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引用川島小鳥「明星」にて

彼女にnoteを勧められ、書いてみたらその気になり、どうしても書きたくなった。

彼女に何かを勧める時は彼女の好きなものを絡めて勧めるべきである。

今回は一緒にそれぞれnoteを書こうという勧めを渋る彼女に彼女が好きな写真集をテーマにする事で成功した。

これは何かの学問であるのだろうな。

本題に入る。


写真とはなんだろう。きっと最初は視覚の瞬間を記憶でない物体に収めることで記録ができることから記憶するための技術だったと思う。

それがいつしか楽に記録ができるようになり、個人の手に渡り、記念の一つの品として世の中に普及した。

そして今はデジタルになり、スマホでいつでも小綺麗な記録を確認できる時代になったにも関わらず、フィルムカメラや、印刷などが根絶えていない。

わざわざ面倒くさい方を選択しているのだ。

僕は人間の生物的余裕と思う。

今の時代、デジタルデータをフィルム風にすることなどきっと容易いし、フィルムを現像した時のワクワクはデジタルでも誰が本気を出せば可能である。

それでもフィルムなどを使うのは人間という成功しきった生物の余裕だと思う。

例えるなら弱りきったネズミを猫が弄んでいる様である。

たぶんこの後も言うが誰かを傷つけたいわけではない。

世の中を知らない私の学問のようなものである。真剣に聞いたところで意味はない。

話を少し戻す。

写真が記録ではなく、何かを表現する媒体になった。そして「その瞬間を切り取る」になることもできた。

「その瞬間を切り取る」というのは実に難しいことである。

故意的にその瞬間、その絵を狙って撮っているとも言えるし、たまたまその瞬間を撮ったものとも言える。

僕はこの写真を見て「その瞬間を切り取る」のちょうど間だと思った。

記念撮影のように思える。

撮影者がいて、被写体がその存在を認知し笑っている以上、撮影者が狙った絵を撮っているのだろう。

だが、この写真から感じるのは、撮影時間というある時間の一部を切り取れたというものである。

この写真は瞬間ではなく時間を感じることができる。

いきなり終わってやる。

きっと最後まで書けないだろうから。

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