助手席のまどろみに
ハンバートハンバートの「おなじ話」を聞いている。
いつもより時間を掛けて石けんを泡立てたときに、ほんの少しだけ早く家を出たときに、仰向けになって能動的に目を瞑って心身を休めたあとに、少しだけ余裕のできた時間と空間で、自己の幸運と同時に命のとじ方を考える。それは痛みを伴う大それた破滅願望とはすこし距離がある。
およそ僕が思いつかないような様々な理由で連絡が付かなくなってしまったアルバムの中の同級生とか、テレビで僕と同じくらいの年の人たちが善悪様々に報道されていることとか。表向きの冷静ぶりの陰に生まれて蓄積された悲喜交々を、換気扇の下で抱きしめる。自分の弱さとそれによって失われてきたものに加えて、いかに恵まれ続けているのかを、自虐的に想う。この「恵まれ」というのは、賽を振るときに偶然ゾロ目が出るようなものだと解釈している。そこそこ頻繁に訪れる、もうだめだ、の波は、愛すべき人々との記憶によって、凪いで、むかしの夏休みみたいになって、涙になって、丁度良く堰かれて目からこぼれ落ちる
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