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意地悪ばあさん
私には祖父母に対する良い記憶がない。
母方の祖父母は私が生まれた時にはもう亡くなっていた。
父方の祖父母は小学生くらいまでは息災だったと思うが、祖父はともかく祖母は私たち兄妹をたいへん嫌っていた。
父は祖母のお気に入りの息子だったようで、その父の妻である母を祖母は気に入らなかったらしい。
『坊主憎けりゃ袈裟まで憎い』とは言うけれど、まさにその通りだったようで父以外の私の家族は祖母からとてもいじめられた。
父の田舎の家はミカンの畑を広く持つ農家だった。家から少し歩いた山は祖父の山だったようで、帰省した折に祖父が軽トラに乗って連れて行ってくれたことがある。
山の斜面に広がるミカン畑はとてもキレイだった。緑の葉と黄色い実が美しかった。
父は私たちを連れて田舎の家へ帰省することが何度かあったのだけれど、その度に母は食事する間もなく女中のように働かされ、祖母だけでなく父の兄嫁や弟嫁からも下に見られて使われていた。
私はそんな田舎が嫌いだった。乗り物酔いするたちなので長距離を車で移動するのも苦痛だった。でも幼すぎてそんな意見も言えなかった。
耐えていればその内祖母が自分を認めてくれる、そう母が考えていたのかどうかはわからないけれど、私が小学校2~3年生の頃に母は胃潰瘍になった。
ちょっとした掃除や洗濯くらいは自分でできたが料理までは手が回らなかったため、父は田舎の祖母を家に呼んだ。
憎い嫁が病に伏して留守になった家で祖母は好き放題だった。
私や兄に対して憎まれごとを吐き散らし、近所へも母や私たちの悪口を言いまくった。
私はほぼ毎日、通学路から少し離れた母のいる病院へと足を運んだ。
母が退院するまでずーーーっと祖母は毒吐きババアのままだった。
私と兄に面と向かって嫌事を言うのはもちろん、ご近所、通りすがりの人にまで悪口を言いまわっていた。
自分は料理もできない愚図なので罵られても仕方がないと思ていたが、母を悪く言われるのは耐え難かった。
家に帰ると祖母がいるので私は日が暮れるまで家の外で過ごした。
不思議なことにその頃の記憶がすっぽりない。
もの凄く不快な日々だったという感覚だけが残っている。
母が胃のほとんどを取り除く手術をし、家に帰ってくるとほぼ同時期に祖母は田舎へと帰って行った。
数年後、空気だった祖父が亡くなった。
葬儀には私たち家族も参加したが涙は出なかった。
祖母のように私たちをいじめる人ではなかたけれど、離れて暮らしてほとんど他人に近い祖父だったので悲しみは湧かなかった。
祖父が亡くなって暫く後に祖母が逝った。
田舎の家は三男の放蕩で荒れ果て、家も山も全て手放さざる得ない状況になっていたらしい。
父は既に家にあまり姿を見せない状態になりつつあったので詳しくは知らないが、祖母の葬儀に私は参加しなかった。自慢の財産を全て手放した祖母は半狂乱になっていて・・・と後に耳にした。葬儀どころではなかったのかもしれない。
あれからもうほぼ半世紀経とうとしている。
父は消息不明になり母は認知症だ。
私は苦労をしていた母の年齢をとっくの昔に過ぎてしまった。
父と縁が切れているので祖父母や親族との関りは全くない。
意地悪な祖母の墓参りにも行かなくていい。
今思い返すと、あんな高齢になっても子供じみたいじめしかできなかった祖母が気の毒だと思う。
自分の戒めとして、祖母のしたことはこれからも忘れないだろう。