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散歩、濃縮還元、散歩

 半駅分のところにあるラーメン屋の庇、に取り付けられた薄橙の灯り、は球切れが近いようで、石灯籠の名残のように、ねぐらに帰る者や夜に繰り出す者を断続して照らしている。またすぐに朝が来て、まぶた越しに空に浮かぶ火球をみてみれば、エネルギーのある帰結としての赤一色がそこにあるだろう。
 概念としての時間を持たぬとされるヒト以外の多くの動物は、明るくなって暗くなって、の繰り返しの現象をほんとうに生きているのだろうか。

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 生命を守るための心身の背きを、素人ながら病理的に理解した年だった。暗い話はしない。明るく語れる領域にある、仄暗い話をしようと思って文章を書き始める。
 中学生から高校生の頃にかけて、余程暑い日や人前に出る機会のとき以外は口元を覆っていた。長い変声期の裏返りやすい声をからかわれた経験や、初めてコンタクトレンズをつけて鏡を見たときの自身への落胆を、臭い物には蓋をする原理で閉じ込めたのだった。若く、幼かったとは思うが、そうすべきではなかったとは思わない。同級生の無邪気な無神経さにあてられただけであるが、自身がそこから全く潔白であったとも思わない。簡単にいえば、自分の醜さが嫌いだった。
 今になって、当時ほどのあからさまさはないが、また別種の自己嫌悪を感じることがある。繕うだけの余裕が戻ってきたのだ、と肯定的に捉えている反面、僕というソフトとハードでもうしばらくは生きるということへの反発を確かに感じている。なんて贅沢な悩みだ、と思う。そんな悩みがもう少し社会的、社交的に拡張されて、裏方としての無価値さ、みたいなネガティヴに、思い至ってしまうことがある。
 noteで舞台音響のことに触れるのは初めてかもしれない。考える領域として意識して分けていた部分もある。が、自身を記していく上で、避けては通れないだろう。筆致に逃げて、煙に巻くことはやめる。
 僕が僕に対して思う無価値さは、観劇の目的になることができていない、という悔しさと隣接している。あの人が出演するから、という理由で演劇を見に行くことは大いにあり得ると思うが、あの人が音を考えているから、というのはどうだろう。アマチュアの過信だと一笑に付されるかもしれないが、僕はそれをたしかに悔しく感じている。
 日常から感受した僕だけの何かを、抽象して演劇に活かしたい。これが今ここにある哀願にして野望である。

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 半駅分のところにあるラーメン屋の庇、に取り付けられた薄橙の灯り、は球切れが近いようで、石灯籠の名残のように、ねぐらに帰る者や夜に繰り出す者を断続して照らしている。またすぐに朝が来て、まぶた越しに空に浮かぶ火球をみてみれば、エネルギーのある帰結としての赤一色がそこにあるだろう。
 概念としての時間を持たぬとされるヒト以外の多くの動物は、明るくなって暗くなって、の繰り返しの現象をほんとうに生きているのだろうか。
 
 胸に手を当てると、単調な振えが、伝説のように伝わってきた。

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