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『好きな惣菜発表ドラゴン』を聞きながらちょっと泣く

なんか郷愁に近い感覚を覚える。

 私はネガティブな方面に雄弁なタイプです。好きなものについて語る言葉が足りていない。そのうえ好きと言っても、深い愛情を持たないため明確な理屈付けを提示できないと好きと認めることできんのです。正式名称がわからないけど好きだからいいか、なんてことはあってはならないわけです。

 そんな私が、ポジティブな要素だけで出来上がった曲を聞きながら、この世の善性に触れたせいなのか、自らの虚空と比較してか、はたまたドラゴンと同じ感情を持ち合わせていた時分に思いを馳せてか、不思議とちょっと泣けてくるのです。



以下、蛇足化

 基本的に私の筆がのるというか、キーボード走りが軽やかになるのは、文句を言っているときです。負の感情を陽のもとに曝してバランスを取ろうとしているのやもしれません。
 ふだんからそんな思考だから、ポジティブな面を拾い上げる能力が劣化してきている気がします。
 慣れによって人はどんどんと思考を変化させていくらしいですよ。
 私はかねてより「医者は感じ悪い」という印象を持っておったのですが、ものの本によると、外科処置など手先の冷静さを保とうと意識しすぎるあまり、患者を物として冷静に捉え心を落ち着けようとする。それが習慣づいていくと、一見冷徹な医者が出来上がってしまうとかなんとか。
 そんな感じで、私も別に意識してもいねえ訓練の賜物として、物事の悪い面を拾い上げる能力に長けてしまっている。

幸福とは幸福をさがすことである。

── ジュール・ルナアル

 私がうんにょりとした日常を多くるのも必定というものでしょう。

 そんなふうに、私は常日頃から、よくなかった探しに余念がないのです。
その副産物として、よかったことにも難癖をつけたり、必要以上に理屈付けを要求するようにもなってしまいました。
 その上、インテリコンプレックスのせいで、ある程度(その度合さえ自分で定められないくらい無知なわけですが)の見識がないと物事を語ってはいけないような思い込みがある。
 そうなると、口から呪詛を無限供給する邪悪なペッツ・ディスペンサが完成するわけです。

 自分でも、この人生的倦怠感は社内製造されたものだという自覚はあります。
 今の私に必要なのは、よかったものはただよいとして心の栄養とすること。なんならトートロジーてきに、よかったからよかったくらいで摂取してしまえばいいはず。なのに自意識がそれを邪魔する。

自意識は、すべての芸術の敵だ。演技であれ、執筆であれ、絵画であれ。そして、もっとも偉大な芸術である、生きることそのものの敵だ。

── レイ・ブラッドベリ『女王陛下の逃亡者たち、あとがき』

 自意識などものともせず、日常ですこしでもよい物事に触れることができたなら、好き好き大好きと言える。発表して共有できる。そういう境地至りたいものです。

不変の叡智とは、ありふれた物事に奇跡を見いだすことである。

── ラルフ・ウォルドー・エマーソン

 ってここまで書いてみて思うのは、結局、好きなことを説明して付に落とさないと何も語れないってことが強調されているだけだな。


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根守四二式
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