episode2
月光の射す部屋
「まぁ、コレでいいだろ。生ゴミより多少マシだ。」
灰色には染まらない、派手な装飾。冷たさを感じない壁と、振動を吸収する絨毯。鳥籠とは程遠く掛け離れた屋敷内をどうしても常に見渡してしまう。落ち着かない。
余りにも自分が見てきた世界と、違い過ぎる。
差し伸ばされた手を、じっと見つめていた。
雨に打たれながら、痛む体の節々に苛立ちを覚えながら、順に見つめていく。長い爪先、そこから繋がる白い手指、装飾品の着いた袖口、金の施しのある布、真っ赤な双眸。
その手を取ることは無かった。
ただじっと見詰めて、見詰めて、…見詰めていた。
この手を取る事は、恨めしい貴族の玩具になりますと言ってるようなもんだ。そう思った。
この手を取る事は、まるで助けてくれと願っているようなものだ。そう思った。
この手を取る事は、……何となく、恥ずかしい。そう思った。
しばらくの沈黙の後で、ソイツは手を引っ込め背中を向けた。
「俺は戻る。お前の好きにしろ。」
こちらに掛けられた声は、不服そうでは無かった。寧ろ愉悦を綻んでいるような、まだ楽しみがいがあると思っているような。どちらにせよ、自分にとっては不快であることに違いなかった。
壁を伝ってゆっくり立ち上がる。そのまま1歩、2歩、と足を動かした。少しの距離を置いて、背中を追った。このまま石でも刃物でも、刺し殺そうと思えば出来たがきっとそんなのは止められる。
今の自分に出来ることは、何も無い。
あまりにも無力だった。
背中を追って辿り着いたのは、ひとつの屋敷。見上げるほど大きくて、早々襲撃なんて受けることも無いだろう。見張りも沸いているかなり大きい種族なのは目に見えて分かった。
「……おい、名前は?」
後ろを着いて歩いているだなんて最初から気付いていたのだろう、重く堅苦しそうな布を脱ぎながら問うてきたコイツの声を聞いて、首を横に振った。それを見て、眉を寄せ渋った表情を浮かべたのを見ては少しばかり「ざまぁみろ」と思うもので、思わず緩みそうになる口元を隠す。
こちらへ、と至極丁寧に案内するこの悪魔は一体何族か、何なのかも分からないがどうやら今から捌かれる訳では無いらしい。広い脱衣場に通されて、コイツには入って来い、とだけ言われた。
ボロ布だった服を脱いで、1人で入るには広すぎる浴室に足を踏み入れる。軋んだ髪を洗って、体を洗って、傷口に滲みるのを堪えるために下唇を噛んで湯船に浸かった。
体が震えるほど痛かった。視界も多少潤んだ。けれど、何処か清々しかった。広い浴槽には似つかない程小さく丸めていた体を、解放して伸ばしてみた。
端から端にはどう足掻いても届かないが、何となく心地よかった。
鏡に映る己には見ない振りをして、置かれていた布に手を通す。入った頃に脱ぎ捨てたボロ布は、もう無かった。
部屋に戻ると既に寝具に横になっていて、横目で自分を見た後にゴミ呼ばわりされた。否、少し前の自分のことをゴミと呼んだのは100も承知だ。
「そこにある奴、持ってけよ。後は汚さなきゃ適当で良い。」
長い爪先の指す先に置いてあるものを見て、食い物であることが何となく分かった。ここに来て警戒心を解くのもおかしな話だが、ここまでして、これだけ無防備な姿を晒しておいて、警戒しろというのは中々難しい話だった。とりあえず手に取ったそれを落とさないように持って、手招きする案内人の元へ駆けた。
「それから、お前ニアね。名前無ェの不便だし、ニア。」
扉が閉まる前、そんな声を掛けられた。
青白い月光が、そいつを僅かに照らしていた。
己とは
案内人に連れられた部屋は、アイツほど豪華では無かったがそれにしても広すぎる部屋だった。汚さなければなんでも良い、と言われた気がする。とりあえず手に持っていたものは机に置いて、寝具に腰掛けた。
柔らかくて、弾力のある寝具は、自分には経験が無かった。少しばかり足先が浮く程で多少怖さも感じたほどだ。
まずは情報の処理をしよう。この短い時間に色々あり過ぎて、正直パンクしそうだった。
種族───魔族
武器───剣?
名前─── ?
紙切れに書けたメモは、これだけだった。
……あまりにも、アイツの情報が、無い。
詳しい種族も、名前も、表面上目に見えて分かるものしか書き連ねる事が出来なかった。
思っていたより頭は処理能力の限界を迎えているのかもしれない。紙切れから手を離し、ふと貰ったものに目を向ける。
これは何だ?匂いは…甘い。
とりあえず口に運んでみると、純粋率直に、美味い。昔、食べたような気がする。そんな味だった。
あっという間に平らげたそれを屑箱に片付け、再び寝具へと今度は横たわる。アイツの部屋で見た同じ月が、部屋を薄暗く照らしていた。
静かな時間の中で、少しずつ紐解いた。
父も、母も、弟も、何処にいるんだろうか。
何故アイツは、手を伸ばしたのか。
何故自分は、背中を追ったのか。
結局考えても考えても分からない事ばかりだった。もしかしたらこのまま目を閉じて、眠った直後に首を跳ねられるかもしれないが、それも仕方ないとすら思えた。
少し、疲れた。
頭を殴るような睡魔に、そのまま瞼を落とした。
目が覚めるかは、分からない。
種族───ミミック
武器───無し
名前───ニア