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朗読脚本;上善は燗の如し

皆さま楽しんでおりますか。いや、酒を飲んで書いたような文章は、酒を飲みながら・酒を飲んだ者に聞いて貰わなければ不平等であるとの考えから、書いては消した文章の切れ端をサルベージして、なかったことにしたことを!なかったことにするような蛇足、「本当」を書くということはときに鋭利すぎたり、求めるような面白みがうまく表れぬ!ことがございます。むしろそのようなことが限りなく全部に近いのです。どこまでが虚構なのか。これもまた眉唾の伝説ですが、古代中国で「心」という観念が発明されたとき、奴隷として扱われていた者たちがそれを理解すると、ひとり、またひとりと発狂していった、というようなことがございます。なんでしたっけ、そう、最後の作品を書き終えて地下の酒場で生活と創造と心の色々を考えておりますと、その心地よい酩酊に反して作用したのは、ほかならぬ、内からの声でありました。煙(けむ)に巻くような物語の閉じ方は、聞き手のみならず私自身からの逃避ではないのか。水と塩とは、皮を一枚めくれば顕わになるような自罰の比喩ではあるまいか。過去を贖(あがな)うための創作に、真に未来を照らす力が果たしてあるのか。以前、私の文章は全き創作にあるのではなく、例えば医師に対して己をさいなむ病状を説明するような「主訴」に近いということを言ったことがございます。その渦中にあるときにしか語り得なかったこと。落ち葉を踏みしめる音が、雪の冷たさが、子どもの笑い声が、公園で嗅ぎつけたどこかの夕餉の香りが、ほんとうは何もかもがこちらに向かった牛刀包丁の切っ先のように見えた瞬間がございました。皆さま包丁を研いだことはございますか。立てすぎても寝かせすぎてもいけません。習字に使う硯を真っ平らにしたような濡れた石に刃先を当て、人差し指と中指をあてがって包丁の背に向かってシャコシャコと繰り返し研いでゆくのです。いやそんなことはどうでもよくて、なんだっけ、こちらを向く切っ先。自己否定の否定が必ずしも健全な肯定になるわけではないと知っておりました。不出来な線香花火のようにその情緒がうまく働かずぽつりと落ちたときに思ったこと、すなわち、我思う故に我あり、と申しますが、心の最後の部分が絞るように叫んだのは、我嫌う故に我あり、ということでした。夜を食い潰しながら【考えて考えて考えて考えて】いつの間にか昏々と眠り、しかるべき犠牲を払ってようやく生活に向き直ったとき、而して私は死ぬことも・殺すこともございませんでした。そして、自分が触れたものをできるだけ素敵に解釈し、書き立て、声に出し、手の届くところに留(とど)めておくことだけが、狂気の形をしたなにかの希求するところの全てだとようやく・思い至ったのです。
不思議とよく休まった気がして、目が冴えて起き上がるような明け方ごと訪れる滅裂が・論理の姿を帯びて、私のすべてに触れるたび、生活のそこかしこの理不尽な面白さを思いだし、書き留めなければならないと、私の中の私が・目の奥で笑っておりました。

 そう、影が細長く伸びる夕方、サイレンを鳴らした救急車が赤信号の交差点に進入しようとしておりました。ややあって、人間の感覚の延伸たる鉄の塊の群れがすみやかに割れたとき、助手席の必死の形相が見えたとき、わたしはいのちのための美しい・いのちをそこに見ました。ふと見やった窓の外、短い夕立のあとにアスファルトの蓄熱が一気に水を渇かしてしまうようなこと、聳え立つ古本屋の本棚、えもいわれぬ紙の匂い、懐に忍ばせておいたお守りが、すっかり忘れた頃に出てきたときの苦笑、顔見知りの店員との一瞬の雑談。つい誰かに話したくなるような世界の隠し持つ美しさを突きつけられたとき、ほんとうに大事なことは、この貧しい語彙の中から選び取ろうとすれば選び取ろうとするほどにこぼれてゆきました。不器用な切実さを纏った温かな・あなたがたと時間をともにすればするほど、陳腐にして傲慢なことばではございますが「どうか生きていてほしい」と、ときどき思ってしまうのです。

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