは希望に満ちた瞳で言った。
「やくそく……って、何の?」
「親友の」
「……しん、ゆう」
 その言葉を聞き、きょうこの心臓はどきりとした。
「あたしと、きょうこちゃんがこれから先ずっと仲良しでいて、それで将来、結婚したり、新しい場所に引っ越したりしても、ふたりはずっと一番の親友でいるの。ね、どうかな? きょうこちゃんは、あたしがきょうこちゃんの親友でいるの、いや?」
 ほのが不安そうに首をかしげる。手元のジュースがこぼれるのも無視して、きょうこは頭を左右にブンブンと振った。
「そんなことない! わたしもほのの一番がいい!」
 公園中に響き渡る声。それを聞いて、ほのはまるで花が咲くかのように微笑んだ。そしてブランコから立ち上がると、きょうこの前までやって来て、片手の小指をさしだした。それに引き寄せられるようにして、きょうこも自分の小指を巻きつける。
 ふたりの心は、希望に満ちあふれていた。
「じゃあ、コホン。えっと、神さま。あたしたち、ほのと、きょうこちゃんは永遠の親友でいることをここに誓います!」
「誓います!」

 そうして、わたしたちは永遠の友情を誓い合った。
 それが、ふたりにとって最高の瞬間で、最強の人生の始まりだったのだ。

〈わたし(永遠の親友)にライバル(親友の彼氏)、登場……⁉ 【前編】〉

 毎年、夏がくると思い出す。
 なぜ夏休みというのは、終わってしまうのかという話だ。たしかに「休み」に「夏」とついている時点で、夏期限定の休暇というのは理解できる。
 しかし、そもそもの話、夏が「暑すぎて」授業に支障が出るから「休み」なのだとしたら、八月三十一日きっかりで終了しなくてもいいのではないか。
 ここ何十年かの間に、地球環境というのは加速的に悪化し、いまや「温暖化」なんていう現象に悩まされ、天体的には年中通して「暑い」わけである。ましてや九月一日なんて全く以って「夏」の気候のままなのだ。
 だとすれば、期間中、だらけにだらけまくった末、正午起床、深夜三時就寝の生活を送っていたわたしが、「休み」が終わったからと言って、いきなり午前八時四十分までにしっかり毎日、登校するなんてことは難しいに決まっている。これはもう、神の思し召しとさえ思う。
――だが、しかし。
 とか、使ってみると、たまに「否定が重なっているから、結局、否定にはなっていない」とか言い返してくる愚か者がいるのだが、それは無視する。
 わたしがいくらベッドの中で狸寝入りを決め込もうが、九月一日というのはやって来るのだ。
 そして辛くも、それは休み明け一発目の登校日であり、運が良ければ始業式だけで帰宅できたりするのだが、詰め込み教育が再燃する今日では、始業式などは「式」とついていても、ただの朝会と変わらないのである。
 つまり、普通に授業がある。イコール「今まで休んでいたのだから、学校へ行け」という問答無用の圧力が加わるわけだ。
 枕元でスマホのバイブレーションが鳴る。わたしが夏休み中、オフにするのが面倒で一切無視していたものが、四十五日間の時を経て、レギュラー復帰しようとしている。
 頭まで被っている布団の中で、もぞもぞと蠢く。
 あー、学校だ。今日から学校だ。あー、めんどいよー。
 下の階からバタバタと足音が聞こえた。それは、廊下の奥の階段を駆け上がり、わたしの部屋の扉の前までやってくると、けたたましいノック音へと変わった。
「おーい、恭子(きょうこ)ちゃん? 起きてるかい、今日から学校だよ~」
 聞きなれた穏やかそうな男性の声。もとい、わたしの父親のものだ。再度ノックされる。
「ちょっと、きょーおーこーちゃん。もう八時になるし、早く起きないと、朝ごはんどころか遅刻しちゃうよ?」
 すでに三回もアラームが鳴っているのだ。そんなことは分かっている。
 しかしだ、お父様よ。あなたにも子ども時代があったのならば、わたしの気持ちが分かるだろう。分かってくれたまえよ。
 こちらが何の反応もしないので、今度は部屋への侵入を企てたようだが、あいにく昨晩のうちに鍵をかけておいた。ドアノブはむなしくガチャガチャと音を立てるだけだ。
 わたしに呆れているのか、父は、ため息交じりに少し語気を強めた。
「もお! パパ、本当に怒っちゃうぞ。いいのかな、恭子ちゃん。パパ特製のお弁当を没収されることになるんだよ~?」
 さも危機感を募らせた風だが、しいて言うなら単に弁当がない程度で、購買やら食堂に行けば、食事自体は困らない。
 どれだけ自分のつくった弁当に自信を持っているのか。まあ、たしかに母がつくるよりも断然おいしいけど。
 そうこうしているうちに、もう一度バイブレーションが鳴る。前回からすでに五分は経過したということだ。そろそろ起きないと、本当に遅刻する。
「はあー……、しょうがない。起きるか」
 そう言って、身体を起こそうとすると、下の階から別の足音がドタドタと階段を駆け上がり、わたしの部屋の前までやってきた。パパが驚いた様子で「ま、真弓(まゆみ)ちゃんっ⁉ 何してっ……」と言う間に「カチャンッ……」という金具の音がしたかと思えば、ものすごい勢いで扉が開き、黒いスーツに身を包んだ女性が鬼の形相で飛び込んできた。
「ちょっと、恭子! いつまで寝てるの! いい加減に学校行きなさいっ‼」
「うわあっ! ママ、なんでこの時間にうちにいるのっ⁉」
 普段ならすでに出社している時間のはず……などと考え込んでいる暇はなかった。ママはわたしのかけていた布団を引っぺがし、壁にかかったセーラー服を掴んで投げつけてきた。
「あなたが毎年、夏休み明けにパパを困らせるから、半休とってわざわざうちにいたの!」
 そんな、まさか……なんて卑怯な手を……っ!
 思わずパパを睨みつけるが、彼は何も知らないかのように口笛を吹くふりをする。
「そんなことより、いいから支度して! ほらほらっ!」
「うわ、痛いっ、分かったから叩かないでよー」
 鬼の速度で身支度をさせられるわたし。一瞬でも気が抜けば、ママからの鉄拳が降り注ぐ。その横で、自分は外野だとでも言うように、普段通りに弁当を手渡すパパ。これが、結婚二十年目にしても新婚気取りの夫婦が愛娘にする所業である。
 なんとか十分で支度を済ませ、靴を履いて、家の白い門をくぐり抜けた。
「行っへきまふっ!」
 朝食のホットケーキをくわえつつ、玄関前に並ぶ両親へと叫ぶ。
「いってらっしゃ~い」
「恭子! ちゃんと前を見なさいっ!」
 ママの怒声がまだ飛んできたが、かまわず住宅街を走る。一瞬、瓦屋根の古い日本家屋風のお隣さんへ視線を送るが、目当ての人物の姿はなかった。
ほのは……さすがに居ないか。そりゃそうだよね、もう登校時間まで二十五分もないし。
「いほげ(急げ)!」
 ここまで来たら、遅刻するなんて癪に障る。なら、最初からそうしておけという感じだが、わたしはこれでも優柔不断の申し子なのだ。理解してくれ。
 目の前の坂を下り、商店街を抜けて、今度はのぼり坂を行く。
 わたしの通っている聖陵(せいりょう)学園高校は、周囲を住宅や寺に囲まれた大きな山の上にあり、うちからのルートでは、必ず馬鹿長い坂を通らなければならない。しかも、わたしの家は、その山の向かいにある別の山の上にあるため、一旦下ったところをもう一度上がるのである。
 それに、校門まで残り三分の一の区間からは、急勾配になる。毎日のぼり下りしていれば、体力がつきそうなものだが、わたしには適応外らしい。
「もう……、ちょ、いっ」
 半端ない息切れを起こしながら、なんとか坂を克服し、少し古めの校門を駆け抜けた。
 昇降口にはほとんど人影がなく、二年生の教室がある三階へ上がる途中、体育館へ向かうために下りてくる生徒たちとすれ違う。
「や、やっと……ついたあー」
 自分のクラスであるF組の教室へ入ると、わたしの席の前に女子生徒がふたり立っていた。
 一方は、綺麗に手入れされた茶髪をおさげにし、前髪をピンク色の花かざりがついたヘアピンで留めている。
 聖辺(ひじりべ)みか。通称「情報屋のヒジリ」。趣味は、某男性アイドルグループの追っかけ。
「おおっ! きょんちゃん、やっとのご到着じゃん。もう置いてっちゃおっかって言ってたんだよ?」
「おはよう、恭子。間に合って良かったな」
 ヒジリの声に、もう一方の長身の女子がこちらを一瞥する。
 長く細い黒髪をさらりと垂らし、切れ長の瞳にかかるまつ毛もとても長い。呼吸のたびにぱちぱちと瞬く様子は、「美しい」の一言に尽きる。
 倉野月子(くらのつきこ)。わたしとヒジリは、親しみを込めて「つっきー」と呼んでいる。ちなみに、わが校の剣道部の新しい主将だ。
 ふたりの間になだれ込むようにして身体を預けた。つっきーは難なく受け止めてくれたが、ヒジリは「おお、『重い』抱擁だねっ」と、重い、のところを強調してきた。
「修業が足りないなあ、ヒジリは」
「何よー、きょんちゃんだってゼーゼー言ってるじゃん」
 両頬に空気を溜めてむくれる。さながら、口の中にえさを詰め込んだハムスターだ。
「家出て、猛ダッシュで来たんだから当たり前じゃん。褒めてほしいくらい」
 そう言って、背負っていたリュックを机の横にかけると、つっきーが黒板の方を指さした。
「まあ、ふたりとも。今は、体育館に急がないと。整列のときに出席をとると、荻野(おぎの)先生が」
 前を見ると、やけに達筆な字で「整列のときに遅れた人は遅刻」と書かれている。
「うわ、マジ? 行こ行こっ」
 ふたりの背中を押して、わたしは始業式が行われる体育館へと急いだ。
 入口で体育館履きに履き替えて、中に入れば、大勢の生徒の体温と、建物の構造的にこもった熱が全身に押し寄せた。
「うえ、あっつ……やっぱまだ全然、夏じゃん」
 自分のクラスの列に移動しながら、B組の方に視線を送る。こちらはF組なので、それなりに距離はあるのだが、だいたいの位置は把握している。
 えっと……、あ、いた。
 そこには、肩ぐらいの長さの髪の、少し頼りなさそうな、小柄の女子が立っていた。周囲の友人と話しているのか、ときおり笑顔が見える。
「あ、ほのちん発見! きょんちゃん、また見てたの?」
「また、とは何だ。また、とは。今日は朝、一緒じゃなかったから気になっただけ」
「アラ珍しい。まあ、優等生ばっかりのB組は、朝ギリギリにダッシュ登校なんてしませんものね~。お可哀想な、いや、自業自得の恭子様ですわね~」
「なんだ、その言い方。ちょっと腹立つ」
 ひとりでニヤニヤしているおかしな女は放っておき、ほのを横目に出席番号順の自分の場所に並んだ。
 花村(はなむら)ほの。わたしの、唯一無二の幼なじみにして、永遠の親友。
 わたしが五歳のときに、ほのの家の隣に引っ越してきて、もう幼稚園からずっと同じ学校に通っている。毎日のように遊ぶし、家族ぐるみでもとても仲良し。小さい頃は、お互いの誕生日会をしたり、長期休みには一緒に旅行したりすることもあった。ほのもわたしもひとりっ子で、遊び相手がほしかったのもあるかもしれないが、本当に姉妹みたいにして育った間柄だ。
 高校入学時は、わたしがあんまりほのの話ばかりするので、ヒジリとつっきーにはいつも呆れられた。仕方ないだろう、大好きなんだもん。
 始業式は滞りなく終わり、いつも通りの授業が始まる。スマホのメッセージで「朝会、ギリギリ間に合った~。坂ダッシュで脚がパンパンだったよ」と送った。
 二限目のあと、スマホを確認すると「あ、やっぱり寝坊だったんだ。間に合って良かったね」とお優しい返信があった。そして、その下に
「恭子ちゃんに話しておきたいことがあるから、昼休み空けといてねえ✿」
 ともあった。
 昼食の誘いだろうか。了解のスタンプを返して、わたしは昼休みを待ち望んだ。

 四限目の終了を告げるチャイムが鳴った。教室中の生徒の気が緩むのが分かる。かく言う吾輩も、愛しの親友のところへお弁当片手に向かおうとした、はずだった。
「ぎょえええええええ‼」
 背後からの絶叫による一撃。耳が死にかけていたら、ものすごい速さでゾンビがわたしの背中へ覆いかぶさってきた。
「ぐへっ、重っ」
「お……、おち」
「あ? なんだよ、ヒジリ。てか、あんた重すぎ」
 言わずもがな声の主はこの女だが、明らかに様子がおかしい。心配したのか、つっきーも寄ってきた。
「どうした、ヒジリ。ものすごい咆哮だったが」
「お、落ちた……。コンサート、チケット……秋の、取れなかった」
 彼女は力の入らない手の上にあるスマホの画面を、わたしたちに向けた。そこには、男性アイドルグループ「スター☆レインボーイズ」の秋季コンサートチケット落選のお知らせ、とある。
「あー、まー。とりあえず残念だったね」
 状況を察したわたしは弔いの言葉を述べながら、背中にある重石をどかした。
「うわー! どうしよう、最悪だあ。おととしの春季コンサートから一回もかかしたことなかったのにぃ……!」
「しかし、ヒジリは毎回『スタレイ』のコンサートに行っているじゃないか。一回くらい行けなくても、罰は当たらないだろう」
 わめき散らしている絶望のドルオタへ言ってはならない毒矢を放ったつっきー。目を光らせた猫のごとく、ヒジリは即座に彼女へ詰め寄った。それを見て、こちらも即座に手で耳の穴をふさぐ。
「なあーに生ぬるいこと言ってんの! 今回は定期公演なのよ! つまり、アタシたち『てるちゃんズ』にとったら、重役会議と一緒なの! しかも、アタシのようなファンクラブ会員番号ゼロ番代の参加は義務なのよ? 居なくてどうすんのっつー話! 分かったッ⁉」
 おそらく、この辺りのようなことを言ったはずだ。
 わたしに被害はなかったが、あまりの怒声に、つっきーの脳はイカれてしまったようだ。地震でも起きたように机の下に避難してしまっている。
 さっきから「スタレイ」だの「てるちゃんズ」だの言っているが、これらはヒジリが追っかけている男性アイドルグループ「スター☆レインボーイズ」の略称と、そのファンをさしている。
 グループ名は「雨」の「レイン」と、「虹」の「レインボー」、「男の子たち」の「ボーイズ」をそれぞれかけているらしい。
 要約すると、「スター(星)」のように輝き、「レイン(雨)」のように降り注ぐ「レインボー(七色=七人)」の「ボーイズ(男の子たち)」という意味だ。
 ちなみに、ファン名称の「てるちゃんズ」は、てるてる坊主からきている。さすがに女性ファンが多いので、坊主とは言わないようだが。興味がないわたしですら、ヒジリに基本設定を頭に詰め込まれたので、無駄な説明をしてしまった。
 ともかく、わたしはこの地獄絵図から脱出し、ほののところへ行かなくては。今回は待たせなたくない。
 泣きわめくヒジリと、放心状態のつっきーを置いて、そーっと教室を出ようとすると、背後から邪悪なオーラを感じた。
「きょーおーこーちゃあーん……、どこに行くのかなー?」
 ダメだ、振り返ってはいけないッ……! そうなれば、わたしは最後――と、思ったのもつかの間、後ろから首にヒジリの腕が巻きついてきた。
「ぐへッ……」
「うわあーん! きょんちゃあーん! この哀れなヒジリちゃんを慰めてよおー!」
「そ、そんな、サービスは……こちらでは、取り扱ってな、い。苦しっ」
 なんという怪力と奇声だろうか。このままでは窒息し、耳もおかしくなってしまう。
 数秒踏ん張ったが、観念して、ヒジリの励まし会に付き合うことにした。全く面倒な悪友だが、仕方がない。
 スマホを開き「ごめん。クソドルオタがコンサートのチケット取れなくて落ち込んでるから、慰めてくる」とメッセージを送った。元凶であるヒジリも「ほのちん、ゴメンちゃい。きょんちゃん借ります」と打った。全く反省の色が見えないが、もう気にしないでおいた。
 今世紀最大の天使であるわたしの親友は「はーい、元気出してねえ」と言って、かわいらしいくまのスタンプを返してくれる。落選した屍なんて置いて、B組の教室に走りだしたかった。
 購買でお菓子を買い漁り、わたしたちは二階のラウンジへと向かう。
 先ほどの絶望はどこへやら、テーブルにつくと、ヒジリは買ってきたサンドイッチを元気に平らげ、チョコ菓子を堪能した。
「ん~! うまいっ。やっぱ甘いものは万能薬だよねー。極楽だのう」
「じゃあ、わたしたち要らないのでは……」
「そんなことないよー。友情あってこその、お菓子パワーなわけっ」
 何を意味の分からないことを言っているのか。半分、いやだいぶ呆れたが、隣のクールビューティーは「元気になって良かったな」などと、のんきな発言をする。先ほど自分に降りかかった火の粉を忘れたのか、記憶から消したのか。
 とりあえず持参した弁当を完食し、お茶を片手にお菓子をつまむ。
「あ、そういえばさ、まだ夏休み中のこと話してなかったよね。きょんちゃんは何してたの?」
 ヒジリが目配せするので、わたしはしぶしぶ口を開く。
「えーっと、夏休みの前半に、ほのの家族とわたしとパパで山にキャンプしに行った。あとは特にないかな」
「たしか、毎年の恒例行事なのだったな?」
「うん、そう。まあ、ママはだいだい仕事で休みが合わないから、今年も行かなかったけど」
 つっきーにそう返すと、ヒジリが新しいお菓子の封を開けた。
「きょんちゃんのママさんってさ、弁護士なんだよねー。カッコイイなあ」
 自分の母親が弁護士で、子どもを産んだ今でも現役だと言うと、たいていこの手の感想を言われるのだが、その代わりに父親があまりにも家庭的すぎることについては、いつもノーコメントなのはどうなのだろうか。
 娘を「ちゃん」付けで呼び、手芸とガーデニングが趣味で、嫌がる娘に無理やりドレスを着せて写真を撮り、プリンセスごっこをさせようとした男だぞ。そこはどうなんだ……っ!
 心の声をぐっと抑え、つっきーに視線を送った。
「つっきーは? 休み中、何してたの?」
「私か? ふたりも知っていると思うが、休みの初めにあった県大会は重要なイベントだったな。今年こそは、相良(さがら)学院の飯塚(いいづか)さんに勝ちたかった……」
 彼女の所属している剣道部は、強いには強いのだが、県大会止まりなことが多いらしい。それも隣の有名なマンモス校である「相良学院高等部」に勝てない、というのが原因でもある。
 特に、主将であった三年生の飯塚さんは、昨年の大会でつっきーとあたり、白熱の試合を見せた。今年は彼女も卒業なので、休みが始まる前から、つっきーはリベンジマッチを期待していたが、この様子では思うようにふるえなかったようだ。
「来年は必ずわが校に勝利を持ち帰りたい。そのため、盆ついでに祖父の家で特訓をしてきた」
「と、特訓……?」
 ヒジリとわたしは、ごくりと唾をのみ込む。つっきーが決意に満ちた瞳を明後日の方へ向け、拳をぐっと握った。
「滝行だああッ‼」
――武士かっ!
 思わず心の中でツッコミを入れてしまう。呆れ半分、驚き半分のわたしをよそに、目をキラキラと輝かせたヒジリは、話を深掘りしだした。
「た、滝ぎょー⁉ え、それって、滝の下に行って水に打たれるやつでしょ? うっそ、マジでそんな修行みたいなことしてきたわけ?」
「当たり前だ。そのために、祖父に鍛錬を頼んだのだからな。そうして、精神統一を習慣化させ、邪念を掃うことで、私はより一層、道を極めることができる」
 自信たっぷりにそう言う彼女へ後光がさして見える。感動の眼差しで「よっ! さすがは主将どの!」とはやし立て、拍手まで送るヒジリ。
 たしか、つっきーの母方の家は、山奥の道場で代々、師範の家系だった気がする。それにしても、彼女は最終的に何になろうと言うのだろうか。まさか、天狗……とか言わないよね? いや、わたしも相当、思考がおかしくなってきている。
 決意をみなぎらせ終わったのか、すっとイスに座り直す。
「まあ、私よりヒジリはどうしていたのだ? 最後に連絡した時には、アルバイト三昧だったようだが」
「ふっふっふっ。よくぞ聞いてくれたよ、つっきー。もちろんバイトも死ぬほどやった。でもね、夏のヒジリちゃんと来たら、これしかない……」
「あれでしょ、静岡だか山梨でやってるロックフェス」
「あっ、ちょっと、きょんちゃん! アタシが言おうとしてたのにっ。それに静岡とか山梨じゃなくて、新潟ね? に、い、が、た」
 言い当てられたことがお気に召さないのか、むくれている。
「そんなこと言われたって、去年『アタシの夏のルーティーンなんだよね~』って、自分で公言してたじゃん」
「そ、そうだっけ? 忘れちゃったなあ、えへへ~」
 ヒジリはアイドルの追っかけだけでなく、音楽自体が大きな生きがいなのだ。だから、特に部活にも入らず、四六時中アルバイトをかけ持ちして資金を貯め、推しやイベントにつぎ込む。いや、勤しむことが楽しいらしい。
 ちょっと愛が強すぎなところはいかがなものかと思うが、本音としては、こんなに打ち込めるものを高校生のうちに発見していることが素晴らしいし、少しだけ尊敬する。
 そのあとは、ヒジリの夏フェス話が始まったので、途中までは大人しく聞いていた。当然、その「途中」からは飽きたので、ひとりで窓の外をぼーっと眺めた。
 敷地内に植えられた庭木のちょうどてっぺんのところが風で揺れている。相変わらず日差しは強いままで、奥に見えるグラウンドでサッカーボールを蹴っている男子生徒たちの気が知れなかった。
「あ、もうこんな時間じゃん。そろそろ戻らなきゃね」
 ヒジリが言い出したので、壁の時計を確認する。あと一分ほどで予鈴のチャイムが鳴りそうだった。ゴミを片付け、荷物を持って教室へ移動する。
「それにしても珍しいね。きょんちゃんが休みの間、ほのちんと一緒に居ないなんて」
 並んで廊下を歩いていると、唐突にヒジリがわたしの顔を見上げた。
「え、キャンプ行った、って言ったよね」
「そうだけどさ、その前に『前半』って言ったでしょ? だから、後半戦があるのかと思ったの。でも、あとは何もないって言うから」
「あー……」
 わたしは手元の弁当包みをくるくると、もてあそんだ。
「いや、ほのがさ、予備校通いだしたんだよね。来年、大学受験だから、今のうちからちゃんと勉強しておきたいって」
 指摘どおり、通常の夏であればキャンプに行くのは八月だったのだ。しかし、ほのが予備校に通うことになったため、時期を早めたのである。
 しかも、日中は勉強につぎ込んでいたので、わたしとほのは家がお隣さん同士にも関わらず、これまでの歴史をくつがえし、顔を見る機会はほとんどなかったのだ。
 ちなみに、わたしは勉強など、学校から出された英語の長文課題しかやっていない。それでもテキスト丸一冊なので、ある程度の量はこなしたわけだが。
「へー、さっすがC組から上は意識が違うよね。ウチのママが聞いたら『爪の垢でも飲ませてもらいなさいよ』とか言いそう」
 手のひらをパタパタと仰ぎ、ヒジリが微風を得ようとしている。
「だが、他人事ではないぞ。私たちも来年は同じ受験生なのだから、花村の判断は賢明だ。すでに志望先を目指して、勉学に励む同級生は珍しくないからな」
「わ、分かってるよ、そんくらい。だから、今のうちに夏を楽しんでたのっ」
 言い合っているふたりが先を行き、わたしはその背中を見つめた。
 たしかに、彼女の意見は当然のことだった。わたしたちは、世間的にはもう子どもではない。そろそろ自分の将来について真剣に考えなければならない時期。決断が迫っている。
 それを、ほのは少し早めただけ。
 でも、なんだか――。
 胸がざわめいてしまう。いつまでも楽しい時間が続くわけがないと、分かっているから。
――恭子ちゃんに話しておきたいことがある。
 ほのは、メッセージでそう言っていた。話しておきたい……って、何のことだろう。
 そう思うと、途端に背筋がひんやりとして、ドッドッと脈を速く感じた。スカートのポケットに入れたスマホを取りだし、メッセージアプリを開く。「ほの」と表示されたところをタップして、すかさず入力した。
――ほの、放課後に話そうよ。わたしもちゃんと聞きたいから。
 送信して、スマホを閉じる。
 階段の前でつっきーと並んだヒジリが、立ち止まっているのに気づいて名前を呼ぶ。何事もないように返事をして、教室へと急いだ。

 無事に夏休み明け初日の授業が終わり、時計は午後三時半をさそうとしていた。
 日直の号令のあと、担任の荻野先生がにこやかに「じゃあ、みんなまた明日ね~」と手を振って、教室を出て行った。
 リュックの中を確認しつつ、スマホのメッセージを確認する。通知が二件あった。ひとつは、パパからで「帰りに柔軟剤買ってきて~」とあり、その下に顔の前で両手(?)を合わせたひよこが「お願い……(キラッ)」と涙を流している。即行で「はい」と打って閉じた。もう一件は、ほのだった。泣いているくまのスタンプの上に
「ありがとう、恭子ちゃん。でも、今日は終わったらすぐに塾だから、話せないや」
 とある。
 昼休みのヒジリの発言から、ほのの言う「話」がやたらと頭を離れなかった。できれば今日中に、このもやもやを解消したい。うーん……、どうしたものか。
 わたしは「ほの」の表示の下にある電話マークを押した。スマホを耳に当て、数度の呼び出し音のあと、「もしもし」と聞きなれた声がした。
「あ、ねえ、ほの。今いいかな」
 彼女の気配の向こうから、ゴソゴソと物や人の動く音が聞こえる。
《ああ、うん、いいよ。なあに?》
「塾って、何時に終わんの?」
《えっとねえ……少し自習して、それから授業だから……だいだい九時半くらいかな》
「塾って、駅前の香林(こうりん)予備校でしょ? なら、家につくの十時前とか?」
《ああ、まあ、そうだね。そのくらいかなあ》
 だったら、家の前で待っているか、塾まで迎えに行けば、時間はつくれるはず。
 少しの間、そう考えて、わたしはまた話しだす。
「じゃあ塾終わったら、連絡ちょうだい。ほのの話、聞きたいからさ。わたし待ってるよ」
《そ、そんな、いいよ。そこまでして話す内容でも……いや、でもお、大事かもなあ》
 なんだか煮え切らないことを言っている。
 首と肩の間にスマホを挟みながら、チャックを閉じ、リュックを背負った。
「わたしも今日は部活だし、そのあとお遣い頼まれてるから、それなりに暇ではないよ。大丈夫だって、任せてよ。じゃないと気になって、明日の授業中に爆睡するかもだし」
 電話の向こうで「うーん……」と少しだけ考えてから、ほのはわたしの提案を了承した。
 スマホを手に取り、通話をオフにする。ポケットに仕舞ってから、ヒジリたちに挨拶をし、教室を出て、西棟にある美術室へ向かった。
 わたしが今までいた建物は、北棟と呼ばれ、二階から四階までのすべてのフロアがホームルームを行う教室になっている。一階は、昇降口や事務室、保健室などがある。
 その左右には、西棟と東棟というふたつの建物があり、職員室や食堂、購買、ラウンジなどは東棟に位置する。
 そして、現在、向かっている西棟は、別名「特別教室棟」とも呼ばれ、視聴覚室や図書室、家庭科室や、パソコンがある情報処理室などが入っている。
 美術室もその棟の三階にあり、言わずもがな、わたしは美術部に所属しているのである。
 他人(ひと)から、よく「全然、芸術性があるように見えない」だの「その感じで美的センスを発揮ッ⁉ どうやって?」だの、大変失礼なことを(主にヒジリから)言われるのだが、これでも幼い頃からアーティストとして、その界隈を騒がせてきたのだ。
 幼稚園時代は、クラスでいちばん桜の木を描くのがうまかったし、小学生時代では、海中を泳ぐくじらの版画をつくり、先生に絶賛された。中学では、水彩画のコンクールで入賞したこともある。
 高校生になった今でも、それは健在だ。今年も六月に行われた「環境」がテーマの、市主催のポスターコンクールで入賞したのだ。夏休みの間、市役所近くの多目的ホールで展示されたほどだ。
 ただ、天才とか秀才とか、そういう特別な才能があるわけではないと、自分でも少なからず思っているので、将来、芸術家で食っていきたいかと訊かれても反応に困る。
 この年齢だから楽しめるものというか、このまま純粋な気持ちでいたいというか……。
 そんなことをひとりで考えているうちに、美術室に面する廊下を曲がり、あっという間にこの時間だけは「部室」の教室へと到着した。
 しかし、そのわたしの一歩は、とある人物に阻まれる。その彼は、廊下の半分を埋め尽くす荷物を文句も言わずに、せっせと運んでいた。
 それらは、茶色い紙袋や、ビニールに包まれたペットボトル、中から謎のロープが出ているダンボール箱など、得体の知れないものばかりだった。おそらく作品で使うための材料なのだろうが、あまりにも多すぎる。
 ゆっくりと近づき、足元にある紙袋の中を覗き込みながら、声をかけた。
「宇佐見(うさみ)。あんた、また古室(こむろ)先輩にこき使われてんの?」
 わたしに気づき、男子にしては少し小さめの頭が振り返る。ああいう髪型をマッシュショートとかいうのだろうが、前髪が重すぎないところは、清潔感があると思う。
 宇佐見薫(かおる)。同じ美術部員で、同級生の男子。
 極度の童顔な上、身体も線が細いので、初対面のヒジリから
「女の子みたい、かわい~! うさみ、かおるっていうの~? 名前もかわい~。じゃあ、薫ちゃんだねッ」
 と言われ、ものすっごい嫌そうな顔で
「締めるぞ、チビ」
 と、ガチギレした男である。だが、安心してほしい。
 わたしが袋の中の、ギラギラとしたモールを眺めていると、宇佐見は、抱えたペンキ缶を作業台の上に置き、廊下へ戻ってきた。
「そんなんじゃねえよ。ちょっと手伝えって言われただけ」
 にこやかに言って、彼はまた別の荷物を運んでいく。
「そんなこと言うなら、佐伯も手伝えよな」
「えー、やだよ。めんどくさい。薫ちゃんひとりでやって」
「誰が薫『ちゃん』だ、ア? ……このペンキ、頭からかけるぞ」
「嘘だよごめん手伝うから」
 このように「薫ちゃん」とさえ呼ばなければ、とても気前よく、やさしい男なのだ。
 そう。宇佐見薫は、本当に「やさしい」男なのだよ。わたしが保障する。
 美術室の隣にある準備室内のロッカーへリュックを放り込んでいると、廊下から「ヒー、ヒー」という男性の高い声が聞こえてきた。そして、あの荷物の山のところで止まる。宇佐見が「うわ、先輩。重そうすね」と言った。
 準備室を出て行けば、その男子生徒はわたしの顔を見た瞬間、こちらへすっ飛んできた。
「おおー! 恭子君ではないか! なんだか久しいな。元気にしていたかな?」
「あ、はい、まあ……」
 寝ぐせなのか、天然パーマなのか、一年以上の時間を共にしても、この人の髪型は理解しがたい。何せぴょこぴょこと跳ねたのが、まるで鳥の巣のように丸みを帯びている。
 たまに、髪の毛の中に飴なんかを仕舞っておく人間がいたりするが、先輩も例にもれず、たまあーに小枝や葉っぱがポロポロと落ちてくることがある。
 おまけに背が高く、ガタイがいいため、街中でもすぐに見つけることができそうだ。もはや集合場所の目印である。
「なんだ、なんだ恭子君。あまり元気ではなそうだね。いやまあ、こうして美術室まで来てくれたのだから、体調が悪いわけではないのだろう? いやはや、良かった!」
 ドン引きのわたしを置いて、彼は白くくもったデカい丸眼鏡を揺らしながら、たったひとりで大笑いしている。誰か、この男の頭から水でもかぶせてほしい。
 古室裕司(ゆうじ)。美術部の三年生男子。元副部長で、今は受験勉強中だったはずだが、この様子では何やら作業をしにきたようだ。
「先輩、いいから手伝ってくださいよ。今持ってきたデカいやつ、入れるんで」
 向こうの扉から、宇佐見が顔だけ出している。彼の声にハッとして、先輩は「いや~、すまなな、薫君」と言いながら戻って行った。
 気になるのでついて行くと、縦二メートル、横一メートルくらいのサイズのベニヤ板が数枚、重ねられて包装されていた。ふたりは、両端を持ち上げ、せっせと室内へ運ぶ。
 なんだかふたりに申し訳ないので、わたしも廊下の荷物を少しばかり移動させてやった。
「あの、古室先輩。訊きたかったんですけど、これ何に使うんですか?」
「あーこれはな、吾輩の卒業制作なのだよ」
「え? うちの部って、そんなんありましたっけ?」
 荷物運びに合流した宇佐見が驚いている。わたしも初耳だった。
 たいていの三年生は、それぞれが夏前に行われる外部のコンクールか、十一月にある文化祭の模擬展示会に出品するのが通例である。それも、だいたいの生徒は、受験のために夏前には引退してしまう。今年の先輩方も、ほとんどがそうだ。
 だから、こんなにも大々的に制作しようとしている人は見たことがなかったのだ。
 従順に作業する後輩ふたりを置いて、古室裕司は優雅そうに、作業台へ寄りかかって額に人差し指をあてた。
「いや、実はね、吾輩の志望する芸術大学の入学試験の中に、実技があってな。それも兼ねているのだよ。それに、これまでの人生で聖陵の学び舎が一番、吾輩の実力を発揮させてくれた場所だからね。相田(あいだ)先生に頼んで、場所を貸してもらうことにしたのだ」
 相田先生というのは、美術教師で、うちの部の顧問である。四十路(よそじ)近くの独身女性で、気がいいのか、何も考えていないのか、部員の要望を割と聞いてくれる。
 古室先輩はこういう人柄なので、無理難題を結構な頻度で提案するのだが、他の部員が文句を言っても、先生だけは了承してくれていた。今回もその一例のようだった。
 まあ、もうすぐ卒業だし、受験生だし、先生の気遣いも分かる。
「でも美術室、こんなに占領して大丈夫なんすか? 黙ってないのがひとりいるような……」
 宇佐見のつぶやきは、わたしでなくても一瞬で察することができた。
 先輩、いや彼自身は全くもって気にしていないのだが、その人物だけがやたらと先輩を敵視しているのだ。今は居ないので平和だが、彼女がやってきた暁にはどうなることやら……。
 こちらの不安をものともせず、彼は鼻歌でもうたいそうな勢いだった。
「まあ、みんなも分かってくれるさ。吾輩の高校時代の集大成だ! 存分に期待しておいてくれたまえ」
 そして、美術準備室で何やら白衣に着替え、部屋の隅で作業を始めた。見ているだけで恐ろしいが、もう今後の展開の収束は本人たちに任せることにして、わたしたちも作業を始めた。
 しばらくすると、他の部員たちもやってきて、各々の活動に取り組んでいく。
 今は、特にコンクールや大会があるわけでもないので、遊び程度に窓の外の景色をスケッチすることにした。窓辺にイスと机を引っ張ってきて、観察を始める。
 下には、主に運動部が使っている部活棟やテニスコートが広がっている。登校初日だというのに、男子硬式テニス部が打ち合いをしており、ご苦労様なことで、と思った。
 調子が乗ってきて、夢中になりそうだった。久しぶりに、自分の感じたことを形にする喜びが襲ってくる。
 夏休み中は、ほとんど部室に来なかった。
 来ようと思えば来れたのに。どうして足が向かなかったのだろう。
 ……いや、今は考えたくない。
 スケッチだけにしておこうと思ったが、少し欲張って、色ものせてみようかな……と少し息をついた時だった。
 美術室の扉が勢いよく開き、ひとりの女子生徒が足音をドカドカと床に響かせ、入ってきた。室内を見回し、古室先輩の姿を見つけると、そのままの剣幕で歩いて行った。
「先輩。今、少しよろしいですか?」
 言い方は丁寧だが、語気には、思いっきり怒りの感情がのっている。
「やあ、恵美(めぐみ)君。君も久しいねー、元気にしていたかい?」
 振り返った先輩は、イスに腰かけたまま、その豊口(とよぐち)恵美を視界に入れた。態度には雲泥の差がある。わたしから見える豊口さんの後ろ姿がプルプルと震えているのが分かった。
「はい、体調は万全です。しかし、気分は最悪です。いえ、今はそんなことはどうでもいいんですよ。とにかく、一緒に廊下へ出ていただいても……?」
 宇佐見と予想していた通り、これから大乱闘が始まるのだ。
 何の空気も読めていない古室先輩は「ああ、構わないよ」と、後輩に呼びだされてさもうれしそうにしている。なんという鋼メンタル。
 美術室内に戦慄が走る中、ふたりは廊下へ出て行き、扉がピタリと閉じられた。
 それからはもう、耳をふさいだところで到底、意味のない大音量で、豊口さんの文句がつらつらと並べられた。言わずもがな、部室の使い方についての話で「先生が許しても、私は許しませんっ!」と怒声が飛んでいた。
 彼女は、わたしと同級生の、美術部の新しい部長である。入部した当初から先輩の行動(彼女は影で「愚行」と言っている)が気に入らないようだった。
 ちらほらと「部長として見逃せません!」などと聞こえてくる。古室先輩が相手だったとしても、どれだけ気合が入っているのか。これでは、下級生も縮こまってしまうのではないか。すでにわたしは、面倒で仕方がない。
 近くで水彩画を描いていた宇佐見と顔を見合わせ、目配せだけで
――どうする?
――どうするって、何が。
――だから、外のアレをどう止めるかって話だろ。
――止めるも何も、あんな豊口さんと話したくないよ。とばっちり食らうのがオチでしょ。
 と、お互いに事態の責務をなすりつけ合っていた。
 部長という役職を背負ったからか、これまでの鬱憤を晴らすかのように、豊口さんの文句は続いていく。そして、時は流れ、いつの間にか下校を促す予鈴のメロディが聞こえてきた。
 ようやっと冷静を取り戻したようで、それを聞くや彼女は、
「今日はこれぐらいにしておきます。しかし、先輩も先輩らしく、他の部員が心地よく活動ができるように協力してください」
 と、置き土産して、室内に戻ってきた。
 わたしと宇佐見、他の部員たちは、無言で片づけを進め、そそくさと退室を目指した。
 学校の外に出ると、東の空の隅が少しばかり暗くなってきていた。校門のところで古室先輩と別れ、電車通学の宇佐見と一緒に駅前まで歩くことにした。
「それにしても豊口、ヤバかったなー」
「そうねー」
「あんなにブチギレたら、脳の血管つまるだろ」
「ブッ、ちょ、笑わせないでよ」
 平然とした顔で、宇佐見が暴言を吐くので思わず想像してしまった。笑いが小刻みに押し寄せてくる。
「だってそうだろ。古室先輩だって、意地悪でああしてるんじゃないんだしさ。もうちょっと寛容になればいいのに」
 それは正論であると同時に、決して本人に言ってはいけない内容であった。わたしだって、嫌いな相手を前にして、悪態をつかないでいられる自信はない。
 今朝、駆け上がった坂を下っていく。後ろから野球部らしき生徒が数人、自転車に乗って走り抜けて行った。
「そういえば、佐伯の作品が出てる展示会、行ってきたよ」
「え、嘘。なんで?」
「なんでって、どんなもんかなーって思ったから」
 宇佐見にしては珍しいことだった。彼は断れない性格なのを抜きにすれば、普段はひとりでいる印象だし、それにわたしの作品に対して、自ら意見することは少なかった。
「ふーん。誘ってくれれば、一緒に行ったのに」
「なんで一緒に行かなきゃなんないんだよ。俺も同じ公募に出してんだぞ? 入賞者と落選者のふたり組で行くのは、おかしいだろ」
 たしかにそうか……、いや、どうなのだろう。分からない。
 彼は、肩にかけた鞄のひもを調整しながら、不思議そうに言った。
「たださ、なんか、あんま佐伯っぽくないアイディアだなと思ったから。なんか気になっちゃって」
 その言葉にどきっとした。こいつは意外と、人のことを見ているのだな。
「あー、うん。モチーフ自体は、ほのが提案したことなんだよね。ほら、わたしって『環境』とか、真面目に考える方じゃないじゃん?」
「それ、自分で言って平気なのか?」
 視線が痛い気もする。でもまあ、別に構わない。
「……その『ほの』って、佐伯の幼なじみなんだっけ。たしかB組の」
「よく知ってるね。惚れたか」
 そう言うと、宇佐見は盛大にむせ返った。
「ゲホッ、ゲホ。な、馬鹿だろ。んなわけあるかアホ」
「あ、アホって、それはひどくない? 馬鹿はまだいいとして、アホはどうなの。ちょっと傷ついた」
「はいはい、ごめんごめん」
 全く誠意が伝わってこないが、わたしの親友に免じて許してやろう。
 坂が終わりにさしかかる。ここまで来ると、今度は目と鼻の先の商店街を抜けていく。人の波が一気に増し、お互いに身体を近づけないと聞き取りづらくなった。
「仲いいよな。付き合い、どのくらいなんだっけ」
「えっと、五歳のときからだから、もう十二年目だね。うわ、そう考えると時の流れヤバ」
 なぜか笑いが込み上げてきて、わたしはほのとの思いで話を自然と並べていた。
 年上の男の子たちに砂場でつくった城を破壊され、泣いているほののために、そいつらを蹴り飛ばし、わたしが近所のおじいさんに怒鳴られたり。やさしい彼女が、怪我だらけのわたしにジュースを買ってきて分けてくれたり。
 話せば話すほど、わたしたちの間につくられた絆のようなものを感じる。
 両親があの家を買い、この街に引っ越してきていなければ、わたしはほのと出会うことはなかったかもしれないし。パパが人見知りのわたしを無理やり公園まで連れて行き、ブランコで遊んでいたほのに話しかけなければ、彼女はわたしを認識することもなかったかもしれない。
 その、考えられる「かもしれない」を思うと、胸の中がいっぱいになって、早くほのに会いたくなった。
「ふーん。なんか、そういうのいいよな」
 黙って聞いていた宇佐見が、独り言のようにつぶやいた。
「俺、誰かとそこまでの関係になったことないから、ちょっと尊敬する」
あんまり真剣な目をするので、こちらの方が少し恥ずかしくなった。宇佐見の後ろで店の灯りがキラキラと輝いて見える。
「……まあ、そうかもね」
 素っ気なく答えて、黙って前を向いた。
 気がつくと、わたしたちの前には、最寄り駅の入り口があった。宇佐見は、三駅先の町に住んでいるため、そこで別れ、わたしはパパに頼まれた柔軟剤を買うために近くのドラッグストアへ寄ってから帰宅した。
「恭子ちゃん、おっかえり~」
 玄関で靴を脱いでいると、パパがやってきてハグしようとしてくる。
「はい、ただいま」
 こちらもにこにこしながら、代わりに柔軟剤の入ったエコバッグを押しつけた。
 大人しく受け取り、フリルのついた白いエプロンを翻しながら「今日のご飯は、コロッケだよ~」と、パパは脱衣所の方へスキップして行く。何が楽しくて、父親のエプロン姿を毎日見なくてはならないのか。
 二階の自分の部屋へ行き、シャツとショートパンツに着替えてから、パパと夕食をとる。ママは、今日も帰りが遅くなるようだった。
 部屋へ戻り、ベッドに寝ころんで塾が終わるのを待った。
 それにしても、ほのの言っていた話がとにかく気になる。電話ごしに聞こえた「大事かもなあ」という言葉には一体、どんな意味があるのか。
 もしかして、休み中に会わなかったことと関係があるのかな。塾で新しい友だちが出来て、その子と居たいから、恭子ちゃんとの時間はつくれない、とか……。
 自分で考えておいて、少しばかり背筋が寒くなる。馬鹿野郎、ほのとわたしの友情はそんな簡単に崩れたりしないんだから。
「……約束、したんだから」
 まるで自分が幼い頃に戻ったような気がした。
 ほのと出会う前のことは、あまり記憶にないのだが、たしかに感じていたのは、どこからともなくやってきた孤独だ。それは、本当にとても小さなほころびでしかない。しかし、あの年齢の身体には、とても大きな感情だった。
 絵を描くことでしか自分の気持ちを昇華できないわたしが、初めて出会った同い年の女の子。やさしくて、あたたかくて、少し頼りないのに、どこか強さを感じるあの手が、わたしを引っ張って、広い世界に連れ出してくれたのだ。
 だから、わたしにとって彼女は、何者にも代えられない、大きな存在。この歳では、もう恥ずかしくて正直になんて言えないけど、きっといつも心の中で思っている。
「らしくないな……」
 不安が消えてくれまいかと寝返りを打った。待っている時間が永遠に感じる。次第にまぶたが重たくなり、わたしは微睡んでいった。

 その間、夢を見た。
 幼いわたしと、ほのが、ブランコの前で誓った、永遠の親友の約束。
 子ども時代の幻想だと、大人になれば消えてしまうのだと、たとえ誰かが言ったとしても。
 わたしは信じている。繋がれた小指から生まれる、大切な輝きを。

 通知をオンにしていたスマホが鳴った気がした。ハッとして手に取り、確認すれば、待ち望んでいた名前が表示されている。
「塾、終わって帰ってるよー。たぶん十分くらいでつくと思う」
 その文の横に「ほの」とあった。
 わたしはだらしなく投げだしていた身体を起こす。スマホを持って、部屋を飛びだし、階段を駆け下りた。足音に気づき、パパがリビングから靴を履くわたしの背中を覗いていた。
「あれ、恭子ちゃん、今からお出かけ? もう九時半だよ」
「うん、ちょっとだけ。ほののとこ行ってくるから」
 早口で告げて、玄関の扉を押し開け、外にでる。
「き、気をつけてねー!」
 閉まる前の隙間から頼りないパパの声が聞こえた。塀の手前の、花が植わったプランターをすり抜け、駐車スペースにとめておいた自転車の鍵を外し、道路にでてペダルを漕ぎだす。
 宇佐見と下校していた時間もそれなりに暑さはやわらいでいたが、夜になると、少し肌寒くも感じた。数秒もすれば、自転車は坂を下り始める。
 頬を吹き抜ける風が、あのときのブランコを思いださせる。
 不安なんて、どこにもなかった。自然と顔がにやけてきて、声まで出てしまう。カラカラと回る自転車のチェーン音が心地よかった。
 坂も終盤にくる頃、それらしき人影を発見した。暗がりの中から出てくると、白い街灯に照らされて、水色のセーラー服が顔を覗かせる。
 肺に空気を取り込んで、思いっきり叫んだ。
「ほおー、のおー‼」
 住宅街に響く、間抜けにもうれしさの隠せない自分の声。通り過ぎた横の家から、まるで呼応するように犬の鳴き声が聞こえた。
 ブレーキレバーを掴み、スピードを落としていく。
 ほのはわたしに気づくと驚いて、「あっ」と口を開けた。手を振ってくれるかなと思ったが、なぜか慌てた様子で自分の左側へ顔を向ける。わたしからは暗くて、何があるのか分からないのだが、自転車の動きがゆっくりになっていくにつれ、次第に目がそれを捉えだした。
 姿形からして、それは人間ではあった。
 ほのよりも、いや普通の女子よりも身長は高く、肩幅もある。
 短い髪に、白いワイシャツの上には明るい色のサマーニットを着て、下は何やら濃い色のスラックスを穿いていた。肩には、学生鞄をかけている。
――だ、誰? え、は?
 脳内をフル回転させて、該当する人物がいないか考えてみたが、割り出せない。
 あまりにもその彼に意識が向いてしまい、身体から力が抜けていった。その顔が目の前へ迫る。
「恭子ちゃんッ‼」
 耳奥へほのの悲鳴にも似た叫び声が聞こえ、瞬間的にブレーキレバーを力強く握りしめた。
 自転車のタイヤは「キィー!」と大きな摩擦音を発して止まり、ハンドルの前についていたカゴを、見知らぬ彼が両手でぐっと押さえてくれていた。
「……あっ」
「ふたりとも大丈夫ッ⁉」
 わたしの左側からほのが血相を変えて寄ってくる。ハンドルの部分を茫然と眺め、自分のしでかしたことが信じられなかった。背筋は凍り、彼の方へバッと顔を上げる。
「あ、あの、すみませんでした……」
 辛うじて謝罪すると、年齢の近そうな彼、いやたぶん普通に同じ高校生だと思うのだが、その彼は、予想外にもへらっとした笑顔を向けてきた。
「い、いや、びっくりしたけど……何もなくてよかった」
 相手を心底、安心させる穏やかな声をしていた。
 わたしはゆっくりと自転車を降り、バクバクと鳴り続ける心臓が静まるように深呼吸した。
「ほのも、驚かせてごめんね」
「う、ううん。無事でよかったよお……恭子ちゃんも大丈夫?」
「……うん、ありがと」
 ふうと息をつき、ほのは胸をなでおろした。本当に何もなくてよかった……。
 理性が戻ってくると、三人の間に流れる気まずい空気がいやというほど感じ取れた。わたしが彼を知らないということは、彼の方もわたしのことを知らないわけで、いきなり知らない者同士が危うく自転車事故を起こすところだったというのは、いたたまれなくて仕方がない。
 最初に口を開いたのは、ほのだった。
「あ、えっとお、恭子ちゃんは、迎えに来てくれたんだよねえ?」
「え、あ、うん。そうね」
「あの、ありがとうねえ」
「……うん」
 馬鹿、わたし。せっかくほのが話してくれたのに黙るなよ……!
 どうにかならないかと視線を漂わせれば、同じく気まずそうな彼とばっちり目が合ってしまった。お互いの身体がビクッと震え、今度は彼の方がわたしへ歩み寄った。
「あ、えっと、僕は、成田智尋(なりたともひろ)といいます。ほのさんとは、同じ香林予備校に通っていて……、あの、佐伯恭子さんですよね?」
 驚いた。突然、他人の口から自分の名前がころがってきた。思わず「は?」なんて言ってしまったし。わたしの反応に、彼はわたわたと慌てだす。
「え、あ、すみません。ほのちゃんが『恭子ちゃん』って呼んでたから、てっきりそうなんだと思って」
「あ、合ってるよお、トモ君」
 ……ほのちゃん? ……トモ、くん?
 よく状況がのみ込めていないわたしを置いて、ふたりは親しげに何やら会話している。
 誰よりもほのと同じ時間を過ごしてきたわたしが、彼女の交友関係を把握できていないことにも戸惑ってしまう。
 ほのの言葉に安心したのか、その「トモ君」という彼は、愛想よく笑った。
「なんだ、よかった。彼女からずっと話を聞いていて、お会いしたいと思っていたんです。小さい頃からの一番の親友だって」
「え、ええ。まあ、それはそうですけど……」
 ううん? 何なんだ、この人は……?
「えへへ」とでも言いこぼれそうな表情の彼を見て、隣のほのもなんだかうれしそうにしている。ここまできて、わたしはようやく自分から疑問をぶつけることにした。
「えっと、ほ、ほの。この人、誰なの?」
「え? ああっ、そうだ。恭子ちゃんにはまだ伝えてなかったんだよねえ」
 機嫌よさそうにくるりと回り、わたしと彼の間に立つと、ほのは満面の笑みで言った。
「改めて、紹介するねえ。こちらは、あたしの一番の親友で、聖陵学園二年の佐伯恭子さん。それでこっちは」
 ほのの左手が彼へと向けられ、同時にわたしの視線もその姿を捉えた。
「相良学院高等部三年の、成田智尋さん。あたしの彼氏です」
 カ……レ……シ。
 カ、レ、シ。
 彼、氏。
 彼氏。
 ……。
 周囲の静寂が、わたしの全身に触れ、無風にも関わらず、足元をトコトコと通り抜けていく。サイレンのように鳴り続ける、その単語に言葉を失ってしまった。
「よろしくお願いします、恭子さん」
 途方にくれているわたしに気づかず、「トモ君」は自分の右手を前にさしだした。
 あ、握手か、と動作を認識し、こちらも手を前に出すと、支えを失った自転車が「ガシャンッ!」と言って倒れた。

〈わたし(永遠の親友)にライバル(親友の彼氏)、登場……⁉ 【後編】〉

 ものすごい近くで「ミーン、ミーン」という蝉の声がする。
 本当に、ものすっごい近距離。
 ベッドに預けた頭を起こし、音のする方へ視線を動かす。窓だ。
 ベッドの脇にある窓の外の壁に、やつがいる。とてつもない寝不足で、身体が石のように動かないわたしへ向かって、「おい、恭子。朝だぞ! 学校に行く時間だろっ⁉ おい、聞いてんのか」と文句を言わんばかりの叫びだった。
 うるせえ、こっちだってそんなことは分かっている。枕元に置いたスマホの画面をタッチした。
 午前六時五十分。
 昨日の大寝坊に比べれば、よっぽど健康的な時刻である。何回か寝返りを打ってみたが、どれだけ目を瞑っても大人しく眠れない。
 仕方がないので起きだして、洗面所へ顔を洗いに行った。部屋に戻り、身支度を整えてからダイニングへ行くと、いつの間に帰ってきたのか、ママが朝食をとっていた。
「恭子、おはよう」
「……おはよう、おかえり、ママ」
「ただいま。今日のクロワッサン、あなたの好きなチョコ入りよ」
 そう言って、手にしたコーヒーを口につける。ダイニングテーブルの奥には、大きな窓があり、庭の物干し竿へパパが洗濯物を干しているのが見えた。
 リモコンでテレビをつけ、ソファへなだれ込む。テキトーにチャンネルを回すが、特にめぼしいニュースはない。
 それもそうだ。昨晩の事件ほど、今のわたしにとって注目すべきことはない。
「ご飯、食べないの?」
 背後からママの声がした。
「うーん……」
「声が眠そうね。また夜更かしでもした?」
「……うーん」
 話の内容が一切、頭に入ってこない。こうして目を開けているだけで精いっぱいだ。
 食事をとり終わったようで、食器がぶつかる音がした後、「なんでもいいから、お腹に入れるのよ」と言って、ママは部屋を出て行く。入れ替わるようにして、今度は窓が開き、洗濯カゴを持ったパパが「あ、恭子ちゃん、おはよう」とにこやかに言った。
「今日は早起きだね。感心、感心~」
 娘が自力で起床しただけで、この上機嫌ぶり。半分、いや何分の一でもいいので分けてほしい。ソファの上でぼけーっとしていると、ニュース番組の上に表示された時刻が、いつの間にか七時半を過ぎていた。このままでは、本当に石化してしまう。
 なんとか立ち上がり、二階へ荷物を取りに行った。階段を下りてくれば、ちょうどママが玄関で靴を履いていた。その姿をうれしそうに眺めるパパは、わたしに気づいて振り返る。
「あれ、恭子ちゃんもお見送り?」
「ううん、わたしも学校行く」
「え、朝ご飯は? お弁当は持ったの?」
 いらないし、持った、と言いながら、わたしも靴を履き、ママの横を通り抜けて玄関扉を押し開けた。
「い、いってらっしゃい! 気をつけてねー」
 背後からパパの慌てた声がしたが、返事をする元気もない。門をくぐり抜け、トボトボと歩きながら学校へ向かった。

 教室につき、その日の授業が始まっても、わたしは永遠に机とお友だちだった。
 担任の荻野先生は「具合でも悪いのかなあ」などと、やさしいことを言ってそのままにしてくれたが、三限の数学では、A組の笹島(ささじま)先生が「佐伯ー! 起きろおー!」と野太い声を浴びせてきた。クラスメイト全員の前で名指ししなくてもいいのに、と思いながらも、わたしは寝ているふりを決め込んだ。
 昼休みになり、周囲がざわめき始める。ものすごい腹痛で、もしかしたらこのまま死ぬのかもしれない……と思った。
 ふと、脇腹の辺りを指でつつかれる。自分の席の両サイドに人の気配を感じた。
「ねーえ? つっきー。この子は、なんでこんな噛み終わったガムみたいに伸びてんの?」
「さあ、私にも見当つかないが」
「うーん……、きょんちゃんがこんな風になる原因はー……」
 右に立っている人物が、大して知識もつまっていないであろう脳みそを使おうとしている。少しの間うなり、結局何も浮かばなかったのか、また脇腹をつついてきた。
 くすぐったくて、つい動いてしまう。
「お、反応アリ。おーい、きょんちゃーん。何を絶望してんのー? おかしなものでも拾い食いしたー?」
――わたしは犬か。
 内心呆れるが、まだ顔を上げる気にはならない。今度は左に立っている人が話しだす。
「おい、ヒジリ。もしや……アノ日では?」
「ああ、アノ日ね。それなら納得。お腹押さえてるもんねー。ねえ、きょんちゃん。今月のやつ、そんなに辛いの? アタシの鎮痛剤あげようか?」
――いや、要らんし。大ハズレだし。
 もう面倒になってきたので、事情を聞いてもらおうと身体を動かしたとき、近くにある教室の扉がスライドする音が聞こえた。最初は気にしていなかったのだが、そこから入ってきた足音がだんだんと近づいてきて、わたしのすぐ後ろで止まった。
「お、花村。ちょうどいいところに来たな」
「そうだよ! ほのちんが居れば、万事解決じゃんっ! ほらほら、きょんちゃん」
 え、……ほ、の?
 その名前に反応して、身体が鉛のように固くなった。
「うーん? ちょうどいいってえ……何があ?」
 その、鈴の音のような声が、大好きなその声が、なんだか今は、わたしを逃げだしたい気持ちにさせた。
 ダメだ、今は顔、見せらんないよ……。そう思ったら、全身が鞭を打ったように飛び起き、他の机をかき分けて教室を駆けだして行った。
「あ、恭子ちゃんっ……!」
「ほのは、来るなッ‼」
 自分でも驚くほど、大きな声がすんなりと出た。大きな、拒絶の声だ。
続いてヒジリとつっきーの声も聞こえた気がするが、なりふり構っていられない。だって、もし立ち止まってしまえば、絶対にほのと顔を合わせることになる。それでは逃げた意味がないではないか。
 しかし、この野望は一瞬にして打ち砕かれた。教室を出ようと、曲がった机の脚に思いっきりつま先を引っかけ、身体の前面を床に強打したのだった。
 静まり返る室内。わたしは、あまりの痛みと恥ずかしさに顔を上げられず、状況を察したヒジリとつっきーがわたしの両脇を掴んで抱え起こし、早急に連れだしてくれた。
「あーもー! びっくりしたじゃんっ。コッチが恥ずかしかったしさー」
 逃げのびた先の空き教室で昼食をとりながら、ヒジリが床の上に両足を投げだす。
「いや、マジでごめん……。わたしもまさか、ころぶとは思わなくて」
「いやいや、全く構わんよ。幸い打ち身程度で特に出血もなかったし。よかったな、恭子」
 真面目な顔をして、つっきーはうんうんと頭を上下させた。
「いやいやいやいやッ! ぜっんぜん! よくないでしょ? 何あれ、なんでほのちんから逃げたの? 姿を見るや猪突猛進でラブコールしてたきょんちゃんが、アノっ! きょんちゃんが、ほのちんに罵声を浴びせた上に逃亡するなんて、前代未聞の大事件じゃんッ‼」
――スパーンッ
 立ち上がって発狂するヒジリの後頭部を思わず素手で叩く。しかし、また「キャー! 飛び火してきたー!」と騒ぎだしたので、側にあったポッキーを口の中に突っ込み、座らせた。
「そ、それで恭子。花村との間に一体、何があったんだ?」
 相方が咀嚼に夢中になったのを見計らい、今度はつっきーが問いかけてきた。
 空腹もおさまり、精神の落ちついたわたしは、昨晩の出来事を神妙な面持ちで話した。夏休み中、ほとんど顔を合わせることのなかった親友が、いつの間にか他校の三年生男子と交際し始めたこと。それ以前に、親友が夜道を男子と帰宅しているというシーンのあまりの衝撃にその彼を自転車で轢きかけたこと。
 話が終わると、ふたりはそれまでしていた腕組みを解き、何事もなかったかのように食事を続け始めた。
「え、ちょ、ちょっとふたりとも。感想は? なんかないの」
 購買で売っているレタスとハムのバゲットサンドを完食し、ビニール袋を綺麗に結んだヒジリは、真顔でわたしを見つめた。
「あのね、きょんちゃん。それの、どこが危機的状況なわけ?」
「そうだぞ、恭子。どこが、どのように危険なんだ」
 その隣で弁当箱を綺麗に包み直したつっきーも同じ表情をしていた。
「どこって、全部だよ! あの、ほのに彼氏だよっ⁉ ヤバイじゃんッ」
「そんなわけないでしょ⁉ チョーゼツ喜ばしいことじゃんッ! おめでとう、ほのちん! 祝、初カレ!」
 わたしの怒りを無視し、ヒジリは両手を祈るように組んで、空を見上げた。
「思えば、去年の四月。アタシはほのちんの下駄箱に入れられた、最近の男子じゃ考えられないような、爽やかなラブレターの存在を知ったとき。ああ、この子の恋人は、きっとこーゆー繊細な感覚を持った誰もが憧れる人望の厚い人間なんだろうな~、いいなあ、アタシにもバラ色の高校生活がくるんだろうな~って思ってたの。しかあーしッ!」
 顔面にビシィッ! と向けられる人差し指。
「それを、きょんちゃんは『一世一代の愛の告白を直接言えない男なんて根性がないッ! 却下!』とか言って、勝手に断っちゃったじゃん⁉ アタシ、あれ結構ホラーだったよ?」
 それに覚えがないかと言えば、そんなことはなく、バッチリと覚えていた。たしかに去年の春、つまり高校一年生のとき、そんな事件があった。
 わが聖陵学園のクラス分けというのは、成績順になっており、A組は入試成績優秀者が多く、G組は合格ラインギリギリが大半というものだった。
 当時ほのはC組で、わたしはE組だった。家から近い上にほのが志望した高校だったため、入学を決めたわたしだが、そこまで真剣に受験勉強をしたわけではなかった。そのつけが回ってきて苛立っていた最中、ほのと下校の待ち合わせをしていたわたしは、昇降口で手持ち無沙汰になり、なんとなく彼女の下駄箱を開けてみた。先に靴を出しておけば、履き替えやすいと思ったのだ。
 しかし目に飛び込んできたのは、おニューのローファーではなく、水色の便箋だった。
 特別、綺麗でも汚くもない男勝りなボールペン字で「花村ほの様」と書かれていた。一瞬にして勘づいた。これは、俗にいう「ラブレター」だということを。
 念のために裏返してみたが、差出人の名前はない。シールなどではなく、工作のりでしっかり封をされていた。これでは中身を確認できない。
 悩んだ末、わたしはほの本人には渡さず、当時のクラスメイトであるヒジリとつっきーに相談した。反応は先ほどの通り、ヒジリは大いに喜び、「本物のラブレターなんて初めて見た! ほのちん、すご~い!」などと喚いていた。それまで地方の女子校に通っていたつっきーは、何度か(もちろん同性から)その類のものをもらった経験があるようで、さも他人事のように「懐かしいな」と思いを馳せ始めるものだから、思わず不愉快になり、
「一世一代の愛の告白を直接言えない男なんてッ! 根性がないッ! ほのにもふさわしくないっ! 却下‼」
 と叫んで、中身を読む前にビリビリに破いてしまった。
 その光景を見たヒジリは、しばらくの間、自分にもラブレターがきた際は一見もさせてもらえず、わたしに破かれるのだと思い、謎の警戒を見せていた。
 一方、つっきーは「確かに、男ならば真正面から己の意思を告げるべきだっ!」と、こちらもこちらで謎の同意をみせてくれた。これはこれで、ありがたいような、何かが違っているような気持ちになった。
 しかし、わたしの努力は、意外にもいい結末へと向かった。
 いくら待てども返事のないのが不安になったのか、差出人の彼が後日、直接ほのを人気のないプール裏に呼びだしたらしいのだ。ほのと同じ美化委員だったヒジリは、委員会の集まりのあと、その現場を目撃した。
 あまり近づくと気づかれてしまうので、ある程度離れた場所から観察していたが、少し会話をすると、ほのは頭を下げ、彼は気まずそうに去って行ったという。その話を聞いて、わたしは高校に入学して早々、どこぞの男子に親友を奪われずに済んだわけだが、一応ほのにも探りを入れてみた。
 すると、彼女は少し困ったように笑って「あれはね、イタズラなのお」と言った。よくよく聞けば、学年の間で嘘の告白をするイタズラが流行っていたようで、すでにほのの友人が被害に遭っていたらしい。その犯人が例の彼であり、ほのがわざわざ注意していた、と。
 そんなこととは露知らず、本気でラブレターだと思い、勝手に持ちだして粉砕したわたしに対し、「さすが恭子ちゃん。助かったよお」と予想外の感謝が贈呈された。しまいには「お付き合いって、いいことだと思うけどお、あたしは今はいいかなあ~」とのお言葉までいただいた。
 こうして、わたしとほのの友情はさらに深まり、ハッピーエンドを迎えたわけだ。
 ……それなのに。
「なんでたった一年ちょっとで、それがくつがえるの⁉ しかも、こっちは勉強に専念したいからって言われて、休み中ずっと我慢してたのに……!」
 絶望の涙に濡れるわたしをよそに、ふたりは優雅にペットボトルのお茶やパックのいちご牛乳を飲んでいる。
「まあまあ、恭子。そんなに落ち込むな。前向きに捉えればいいではないか」
「そうだよ、きょんちゃん。アタシたちだって、高校生にもなって恋人のひとりやふたりいないなんて、つまんないじゃん。人生はメリハリが大事なの。どれか一点に肩入れしてたら、いろんなチャンスを逃しちゃうでしょ?」
 珍しくまともなことを言いだすヒジリを見て、なんだかいたたまれない。わたしも手元のミネラルウォーターを口に含んだ。
「……でも、ヒジリは『スタレイ』に全振りじゃん」
「そ、そんなことないよー。アタシだって、他にもいろいろあるんだから」
「つっきーだって、期末試験ヤバくて、部活休止させられそうになってたじゃん」
「む、そ、それは……また別の話だろう」
「別じゃないよ! 剣道に極振りしてるからじゃんっ。自分たちだけ大人みたいな顔してんじゃないよ」
 痛いところを突かれ、急に知らん顔をする友人たちに呆れてしまう。
 ただ、このふたりに何と助言をもらおうが、わたしが何と怒り狂おうが、置かれている状況は何ひとつ変わらないのである。しかも、その種が「親友に彼氏ができた」という内容だ。
 わたしにとっては、これまでの人生で最大の事件なのだ。
 俯いていると、ヒジリが隣に腰かけ直した。
「でもさ、きょんちゃん。これだけは言える。いくら彼氏ができたからって、ほのちんはきょんちゃんを見捨てたりなんてしないよ。あんなに仲良しなんだから、心配しないで」
 そう言って、わたしの背中をさする彼女が今度こそ大人に見えた。それがまた、胸の中を切なくさせる。

 授業が終わると、わたしはそそくさと教室を出て、西棟の美術室へ向かった。
 本当は行くつもりなんてなかったし、用事もなかったのだが、このまま下校しては帰宅部のほのと鉢合わせなんてことになるので、それだけは避けたかった。
 それなりに早く着いたと思うのだが、そこには、すでに先客がいた。
「あれ、佐伯」
「……宇佐見」
 美術室の鍵をちょうど開けている様子だった。彼は不思議そうにこちらを一瞥してから、扉を開けて中に入る。わたしも後を追って、入室した。
――部活休みなのに、なんでいるの? あ、ごめん。
 偶然にも、ふたりのセリフが重なって出てきた。おまけの謝罪も同時だった。思わず吹きだしていると、宇佐見は準備室に続く扉の鍵も開け、中に入っていった。
「何? なんか忘れもの?」
「いーや。古室先輩に手伝い、頼まれたから」
「ええ? またー? あんたもよくやるよね」
 扉に寄りかかって、室内を見渡す。荷物を置いた宇佐見が戻ってきて、道具やら画材やらを用意していく。
「別に。どうせ今日は暇だから、ちょっと雑用するだけ」
「……だから、それがそうだって言ってんじゃん」
「俺よか、佐伯はどうなんだよ。お前だって、用もないのに美術室なんて来ないだろ」
 そう言われて、ぐっと押し黙った。少しだけ間があり、作業台に工具を置いた宇佐見が振り返る。
「何。なんかやましいことでもあんの」
「べっつにー、そんなんじゃないけど……」
 昼休みにヒジリとつっきーからあれほど自分の考えを否定されたのだ。この男に言っても、どうせ同じことを言われるのだろう。
「じゃあ何だよ。何もないなら、とっとと帰れ」
 ……でも。
「か、帰れって。そこまで言わなくてもいいじゃないの」
 拗ねてみせると、宇佐見はひとつ呼吸してからまっすぐこちらを見た。
「じゃあ、何なの」
 宇佐見なら。
「それは……――」
 と、口を開こうとしたときだった。寄りかかっていた扉がいきなり揺れ動き、わたしは前方に倒れかける。ふっと後ろを向くと、今は会いたくない人物がこちらを睨みつけていた。
「ここにいたあ、きょおーこちゃーん」
「ゲッ、ほの」
 わたしは即座に宇佐見の腕を掴み、彼の後ろに隠れた。ここにはいませんアピールをしたが、ほのは大股でズンズンと近づいてくる。
「宇佐見君の後ろに隠れたってダメだよお。今日は何がなんでも一緒に帰ってもらうからね」
「そ、それはどうかなー……今日はぶ、部活あるし」
「美術部は、木曜日はお休みでしょ? あたし、それくらいは知ってるよお」
「あれ~、そうだったかなー。いや、夏休み中に変わったんだよっ。そ、そうだよね宇佐見」
 助け舟を求めて、ウィンクをかましてみるが、事情を知らない宇佐見は面倒そうに「いや、変わってないけど……」とつぶやく。なんて使えないやつなんだ、ここでいつものお人よしを出さないでいつ出すつもりだ。
「ほおら、恭子ちゃん。宇佐見君も迷惑でしょお? 帰るよ」
 腰に手をあて、ほのがむすくれている。ちょっと可愛いとか思ってしまったのは内緒だ。
「あの、そろそろ先輩、来るし。マジで佐伯、帰って」
 この宇佐見の一言で、わたしは大人しく連行されることにした。
 怒っているのか、ほのは速足でどんどん先に進んで行ってしまう。それを小走りしては歩き、また小走りしては歩き、とあまり近づかず、それでも距離はつくらないようにしてついて行く。
 学校前の坂を下りきり、商店街の前を通って、わたしたちの家がある緩やかな坂をのぼる。その中間辺りに差しかかった頃、ほのがスッとこちらに振り返った。
「な、何」
「……昨日、なんで何も言わずに帰っちゃったのお?」
 彼女が言っているのは、昨晩、突然の恋人の登場に動揺したわたしが自転車を倒したあと、握手を求めた成田智尋を無視して逃げるように坂を駆け上がって行ったことだろう。
「そ、それは」
「あたし、トモ君のこと、一番に恭子ちゃんに紹介したくて……すっごく楽しみにしてたんだよお? そ、そりゃあ、突然会わせちゃったのは謝るけど。でも、トモ君も何か悪いことしちゃったんじゃないかって心配してたし……あたしもびっくりしたあ」
「……ごめん」
 そりゃあそうかもしれない。わたしだって、もし彼氏が(できるか知らんけどさ)できたら、まずはほのに報せるだろう。当事者からしたら、恋人ができて有頂天なわけで、それをわざわざ親しい人物に紹介するということは、それだけ真剣ともいえる。ほのは、わたしに格別の待遇を用意しようとしていたのだ。
「あと、自転車。トモ君がうちまで運んでくれたんだよお、あとでちゃんと取りに来てね」
「……はい」
 なんて言えばいいのだろう。いや、考えたってどうせ答えは決まっているのだ。わたしが、大事な親友を恋人に奪われるのではないか、という妄想。目を合わせられなくて、しかし、そんなことではほのを悪い気持ちにさせてしまう。チラチラと見上げていたら、彼女は「ふふっ」と笑いだし、走り寄ったかと思うと、こちらの左腕を掴んで、坂をのぼり始めた。
「ねえ、恭子ちゃん。明日の夜さ、一緒にプレゼント買いに行こうよ」
「は? 誰に、なんで」
 そう言うと、ほのはきょとんとしてから、また笑った。
「何って、土曜日は、おじさんの誕生日じゃないっ」
 ほののいう「おじさん」とは、わたしのパパのことである。
「毎年プレゼント選び手伝ってたでしょお? 本当は、もっと前にって思ってたんだけどお、夏期講習とかで忙しかったから……。ねえ? 短いけど、久しぶりにおでかけしようよお」
「嘘、マジで」
「うんっ、マジでだよー」
 その提案を耳にした途端、わたしの胸に何やらあたたかなものがジワーっとあふれだした。まさに肉汁たっぷりの高級ハンバーグの心境である。いや、ハンバーグはほのだ。わたしは、それを口にする瞬間を、今か今かと待ち望む方。
 両腕をのばし、隣の彼女に抱きついた。
「うー! ほおーのおー、やっぱ好きだよー」
「うわあ、ちょ、っと。恭子ちゃん、重いよお」
 もおー、と声を上げ、それでも抱き留めてくれるほのは、なんて天使なのだろう。こんな天使が、わたしのためにわざわざ父親のプレゼントを買いに行こうと誘ってくれる現実。あーあー幸せだな。もう、それさえあれば、何もいらないな。
 たとえ他に大事な存在ができたって、ほのはわたしの一番の親友なのだ。

 翌日、ウキウキで登校したわたしを見て、ヒジリとつっきーは「情緒が不安定すぎる」と言いつつ、元気になったならいいかと普段通りに接してくれた。
 放課後は部活があるが、ほのは塾がないとのことだったので、久しぶりにふたりの時間がとれる。楽しみで仕方がなく、やけに授業が長く感じた。それでも買いもののことを思えば、いつもは殺風景な教室もキラキラと輝いて見える。やたらと眠い日本史の間も、ルンルンでノートをとっていた。
 帰りのホームルームが終わってから、それはもう軽い足取りで美術室へ向かった。テンションが上がり、廊下でスキップをしていたら、偶然会った古室先輩に「恭子君、今日はご機嫌だな~。吾輩もますます創作意欲が湧きそうだ」と言われてしまった。
 わたしの機嫌が先輩のそれにつながるのはいまいち理解しかねるが、この幸福を享受したい人間がいるならば、今は喜んで分け与えようという気になった。出血大サービスである。
 この前、豊口さんが爆発したことで中断していたスケッチを持ってきて、色を塗った。
 いつもと変わり映えしない運動着でラケットを振るう硬式テニス部の男子生徒。誰かは知らないが、筋肉の伸びが好ましかった。
 これを描き始めた頃は、なんだか気持ちがもやもやしていたのに、今ではすっかり気分爽快である。人間がいかに単純であるかという証明をしているようだった。いや何、単純でも馬鹿でもアホでも、今ならどんな言葉だって受け止められるだろうよ。わたしは無敵だ。
 そうして意気揚々としていたら、すぐ後ろから誰かが「うえっ……」とあからさまな拒否反応を示してきた。振り返ると、案の定、平凡な平民の宇佐見薫がいた。
「やあ、宇佐見君。人のことを見るなり、うえっ、とは何だい」
「いや、別に。何でもないですよ、なんかやけに機嫌よくてキモイな……とか思ってないですよホント」
「思ってんじゃないのっ! 何キモイって、ひどくないか⁉」
 失敬なっ! と憤慨するが、宇佐見は気にせず、淡々と自身の作業を進めていく。こちらもぷいっとそっぽを向き、いたって大人な対応をした。
「……で、一体何なんだよ。その変わりようは」
「何が、ですか。宇佐見君には関係ないでしょ?」
「その『宇佐見君』ってやつ、ムカつくからやめろ。……昨日、珍しく花村となんか言い争ってたろ? そのことだよ」
 なんだ、このタイミングでお人よしを披露しようというのか、この男は。
一瞬、誤魔化そうかとも思ったが、せっかく彼が訊ねてきたので答えることにした。
「あのね、ほのに彼氏ができたわけ」
「うん」
「それを一昨日、報告されて、その日に本人にも会って、しかもその男を自転車で轢きかけたわけ」
「うん……ア? お前、轢いたの?」
「ううん、それは未遂だった。ていうか、別に彼氏だって分かったから轢こうとしたわけじゃなくて、本当にただの事故未遂ね」
 使い方が合っているのか分からないが、とにかく事実ではあった。宇佐見が何か言おうとしたが、大きな咳ばらいで遮る。わたしは続けた。
「それで、わたし……なんか気が動転したっていうか、ちょっと焦っちゃって。逃げてみたわけよ、そのカップルから。そしたらほのが心配して、わたしと話そうとしたんだけど、こっちはまた逃げて、それでまた追われて、逃げて……みたいなのを繰り返してたら」
「昨日の美術室にたどりつくわけか」
 その言葉にうなずいたあと、持っていた筆を水の入っているバケツに入れた。初めて色を得た水面は、抑えることを知らず、青く染まっていった。
「でも、なんで逃げる必要があんの? 親友に彼氏、紹介されただけじゃん」
「うん、いや、そうなんだけど……、なんか」
 宇佐見は筆で絵の具をとり、パレットと紙面を行き来した。
「……親友とられるかも、とかって考えたんだ」
 どきっとした。いや、心臓がぐぎゅっと押しつぶされたようだった。悪魔(サタン)が高笑いしながら、爪の長いゴツゴツした大きな手で握りしめている、みたいな。
「うん……。それをさ、ヒジリとつっきーに話したの。あ、ふたりは」
「聖辺と倉野だろ? それくらい知ってる。佐伯、いっつもあいつらといるし」
 よく知ってるな、と思った。宇佐見は平然と話を聞いている。
「そしたら、人生はメリハリが大事だから、そんな気にすることないよ、って」
 そこで、でもさ、わたし……と言いかけてやめた。
 このあとは、せっかくほのとのおでかけが待っているのだ。やっと封印できた気持ちを自らこじ開けようとするのは、なんだか野暮だった。でも、だったら、なぜ宇佐見に言おうとしたのだろう。
 少しだけ黙り、深呼吸の後、何事もなかったように絵筆を取った。
「だけど、もういいんだ。別に彼氏や旦那さんや奥さんができようが、ほのがわたしを見捨てるわけじゃないんだし。それに、今日はこのあと買い物に付き合ってくれるし。それで充分なのよ」
 水を切って、薄まった青色を紙の上へ滑らせる。上半分が染まり、次第に薄まっていき、中心にいる人影がいっそう目の前へ迫ってくる。
「なんか……佐伯っぽくないよな、そういうの」
「……は?」
 思わず彼に目を向けた。何食わぬ顔して、スケッチブックを見つめている。
「たしかに、どれだけ大事な存在だって、いつかは自分のもとから離れていく。親友だからって、いつまでも同じ町で暮らすわけじゃないし。これから先、友だちよりもっと大切なものができて、どんなに素晴らしい瞬間も死ぬ間際には忘れるのかもしれない」
 釘づけだった。まるで、彼の周りだけ時間が止まっているような。
「でも、だからって何なんだよ。佐伯はそれでいいわけ? そんな大事にしてて、なくなったら怖いって思ってて。なのに、なんでそんな我慢できんの? 本当にほしいなら、何が何でも手に入れろよ。勝手に手ん中ころがってくるとか思ってたら、大間違いだからな」
 そう言い放った宇佐見と視線がかち合う。
 強い目をしていた。いや、強いなんて表現では、すべてを言い表せないのだろうが、それでも今のわたしが何を言っても、とうてい追いつかない何かを秘めていた。
 ふっと、彼の視界から自分が消える。魔法を解かれたように、身体から力が抜けた。目線を落とすと、絵の中の男子生徒がラケットを振りながら、ぐっと歯を食いしばっている。
 それを眺めていたら、彼を描いている今のわたしは、これほど真剣に前を向けているのだろうかと疑問に思ってしまった。
 それからはふたりとも黙り、それぞれの作業を続けた。活動時間が終わって、道具を洗ったりもとの位置に戻したりしている間も、わたしたちは何も話さなかった。
 喧嘩したわけでもないのに、彼が怒っているようにも、悲しんでいるようにも見えた。でもそれも、もしかしたらわたしの妄想なのかもしれない。
たいてい一緒に下校するのに、今日は宇佐見もそそくさと学校を出て、坂を下りて行ってしまった。これから同じ方向へ行くはずなのだが、その背中を追いかけようとは思わなかった。
 いや、別に彼とは仲がいいわけでも、特別な間柄でもないのだ。気にすることはない。今は、ほのとの外出が最優先だ。
 これから駅前へ向かう、とスマホでメッセージを入れてから、わたしも足早に学校をあとにした。
 十五分もすれば、最寄りである南吉田駅に到着する。そこまで大きな駅舎ではないが、目の前は商店街だし、周囲にもこじんまりとした飲食店が立ち並んでいる。この辺のサラリーマンやおじさんたちは、たいがいそこいらで一杯して帰るのがルーティーンみたいなものだ。
 パパの誕生日プレゼントは、数駅先の駅ビルで見繕うことにしていたので、改札口でほののことを待っていた。今日は塾の授業もないのだし、すぐに来てくれるだろう。
 しかし、いくら待てども、それらしき姿は一向に現れない。五分、十分、十五分……と、その間隔は開いていくばかりだった。
 さすがにやきもきしてきて、スマホを確認する。学校を出る頃に送ったメッセージは、既読にすらなっていない。もしや、一度帰宅して昼寝でもしてしまったのか。いや、ほのに限ってそんなことはない。わたしならともかく、ほのに限ってそんなことは……。彼女は、ルールや時間を守るタイプなのだ。
 改札口や駅に面した道路から人の波がやってくるたび、そわそわしてしまう。でも、そこに彼女の影を見つけることはない。
「……まさか、何か変なのに巻き込まれてるとか……」
 幼い頃から、ほのはあの性格だからか、見た目が頼りないからか、なぜか変な輩に絡まれることが多かった。おかしな宗教勧誘やセールスマン、単純な不良どもなど、さまざまだ。彼女も彼女で無視すればいいのに、相手の話を真面目に聞こうとしてしまうから。
 もし、今回もそうで、今度こそ怪しいビルなんかに連れ込まれていたら……。身体の芯のようなものがひやりとする。しかし、都会のど真ん中ならともかく、こんな南吉田のような田舎町でそんなこと……いや、もしや、誘拐……?
「いやいやいや、まさかね」
 そうやって百面相していると、なんだかますます不安になってくる。もう一度スマホを開き、メッセージを送る。
――今、駅の改札にいるよ。あんたどこにいんの?
――ねえ、どっか店入ってるなら、教えて。
――ほの? ねえ、お願い。早くー!
 だが、いくら打っても、わたしの吹き出しが既読になることはなかった。
 しびれを切らし、今度は電話してみる。だが、やはり呼び出し音が何度繰り返されても、望む声は出てくれない。
 目的地は数駅先にある。もしほのが先に移動していようと考えたのなら、絶対にわたしへ連絡を入れるはずだ。でも今回はそうではない。なら、少なくとも駅周辺にはいるはずだ。
 ポケットにスマホを入れ、わたしは街中を歩きだした。
 ほのが行きそうな喫茶店や雑貨屋、彼女のお気に入りのパン屋、料理本を買いに行く書店など、とにかく考えられるところはすべて回った。もうこの際、自分で見つけられなくても、連絡さえくれたらそれでよい。最悪、プレゼントなんて、当日パパをデパートとかに連れまわせば済んでしまうのだから。
 なんでもいいから、とにかく。ほのが安全なら何でもよかった。
 そうしてしばらく街をさまよっていると、パチンコ屋やゲーセンが多い通りに出てくる。一応、それっぽい人がいないか覗き込んでみたが、望み薄だろうと思った。
 彼女を見つけられない不安と焦り、こんな状況にしてしまった自分への怒りや情けなさで頭がぐちゃぐちゃになる。
「ほのー……、どこにいるのー……っ、うう」
 危うく泣きだしてしまいそうな頃合いだった。目の前で電光掲示板がギラギラと光るゲーセンの正面から、一組の高校生カップルが出てきた。何やらクレーンゲームで当てたようで、彼氏の方が脇に大きな黄色いぬいぐるみを抱えている。
 先ほどからそんな人間はごまんと見てきたため、わたしの注意力は散漫になっていた。そのまま前進し、ふたりにぶつかった。
「あ、すみません。大丈夫です、か……あれ? 恭子さん?」
 聞いたことのあるような、ないような男の声だった。しかも、わたしの名前まで知っている。なんだよ、この街は。他人の個人情報がこんなにも流布していたのか。
 ふと、部活中の宇佐見の顔を思いだした。あんなに真剣な彼の表情や言葉は初めてで、戸惑ってしまって、でも胸のずっと奥では、彼の意見がいやというほど突き刺さっていた。
――勝手に手ん中ころがってくるとか思ってたら、大間違いだからな。
 しかし、人生やら運命やらいうものは、あまりにも簡単にころがってくるのだ。
 特に、その人間にとって、何よりも悪いものが。
 ささくれ立った心で顔を上げると、そこには例の「トモ君」が立っている。
 うわっ、と思った。この状況で一番会いたいんだか会いたくないんだか分からん人物だ。
 その流れで視線を横に移動させると、女の子と目が合った。
「どうしたのお、恭子ちゃん。こんなところでっ」
 ……ほのだ。ほのが、いた。
 途端に、目の前が遠くなった。夜のきったねえゲーセンの路で突っ立ったまま、奈落の底に落ちていくような感覚がした。
「こんなところって……、あんたこそ何なの」
 口から自分の声が出た。そう、勝手に出て行ったのだ。もはやわたしには、コントロールすることなどできない。
「人が、どれだけ……どれだけ心配したと思ってんのよ」
 言葉が続くたび、心臓が、いや、他のいろんな臓器が口から飛びだしてくるみたいに気分が悪くなっていく。
「何回も、何回も連絡したのに……。わたし、いろんなとこ探して……それで」
「え? ……あっ」
 急いだように鞄から自分のスマホを取りだして確認する。画面をスクロールし、そこで彼女は今までわたしが何をしてきたのか、ようやく理解したようだった。
「ご、ごめんねえ、恭子ちゃん。あたし、全然気づかなくて―」
「そうだよッ‼ ほのは、全然気づいてないッ!」
 大きな金切り声が通りを駆け巡っていった。すぐそこにいる「トモ君」は動揺し、口を開きながらわたわたしている。行き交う人々も、唐突に叫んだ女子高生をじろじろと見ていた。
 しかし、わたしにはそんなこと関係なかった。自分がこの瞬間に味わっている絶望と比べたら、そんなことは、気にするにも値しないことなのだ。
「気づいて、ないんだよ……わたしの気持ちなんか。分かってないんだよ……っ」
 目の前が霞んできた。顔じゅうのパーツへ力が入り、熱を持って、立っているのもやっとだった。それなのに、頭の中で宇佐見の顔が浮かんでは消えて、を繰り返している。
――どれだけ大事な存在だって、いつかは自分のもとから離れていく。
――でも、だからって何なんだよ。佐伯はそれでいいわけ?
――なんでそんな我慢できんの? 本当にほしいなら、何が何でも手に入れろよ。
 最初は、わたしっぽくないってどういう意味だよ、と思った。ムカついた。こちらの気持ちなんて考えたこともないくせに、なぜそんな偉そうなことが言えるのか分からなかった。
 しかし、宇佐見は正しかった。
 それに、ヒジリも、つっきーも、みんな正しかったのだ。
 間違ったのは、わたし。大事なのに、そうしたいのに、我慢したわたしのせいだ。
 大勢の人間が通っているその道で、顔を上げた。涙がぼろぼろと頬を流れている。ほのも「トモ君」も驚いた表情でこちらを見ていた。
「わたしにとって、ほのは『永遠の親友』なんだよ。それが当たり前で、過去も未来も変わらないものだよ。でもね、だからって、現在(いま)もそうじゃなきゃ意味がないの。……わたしは、ほのが好きだよ。大好きなんだよ。あんたもそうだって思ってるし、信じてるの。でもさ、だけどさ、信じてるからって、分かってるからって、言葉にも態度にもしなくていいなんて誰が決めたの? 他人(ひと)の気持ちなんて、ちゃんと伝えなきゃ分かるわけないじゃん。そんなん知らないじゃん。エスパーか、超能力者じゃん。でも、わたしは違うの。ただの恭子。ただの人間で、そこら辺でただ生きてる、ただの女子高生なの。だから、ちゃんと伝えてくんなきゃ分かんないよ。わたしが大事なんだって、いつか旦那さんや奥さんができたって、一番の親友はわたしなんだって、ちゃんと伝えてよ。じゃなきゃ、あんたとなんか……、あんたとなんか……『永遠の親友』でいてやるもんかああーッ‼」
 そうやって捨て台詞を吐き、わたしはもと来た道を逃亡した。ふたりとも、わたしのことを呼び止めてはくれたが、追いかけては来なかった。
 すでに蓄積された疲労と、涙。それを顧みず、全速力で商店街を横切り、家へと続く坂を駆け上がる。しかし当然、限界がやってくる。途中のカーブで足が止まった。
 息を乱し、ひざに手をつく。呼吸を整えていると、なんだか笑えてきた。
「ふ、ふふっ、ははッ……げほっ」
 身体を起こして前を向けば、暗い道にぽつぽつと街灯がともっている。それが妙にやさしく見えて、胸のつかえがとれていく。穏やかだった。とても、すっきりした。
「……わたしって最低だ」
 つぶやいて、また歩きだす。

 そのまま家に帰る気にはなれず、前を通りすぎて、近所にある公園へ向かった。そこは「坂の上公園」といって、幼い頃、わたしとほのがよく遊んでいた場所だった。
 わたしたちの家がある山の上は「坂の上」という名前の地区で、思えばなんだか由来が分からないところだった。家が密集して生えているようなこの山にのぼる坂など、他にもたくさんあるだろうに、なぜかあの坂だけ特別扱いを受けているように感じる。
「坂の上」は、住宅は多いが、ときどき精米店やクリーニング店、ラーメン屋、寺など、昔はそこだけでひとつの町っぽくなっていたのだろうという造りになっていた。まあ、だからこそ、わざわざ「坂の上」なんて呼んでいるのかもしれないが。
 とかくその通りを行くと、右手に「春風(はるかぜ)幼稚園」という建物が見えてくる。言わずもがな、わたしの通っていた幼稚園である。そこまで広くはないが、少し前に建て替えをして、記憶の中のそことは幼稚舎の雰囲気も、園庭の場所も何もかもが変わっていた。
 昔は平屋で、狭くてボロっちくて、周囲の柵もところどころ錆びていた。庭木がたくさんあり、夏はとにかく雑草が生い茂っていて、わたしは蚊に刺されると、先生のところへ飛んでいき「こんなにいっぱい刺されちゃったよー、かゆいっ!」と泣きついていた。
 五歳のときに引っ越してきたため、そこまでの期間を過ごせたわけではないが、私の隣にはいつもほのがいた。朝も、いつもふたりで登園したし、帰りも一緒だった。
 うちはパパが家事をしているので、ほののお母さんといつも何かを話しながら、わたしたちの後ろを歩いていた。
 大通りから幼稚園の脇に入る道を進む。その裏に公園の入り口がある。
 わたしが幼い頃は、ただの正方形の狭い公園だった。砂場、鉄棒、滑り台、ブランコと、それなりに遊具はそろっていたが、小学生のドッチボールができればいい方だったのだ。
 しかし、わたしが小学三年生くらいのときに、公園と幼稚園の裏にあったアパートのような、マンションのような集合住宅が取り壊されたため、その土地が公園に合流した。だから今は、おかしなL時型の広場になっている。
 それまで外灯などなかったのに、そっちのだだっ広いところにはいやでも明るくさせるのが何本も立っている。それから隠れるようにして、古いブランコが四席並んでいた。
 そこに座り、空を見上げる。先ほど走っていたときの汗が冷えて、少し寒かった。もう夏も終わるのである。
 上下に揺らしてみれば「ギィー、ギィー」と苦しそうな鉄の擦れる音がする。わたしの他には誰もいなかった。
 そう、誰もいないはずなのに、なぜか気まずかった。
 気持ちをぶちまけ、すっきりした部分もあるが、これからどうしようと思う自分もいた。昔から謝ったり、仲直りしたりするのは苦手だ。
「……ちゃんと、謝らなきゃ」
――ジャリ……ッ
 ひとり反省していたら、そんな音が聞こえた。驚いて振り向くと、そこには、自分と同じセーラー服を着た少女が息を切らして立っている。しかも、両腕から今にも落ちそうなサイズのひよこのぬいぐるみを抱いていた。
「はあ、はあ……ッ、やっぱり、恭子ちゃん、ここにいたあ……げほ」
 彼女はそのままこちらへ歩いてきて、隣のブランコに座る。大急ぎで来たのか、体育の時間でも見せないほど肩が上下している。
 わたしを探してくれたのだろうか。そう思うと、やはり胸が苦しくなった。
 呼吸が整い、彼女は顔を上げた。
「恭子ちゃん、喧嘩のあととか、いっつもここに来てたよねえ」
「え?」
 黙っていたら、いつもどおりの口調が飛んでくる。
「ほらあ、小二のときの運動会の踊り、どうしてもおばさんに見せたかったんだけどお、仕事が忙しくて来れなくて。おうちで喧嘩して、いなくなっちゃったことがあったでしょお? そのときもみんなで探したら、ここにいたんだよねえ」
「……そう、だっけ」
「そうだよお。ここは、恭子ちゃんにとって大切な場所だもんね」
 ほのの横顔が、暗闇の中で白く浮きでていた。彼女は、抱えたひよこのぬいぐるみを足元に置く。一瞬「トモ君」の顔を思いだして、申し訳ない気持ちになった。
「あの、さっきは、何の連絡もしないでごめんなさい。心配かけたし、それにたくさん探してくれてありがとう。本当に反省してます」
 こちらに向かって頭を下げる。
「それと、夏休みの間、何にも連絡しなくてごめんなさい。勉強はちゃんとしてたんだよ? 本当に毎日、一生懸命してたの。でも、いつもは恭子ちゃんが隣にいたから、やっぱり……なんだかさびしくなっちゃって。そうしたらねえ、具合が悪くなって、商店街の真ん中で動けなくなってさあ。あとで、それは熱中症だって分かったんだけど。そこで助けてくれたのが、トモ君だったの」
 わたしは、黙っていた。黙って、ほのの話を聞いていた。
「ほら、隣の小金井町駅の近くに総合病院があるでしょお? トモ君のお父さん、そこの先生でねえ。だからトモ君、応急処置とか手当とかすごく詳しくて、そのあとも心配して、一緒に勉強したり、お昼食べたりするようになったの。あたし、年上の男の子とそういうことするの初めてだったから、特に何も考えてなかったんだけどお。夏期講習が終わる日にトモ君がね、デートしないかって誘ってくれたの」
 彼女の顔を見た。笑っていた。とても幸せそうだった。
「でもトモ君、受験生で毎日、予備校に通ってたからふたりだけの時間ってなくて。だから、あたしも自習室に通って、トモ君と会って勉強して……すごく大変だったけど、楽しかったなあ」
 風が吹き始め、辺りの木の葉がささやき合う。彼女の明るい声が夜に溶けるみたいだった。
「あのねえ……」
 ほのの瞳の中に、わたしがいた。
「さっき、恭子ちゃんに言われたことを考えてみたの。そしたらさあ、『永遠の親友』でいようって言ったの、あたしだったんだよねえ。すっかり忘れてた。ごめんねえ」
「……っ」
「それと、すごくうれしかった。恭子ちゃんにとって、あたしってそんなに大事なんだって思って。伝えてくれてありがとう」
 彼女が、笑った。さきほど「トモ君」の話をしていたときと似たような、違うような笑顔。欲張りでわがままで、素直になれないわたしを包み込み、引っ張ってくれる笑顔。
 わたしは、この表情が好きだった。ずっと隣で見ていたいと思っていた。
 だけどもう、ほのの隣は、わたしだけの特等席ではなくなったのだ。わたしたちは身体も心も成長し、昔とは大きく変わっていく。宇佐見の言ったとおり、いつか本当の意味でこの手を離れていく日が来るのかもしれない。
しかし、この笑顔がずっと続いていくなら、それも少しは……。
 なんだか泣きそうになり、紛れるようにと頭を左右にぶんぶん振った。
「それでね、その、すごく悪かったと思ってるから……恭子ちゃん、許してくれるかなあ?」
 許す……? ああ、そうだ。わたしは怒っていたんだ。ほのが約束を破って、彼と遊んでいたから。
 怒りの矛先を思いだした。しかし、少し疑問に思うことがある。ほのは不安そうだった。
「まあ、なんというか……許したい、とは思う。でもさ、なんで連絡してくれなかったの? いつもだったら、絶対入れてくれるじゃん。……そんなに、成田さんと居たかったわけ?」
 そう言うと、彼女はバツが悪そうにしつつも、足元の巨大ひよこを持ち、自分のひざの上に乗せた。
「それがあ、その……誕生日プレゼントのこと考えてたんだけどお、おじさんって、この『ぴよっとぴよこチャン』が好きでしょ? だから、そのグッズにしようかなと思ってねえ。そうしたら――」
 ほのの話を聞くと、つまり、こういうことらしい。
 パパが好きな「ぴよっとぴよこチャン(もともとパパはかわいいものを集める癖があるだが、このひよこに対してとてつもない愛着があるのだ。わたしとしては、見た目ただのひよこだけど)」のグッズをあげようとしたが、市販のものはコレクターならすでに持っていると考え、一度は断念したらしい。だが、それをクラスメイトに相談した際、ゲーセンのクレーンゲームにあるグッズは、店舗では販売していない種類が置いてあることが多いのでおススメされたのだという。しかし、ほのは一度もその類のゲームでとれたことがなく、下見と練習のため、わたしよりも先に向かっていたのだ。「トモ君」がいたのは、ゲーセンという場所を心配してのようだ。
 こわばっていた身体がゆるゆるとほぐれていく。
「じゃあ、遊んでたわけじゃなくて……パパのために?」
「う、うん。まあ、とるのに夢中になっちゃって、連絡に気づかなかったのは、元も子もなかったけどお……」
 気まずそうにしているほのの前で、ひよこが決め顔をしている。少しムカつくくらい平和な構図だった。
「なあーんだ。そうだったんだ……あー、焦っちゃって。馬鹿だなー」
 一旦そう思うと、腹部からふつふつと笑いが込み上げてくる。ひとりで「あははっ」と大うけすれば、ほのは何がなんだかという表情で「えー、どうしたのおー」と慌てていた。彼女の手から馬鹿デカひよこを奪い取る。
「じゃあ、このひよこ、もらっていいんだ」
「え? あ、もちろんだよお。おじさんに渡してねー」
 絶対喜ぶよお、と親友が微笑んでいる。わたしもありがとう、と笑った。
 それでいい。これでいいんだ。
 なぜなら、わたしたちは、何が起こっても永遠の親友なのだから。

 土曜日の晩、わが家ではパパの誕生日会が開かれた。主役が主催者といういかにもな会で、自分で飾りつけもして、夕食もつくって、ケーキまで用意しようとしたが、そこはわたしが止めて、ママに買ってもらった。でないと、誰が誰のために誰の祝いをしているのか分からない。
 ほのと「トモ君」、いや、ほのと成田さんが一生懸命、とってくれた「ぴよっとぴよこチャン」の馬鹿デカぬいぐるみもちゃんと贈った。
 何やらチェックはしていたが、パパもクレーンゲームは苦手なので、我慢していたらしい。その年齢にもなって、ぬいぐるみを我慢する父親というのはドン引きだが、誕生日なので口には出さないでおいた。
 そして、ひよこに感激したパパが天に掲げながら小躍りし、その横でママが拍手していたのは、絶対に外へもらしてはならないわたしの黒歴史となった。しかし、まあ、わたしの両親はそんなもんだし、このふたりだからわたしがいるのだし、素直にパパのことをお祝いしてあげた。
 週明け、わたしはまたもや意気揚々と目覚めた。
 蝉の鳴き声に苛まれ、ゾンビのように起きだしたりなどしなかった。この一週間ほどで、ほのとの関係性も深まったし、パパは喜んでくれたし、一石二鳥である(使い方が合っているのかは分からん)。
 しっかりと朝食をとり、靴を履いて廊下の方へ振り返る。
「じゃあ、行ってきまーす!」
 いってらっしゃーい! と、ダイニングの方からパパの声が返ってきたのを確認し、玄関扉を押し開けた。
 朝の日差しはまだ夏の装いを残している。それでも空気が澄んでいて、思わず深呼吸をしてしまった。電線の上にとまった鳥が軽やかに鳴いている。
足を前に出そうとしたとき、ふと視界の端に黒いものが入ってきた。自然に顔をそちらへ向けると、何やら高級そうな光沢を放った、レトロな形の自動車が停まっていた。
 しかも、ほのの家の前に。
「……お客さんかな?」
 でも、こんな朝早くから? 親戚でも来ているのだろうか。だとしても、何の用だろう。不思議に思いつつ、観察していると、車内にはふたりの人影がいるのに気づいた。
 ひとりは、運転手の男性。中年といえばいいのだろうか、パパよりも年上なのは分かった。その後ろ、後部座席には、あきらかに若そうな頭髪の男性が座っている。髪型的にも、なんだか十代くらいの……。
 と、そこまで認識して、ほのの家の玄関の引き戸が開き、制服姿のほのが出てきた。
「行ってきまあす」
 中からおばさんの見送りの声が返ってくる。わたしは彼女に駆け寄ろうと門に手をかけたのだが、それよりも速い動きでほのは道路に出て、そしてあの黒塗りの高級車へと近寄った。
「あっ……!」
 驚いているのもつかの間、彼女は片手で車窓のところをコンコン、とノックする。ゆっくりと窓が開き、後部座席の人物がそちらに上半身を近づけた。
「おはよう、ほのちゃん」
 角度的には、こちらから見えるか見えないかのギリギリラインだったが、ほののことなら何だって記憶しているわたしには、その声も横顔も知っていないわけがなかった。
 ほのはその彼を目に映し、キラキラとした笑顔をつくっている。
「トモ君もおはよう。わざわざお迎えに来てくれてありがとう」
 ……なん、だと……。あの、高そうな車が、成田智尋の……。
「さあ、乗って。学校まで送ってあげる」
 彼はそう言って、扉を開け、奥につめる。後ろで自身の親友が激震に見舞われていることなど露知らず、ほのは照れくさそうに笑い、中へ入っていった。
 むなしいほど弾んだ音で扉が閉まり、自動車は発進する。閑静な住宅街には、あまりに不釣り合いな美しい黒色のかたまりが坂を下り、どんどん小さくなっていった。
「嘘……、マジで……?」
 先にあるカーブを曲がり、完全にその姿が見えなくなると、わたしの身体はようやく動きだした。勢いよく道に出たため、門は振り切り、塀に当たって「バシーン!」と怖い音を立てる。
 脱力していたはずの手に力が入り、拳をつくった。
「やっぱ……」
 プルプルと震える全身は、もう我慢など忘れていた。
「やっぱわたしには早いっ! 絶対絶対、まだほのの隣はあげないんだからあーッ‼」
 夏がくると思いだす。
 なぜ、夏休みとは終わってしまうのか。
 そして、なぜ夏とは、大切な親友に彼氏なんてものを授けるのか。

(おしまい……?)

終わりに

 たしかテーマが「青春・恋愛」みたいな募集だった気がします。それで思いついたのがこれだったんですけど、なんか微妙な気がして。ここまで書いて、止めました。一応、プロットは終わりまで作ったのですが、恭子ちゃんの友愛ラインがどこまでなのか、いまいち分からず……(おい、作者)。
 本来は、恭子ちゃんと宇佐見くんの関係も掘り下げたかったですし、トモ君もそれなりに闇があったり、恭子ちゃんとほのちゃんの間だけでなく、宇佐見くんとトモ君にもひと悶着あったり、ヒジリとつっきーもわちゃわちゃあったりして、ドタバタラブコメにしたかったのですが。
 またの機会にしましょう、またやる気を取り戻したときにっ……!(笑)
 彼らの物語が、ここまで読んでくださったみなさまの笑顔に少しでも変わっていたら、うれしいです。

 では、また! みけの

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