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想像から読書へのスロープ

そうだ、精読ではなく積読について考えていきたいと思う。どうやって積読と付き合っていくかについて。

積読というのは、めちゃくちゃ苦しいものだと思っている。
だって、積読っていうのはどんどんどんどん「読まなければいけない」が溜まっていってしまうからなんだよな。こういう、ねば・べきとかが頭の中にあって、ぎゅうぎゅう押しくら饅頭しているのはとても苦しいものだと思う。

少しずつだけど、ガラリと意識が変わった。

どこまでを読んで、逆にどこまでを読まないと捉えるか。まあ、これについては読んでいない本について堂々と語る方法という名著がある。従来の読書観を突き崩す、よく読まれている本だと思う。

本を読むっていうのはどういう行為なのか?どこから繋がっていくのか?というのをきちんと捉え直して、変わってきた。
要するに、完璧に読むことはできないと知って、小さなものも読書としてしまうということ。読むことを小さいところから入れてしまおう。

想像することを読書に入れてしまう。

想像するというのはどういうことか?本のタイトルや装丁から、どんな本なのか想像するのだ。どういう本だったか?もしくはどういう本であってほしいと思って買ったのか。

どういう本でも、買う時にある程度の想像をしているはず。こういう知識がほしいな〜、こういう話があったら良いな〜、この著者の前回の本好きだったんだよな〜という。

積読

積読している状態というのはどういうことだろうか。ちょっと考えてみたい。本棚に、たくさん横積みしている状態が目に浮かぶ。何なら、本の背表紙すら見えなくなるように積んでしまっている。

本が物質化している。日常に出てこなくなり、灰色になるということ。ゴロゴロとした、ただの紙としての存在になる。言葉は常に解釈を必要としていて、解釈なしに存在することもできる。

意味とのつながりが切れてしまった状態を積読と捉えたい。

私の布団の周りにはたくさん本が置かれている。いつでも読めるように、カフカの変身からクリムトの解説本、重力ピエロ、庭のかたちが生まれるとき……など。普段生きていて、この本たちの中身を一切気にすることがないんだ。シャットダウンされている。

生きるために、意味を遮断するのがどうしても必要なのだ。有限の意味しか捉えることができないわけだから。

書店で本を買うとき、どういう内容なのか想像してから買うと思う。「アートの力 美的実在論」は、芸術と哲学についてマルクス・ガブリエルがどんな論を展開しているのか、芸術をどうやって捉えたら良いのか模索したくて買った。「構造と力」は、ノリつつシラケるという有名なフレーズと、構造主義について調べたくて買った。自分の中に構築された、「構造主義のイメージ」を、より豊かにしたくて。「美しい日本の詩」は、豊かな言語生活を営む理想があった。

そういう、本との出会いや動機、イメージがある。そういう、本との意味におけるつながりを再構築すれば、積読は解消されたと言っていい。細かくて、自分だけの特別・偶然な繋がり。

こんな小さなところからでも、積読状態からは抜け出すことができる。むしろ、こういう小さなところだけで良しとしてしまうのが重要かもしれない。リフレームして、生活の中で響き合うこと。

興味のなかった本にも、小さな芽を育てていく。

存在を意識の上にのぼらせるだけで、本との関係性が新しく作り上げられる。ちょっとずつ、何度も「どうしてみたいのか」を想像しているうちに、親近感が生まれて、知り合いから気になる人にレベルアップする。

私はkindleでもつい本を衝動買いする。すると、ちらっと読んだけど忘れてしまった本が沢山積まれている。時々本棚を一覧するんだけど、つまんないな〜と感じるようなことが頻繁にある。

良い戦略、悪い戦略という本がある。買った当時、私は自分で考えることがまったくわかっていなかった。確かに大事なんだろうな……。ぐらい。現実を見るのが辛かったから、現在からうまく戦略を建てるというのが下手くそだった。

現在地点について、冷静に見ようという意識に実感が湧き、少しずつ考えようとするようになった。そんなとき、良い戦略、悪い戦略は意味のレイヤーが変わって見えてきた。

こういう風に、つまらないと思っていた本も、実は今の自分にとって大切だったということはよくあるわけで、積読から想像へ、という小さなスロープは大切だと思うのだ。

昔から連れ添って、知った風に勘違いしたパートナーの、全く違う側面を見ること。どんなものも最後まで知ることなんてできない。関係を新しく創造するんだ。

昔からの友達とも、実は学生時代はつまらない話しかしてこなかったかもしれない。自分が変わると、今までの本の言っていることも変わってくるし、友達の立ち位置も変わっていく。

こういう初心。瞑想を積み重ねるように、関係に初心を持ち込むことができる。いつの間にか溜めていった「つまらない」「慣れ」を受け入れつつ、一番最初の純粋な気持ちを見ること。

肉に下味をつけて焼く。想像で、ちょっとだけ漬けてあげる。

肩に力を入れて、しっかり読もうとするんじゃない。小さく始めるんだ。とにかく小さく始めるわけだ。肩をぶんまわさず、小さな行動だけしておく。ちょっとだけ想像/創造する。

繰り返されるものはアイデンティティーになる。親近感は徐々に私に近づき、私になる。未知が親近感になり、既知になる。それが勉強なんだよな。最終的に自分ごとにしてあげる。

だから大切なんだ。学びとのつながり、自分とのつながりを作り直すのだ。

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