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膣を埋めたい


2024/01/17

知らなくてもいいことを知ってから、ずっと最悪な気分。

トイレに入ったらWi-Fi環境チェックしたり
周りの視覚を気にしたり

誰かと付き合うたびに、性行為の不安を頭によぎったり

私は本当はめちゃくちゃ男が嫌いだと思う。
絶滅してほしいとさえ思ってえしまうかもしれない。

男が、というのはちょっと語弊があるかもしれない。
自身の性別も嫌いだし、異性の性別も嫌いだからである。

どっちにも分類されたくないし、もはや性別というカテゴリさえ煩わしいと思う。人類には様々な人がいるけれど、その人の数だけ人がいること、なのに性別は大きく2種類しかない。

前幸福論でも記したとおり、私はその人がその人であることが好きな人間である。

自分が惹かれた部分を持っているその人が好きで、その人であってある事が好ましいのだから、何が出来るとか、何ができないとか重要な事じゃないのだ。
上記の内容も 青野くんに触れたいから死にたい で主人公が似たような話をしている。

その人がその人であればっていうのは、私自身も性別というそのものを嫌っている事から、そんなことを重要視していない。だから異性間でできるそんな事になんて、人生で考えたりもしないのだ。
究極、私はそんな事がなくてもいい人だから。

CLAMPの『ちょびっツ』という作品がある。
ノートパソコンが、人型で普通に会話やおしゃべり一般的なパソコンの機能を使える。
限りなく人間に近い人型の機械は、感情を有する人間にとっては簡単に恋愛感情を抱いたりする。
なんでか機械なのにもちろん女性型には、乳房があるしそういう行為が出来る。男性型にもきっとついてるものはついているんだと思う。

そんな人形ノートパソコンが欲しい苦学生の“本須和”という男がいる。そんな男が“ちぃ”という人型ノートパソコンを拾い、様々な女性に揉まれるのだが“ちぃ”が好きだということに気づく。

だけど“ちぃ”という存在は、他の人型ノートパソコンと比べる必要もないchobitsシリーズという特別?幻だったかな?もので、“ちぃ”には通常の人型ノートパソコンと比べ生殖器がない。
厳密にはあるが、我々が使用しているパソコンにも再起動のボタンやスイッチやプラグラムがある通り、“ちぃ”にはそれがアソコの中にあるというものだ。
一度でも、“ちぃ”と性行為をしようというものなら、今まで過ごしてきた思い出や心の構築、人間関係のことさえも、綺麗さっぱり初期化されてしまう。

セックスできなくても人を愛せるか?という主題のようにも思うし、私はこれを純愛のように思う。

主人公の“本須和”がどちらを選択したかは『ちょびっツ』を見て欲しい。

“ちぃ”が可愛いから好きになったのか、“ちぃ”が女の子だから好きになったのか?そもそも“性行為”はできないし、“機械”だし、“女性型”なだけで性別もないよ。“機械”だから壊れるよ。それでも好きなの?


最近、私と同じ考えの人がタイムラインに流れてきては安堵している。
性行為=付き合うっていうのがもう私としてもキツいのだ。付き合わなくてもできるしそんなことね。
できるから、好きとか恋愛感情抜きにそういう事出来ちゃうから、そういう店があるんだし、違う人と体だけの関係とか作るんでしょう?

それなのに本命ができたら好きだから抱きたいっていうんでしょう。そんな軽い『好き』で私に好意を向けないでほしいのだ。
無料でやれるから付き合ってるっていう人もいるし、純粋に最初に好きになって付き合うっていう選択をとった人はそうじゃないと思いたい。

なのにどうして、それが当たり前になると突然不機嫌になったり、当たり散らしたりするんだろうか?私にできないことはできないんだから最悪どっかいってくれよとさえ思う。

相手を傷つつけてまでしなきゃいけない自分の『性欲』の押し付けって、もう病気だよ。性犯罪者と変わんないよ。

『好き』だと当初は純粋に向けた好意の人に、そういったことを迫って『嫌だ』と断られた時に、不機嫌になる人間は自分はその『好き』だから抱きたいを理由に『好き』といっているその『好き』の言葉の軽さと、その己がいった『好き』よりも自身の性欲がうわまっている事に気づいているのだろうか?
その『好き』だから抱きたいといっている事で、自身の純粋な『好き』という言葉の信頼を底辺に落としていることに気づいているだろうか?

『好き』だから抱きたい、は抱けなかったら好きじゃない、になるし、抱けたら誰でも『好き』という事になる。

普段純粋に相手に『好き』と伝えてるかもしれないけどね、
そういう事にもなるんだよ。

『嫌だ』と断られた時に不機嫌になるってことは、好きな人の嫌だ、やめて、よりも自身の制欲を優先している。好きな人に嫌われたくなかったら普通しないよね。

それって付き合うメリットってただで性行為できる事でしょっていってるのと変わらないからね。自分はそうじゃないと思ってるかもしれないけど、全然そんなものじゃないからね。結局やらせてくれる女体が好きで、やらせてくれない女体は、何お高く止まってんだよとか、そういうエピソードでゲラゲラ下品に笑ったり、顔真っ赤にして強がったり、女嫌いの女体好きと、そこの層と変わらないからね、根本は。

つまりは、相手の中身ガン無視で『好き』じゃなくて『性欲』押し付けてるだけです。自分の言葉の軽さも気づかないで、普段の好きという言葉の信頼度も下げて、『好き』である相手の存在価値も下げてる。相手の気持ちが離れることも気づかず。

不機嫌で相手に察して欲しいように行動するの、それは『好き』じゃない『性欲』。

だって『好き』で『愛』がなくたって抱けると、『好き』と『愛』と『性欲』を切り離せるからそういうことが出来るとさんざん分かっているはずなのに、どうして『好き』と『愛』を理由するのだろう。

そういう人の『好き』と『愛してる』は薄っぺらい。薄っぺらすぎる。紙より軽い、コンドームより薄い。


それもこれも、私にこういう機能があって性別がこうだからとか考えちゃうと本当に死にたくなっちゃうね。

子宮とろうかな、とか、乳房切除したいな、とか、膣埋めたいなとか。
そうしたら一緒にいないでしょう?その程度なんでしょうって。
性行為できる事が当たり前で、当たり前かのようにできない事に苛立ちを覚える人達。

その人がその人である事が好きな私に対して、簡単に異性を好きになったり、性行為がないと無理だという人間は、結局性別なんだと思う。

「じゃあ同姓だったら好きになってたの?」
「セックスできなくても好きになってたの?」
「もう今日から一生できないよ」

考えたり、それはちょっと…ってなるなら、結局それ目的なんだなーぐらいに自分を思わないとダメだよ。その人込みも多少あるかもしれないけど、それって性行為ができるありきだからね。

私が私であるから好きなわけではない。私がたまたま女で生殖器があるから好きなんだと思う。

女だからついてくるものを、全て捨てて、はやく何者にもなりたくない。

その下心ありきで見ないでほしい。

埋めてしまいたい。切除してしまいたい、切実に。

性別の目印となるものを全てとってしまってほしい。

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