Oh,boy!!〜アメリカのおばちゃん〜
【sugi cafeで掲出している僕と祖母の物語です】
『Oh,boy!!〜アメリカのおばちゃん』
2021年。
我が祖母・中谷欣子(なかたにきんこ)がこの世を去ってから、12月でとうとう10年になります。
身内の話で恐縮ですが、中谷欣子という女性はとんでもなく太く長い人生を歩んだ女性でした。
一度その話をしてみたかったので、本人から聞いた話と孫である僕が受け取った体験談を中心とした欣子さんの生涯を長文になりますがしたためてみました。
長文駄文でたらめ改行ですが、ちょっとした暇つぶしにでも。よろしくお付き合いくださいませ。
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大正15年。
その年の暮れに昭和となる激動の時代の1月2日。
京都で暮らす中谷作次郎・やす夫婦の一人娘として我が祖母・中谷欣子は産まれました。
当時の中谷家は能登半島の先っぽから京都に上京し、京都市の碁盤の目のど真ん中・富小路通の新居(いまでも我が父母が暮らす実家)での新しい生活を始めたところで、そんな中での一人娘。それはそれは可愛がったと同時にかなり厳しくしつけられたそうです。
そんな折。
当時7歳の欣子さんが忽然と京都から姿を消し、行方不明となりました。
もちろん警察沙汰。近所の人も加わり大捜索をするも、何の手掛かりも出てきません。
顔面蒼白、祈るような思いで必死に探し回るも徒労に終わりヘトヘトになった曾祖父母のもとに翌日届いた連絡は、当時国鉄だった石川県の七尾駅からのものでした。
なんと欣子さん、京都駅の改札を大人に紛れてすり抜け北陸方面の鈍行にちょこんと乗り込んで、石川県・能登半島の七尾まで7歳で無賃乗車で辿り着くというとんでもない事をやらかしたのでした。
興味本位も混ざりつつ「なんでまたそんなことを?」と国鉄職員や警察が聞くと、欣子さんは「おとんおかんがいちいちうるさくてイヤやから輪島の本家にいくんや!」といい放ったそうです。作次郎さんやすさんは赤面のまま連れ戻り、安心したと同時に「これは言うこと聞かんやっちゃなぁ」と改めて認識したそうです。
時は流れます。
切れ長の目と抜群のスタイル(今でいうと北川景子さんみたいな感じ)で欣子さんはめちゃくちゃモテたそうです。
欣子さんは舞台女優への道を進みます。
大阪の歌劇団、OSKに入団しました。
現在でいうところの宝塚歌劇団のようなもので、いまは松竹芸能系の歌劇団として存続しています。
その中でほぼ同期・同世代で仲良くしていたというのが、のちに昭和の大女優として多数の映画やドラマに大きな足跡を残した京マチ子さんです(2019年5月にご逝去されました。心よりご冥福をお祈り申し上げます)。
しかも欣子さんは先見の明の持ち主で、いずれ戦争をするであろう米国の言葉・つまり英語を戦前に習得し、歌って踊れるバイリンガルになったのでした(まぁそのせいで戦中戦後の中谷家は非国民扱いされ、下鴨神社に隔離疎開を強いられたのですが)。
その後欣子さんは一度目の結婚をし、滋賀県の皇子山で新居を構えました。
中国出身の山本徳一郎さんという方でした。
そのふたりの間に昭和16年9月23日、男の子が産まれます。
その名を中谷良作。のちに私の父親になる人物です。
欣子さん17歳の事でした。
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昭和20年終戦。徳一郎さんは戦死しており、欣子さんは息子と親一人子一人となっていました。
結局京都の中谷家に戻った欣子さんは、四条烏丸に進駐していたGHQで通訳として働き始めました。
若くて美人で歌って踊れて、もと舞台女優の通訳ときたもんだから、それはそれは持て囃されたそうです。ほぼタレント状態。
中谷家は相変わらず富小路半分下鴨半分の疎開生活だったのですが、そのお陰で中谷家は戦後まもなくの食糧難の時期も大変裕福に過ごしたのでした。
そんな頃、我が父が小学校の修学旅行にいく時に欣子さんが買い与えたのが「ゼノビアC1」というカメラでした。
そう。あれです。
僕がカメラさんぽでたまに持ってくるやつ。
今でも現役バリバリで、僕がここ一番の時にだけ使うあのおばあちゃんカメラです。灯台と鯉のぼりの写真はゼノビアでぼくが2016年に撮影したものです。
昭和26年当時、小学生にこんなカメラをぽんと買い与えるのだから、いかにうちがセレブだったのか。僕でも容易にわかります。
そして下鴨の庭では昭和20年代でバセットハウンドを飼っており、その名を「門太」と言いました。
僕が子供の頃中谷家で飼っていたビーグル犬門太は、そこから名前をとったものです。
欣子さんはGHQで働いているうち、日本に来ていたアメリカ陸軍の兵士ジョン・フレケンジャーさんと恋に落ち再婚する事となりました。
が、その時ネックになったのが欣子さんと前夫との間に生まれ育っていたわが父・中谷良作の存在でした。
ジョンさんと欣子さんが結婚するのは嬉しくてなんの問題もないのだけれど、死別した子供がいる事が初婚で軍人のジョンさんの方にネガティブな影響があってはならない。だからといって中谷家と決別など考えられないし、ましてや親子の縁を切れるわけがない。
さあ、どうしたものか。
わが曾祖父母・中谷作次郎やす夫妻が下した決断とは・・
これまでたくさん頑張ってくれた娘が新たに掴んだ幸せを無にしないため(そして言い出したら聞かない性分なのを充分承知していたため)、欣子さんの再婚とアメリカ行きを認めたばかりか、欣子さんとわが父を「兄弟」という設定にして、下鴨の疎開先から富小路の実家に3人で戻る、という決断でした。
時代背景もあるとはいえもの凄い覚悟だったと思います。
そして中谷家は欣子さんの幸せを祈りつつも一切の仕送りを貰わず独立採算の道を選び、父は成徳中学卒業後進学していた洛東高校を一年の夏に中退、社会人となりました。
実の母を姉と呼ぶことになり祖父母を父母と呼ぶことになり、高校入学直後に学業を棄てて、年老いた作次郎やす夫妻を養うと決めて松下電器から海上自衛官になってまで働いたわが父も、ものすごい覚悟と勇気だったと思います。
欣子さんはカリフォルニアにあるサリナスという陸軍基地のある田舎街の病院で
Kinko Nakatani Flicinger(キンコ・ナカタニ・フレケンジャー)として、看護師として働き始めました。
ジョンさんはまもなく退役して子供を授けず二人仲良く暮らしていたのですが1974年、ジョンさんはお亡くなりになりました。
それとほぼ時を同じくして、
欣子さんの一人息子・中谷良作が昭和46年に結婚した美佐子との間に、二人目の子供が京都で生を受けます。
中谷登。つまり僕です(笑)。
その後もサリナスで看護師として働いていた欣子さん。
わが父は物心ついた僕に「アメリカのおばちゃん」として「姉」として僕にその存在を知らせてくれました。時に欣子さんが日本に帰国して家族で車移動するときも、わが父は欣子さんをお姉さんと呼んでいました。
でも。
小学校低学年だった僕でも薄々わかっていました。
二人は親子なんだと。
何らかの事情があって姉と弟になってるんだと。
そしてそれは軽々に聞いてはいけないものなんだと。
それはまるで何かの呪縛のような、ヘタに問い質したら何もかもが崩壊してしまうような絶対的禁句でした。
昭和61年から62年にかけて、
中谷作次郎・やす夫妻は天寿を全うしていきました。
欣子さんは60歳を越えても現役看護師としてサリナスで一人暮らしをしていました。
が、そんな1989年10月17日、暮らしていたカリフォルニアを震源とする大きな地震(ロマ・プリータ地震)に見舞われます。
ほぼほぼ震源直下だったサリナスの街も甚大な被害を受けましたが、当の欣子さんとその周辺は奇跡的にも無事でした。
しかし、部屋の横のプールの水がまるでプルンプルンの寒天のようにプールの形のまま上下に飛んでいる姿を目の当たりにした時に、さすがにこれから、それこそ老後をここでおひとりさまで過ごす事への不安を感じたようです。
そこから間もなくして看護師をリタイアして京都へ帰国することを決断することとなりました。
わが父はこのような状況になってようやく、当時高校1年だった僕に「アメリカのおばちゃん」は父にとって姉でなく母親であり、僕にとって叔母ではなく祖母なんだと教えてくれました。
正直僕は驚きもせず、だからといって怒りもせず、「あーやっとか」という感情が支配していました。
それは遠い昔の激動期に覚悟を決めた中谷家の長い長い呪縛が、ようやく解けた瞬間でした。
そしてこれからは京都でみんなで暮らすため、サリナスでの引っ越しを手伝いにいこう!という話になり、僕は高2の二学期に鳥羽高校を休学して父と一路カリフォルニアに向かいました。
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はじめての海外。はじめてのアメリカ。
あまりにも広大な畑に囲まれたアメリカの田舎町にいたアメリカのおばちゃんは、はじめて僕の祖母として僕を見つめてくれました。
そのサリナスでしばらく親子三代・三人で過ごしました。
不思議なほどに濃密な時間でした。僕は高校2年の多感な時期にそうそう他人に真似できない貴重な経験をさせてもらえました。
おかげで高校の勉強は完全に脱落しましたが、それ以上に価値のある体験をさせていただいた、という自負はあります。
そしてすべての身支度を終えて三人で帰国して、欣子さんは35年ぶりに「中谷欣子」になりました。
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京都に帰ってきた欣子さんは帰国早々「私は老いを拒絶する!」と高らかに宣言し、英語混じりの日本語でいつもシャキッと延びた背筋で京都の街をスタスタと歩いていました。
そしてその身なりはどっからどう見ても65歳そこそこのおばあさんの身なりではなく、大変洗練されたおしゃれなものでした。
今でも実家にいくつか服が残されているのですが、正直若くてよっぽどの美人でない限り着こなせない服ばかり(なもんで捨てるに捨てられず持て余しているのですが)。
家族として手前味噌で恐縮ですが、あれは本当にかっこいいばあさんでした。
時には当時50歳近くになり年収2500万を軽く越える某住宅メーカー全国レベルのトップセールスマンだったわが父がちょっとした粗相(お皿からおかずをこぼすとか)をしたときには、
「Oh,boy!!」(直訳すると・・・コラ!坊主!)
と一喝していました。
あれには参った。すごい人だと思いましたね。
でも時というものは、本人の意思など無関係に、且つ無情に流れていきます。
欣子さんも80歳を越えた辺りから認知症が始まりました。がんも見つかりました。
僕のことがわからなくなるのにさほどの時間を必要としませんでした。
そして2011年の12月のある日。東京でコンビニ店長として暮らしていた僕のもとに、
「欣子さんはいま京都逓信病院に入院している。もう時間がない。生きてるうちに顔を見たいなら一週間以内に京都に戻ってこい。」
という連絡が父から入りました。
それは、欣子さんがほどなくこの世を去る、激動の人生に緞帳が下ろされる瞬間がすぐそこにあるという事でした。
悲しくて寂しくて、そしてどこかお疲れさまという感情も入り混じった僕。この日ばかりは本気で泣きました。
僕はすぐ京都に帰り中京区の京都逓信病院へ。
そこには寝たきりになりながら上半身を起こしてご飯を食べようとする欣子さんがいました。
おかんの介護でひとしきりご飯を食べたあと、僕がほぼ聞こえない(聞こえても認知症で僕と理解できない)耳に向かって
「のぼるです!」と元気に挨拶したら
「ふふん♪」と笑ってくれました。
今でも忘れることのできない素敵な笑顔でした。
結局僕と欣子さんにとってそれが幾年かぶりの意思疏通であり、そして最後の意思表示となりました。
その数日後の2011年12月26日夜明け前。就寝中に血圧が低下したと思ったらそのまま眠るように・・・・。
欣子さんはその激動で華麗な人生の緞帳を静かに下ろしたのでした。
東京でその一報を父親から受けた僕は、電話を置いた後しばし空を見つめ、やがて西の空に拍手をしていました。
そこに宿る思いは愛と感謝と敬意だけ。涙はありませんでした。
アメリカのおばちゃん・そしてお祖母ちゃん、欣子さん。
あなたは太くて長い人生をあまりにかっこよく駆け抜けていきましたね。
本当にお疲れさまでした。ありがとうございました。
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あれからずいぶん経ちました。大正時代を知る人も数えるほどしかいなくなり、京マチ子さんも鬼籍に入られました。
それでも僕にとって欣子さんは今でも誇りであり憧れであり、目標でもあるのです。
サリナスにはジョンさんと連名のお墓があるのですが、いまだに中谷家は納骨にいけてません。
まだまだひよっこでカイショなしな僕ですけど、
天国から「Oh,boy‼」って怒られないようにこれからも精一杯いきていきます。
だから、これからもよろしくね。欣子さん。
以上
Noboru Chann Nakatani Flicingerより
親愛なる欣子さんのモノローグ
『Oh,boy‼~アメリカのおばちゃん』でした。
ものっすごい長文&でたらめ改行、大変失礼いたしました。
すべて読んでくれた方(いるかどうかわかりませんが)長文駄文にお付き合いくださりありがとうございました。
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2016年12月26日東京にて。
2021年5月21日 note投稿用に再編集