フィリピン・セブ旅行中(2019年9月27日)に起こった出来事を、事件の数時間後にiPadメモに記していた。スクリーンショットのみでの保管だったので、手元にiPhoneが残っているうちに(この意味はすぐにわかる)、インターネットの海に放出しておく。


■ 本文


 9月27日の深夜、小腹を空かせた私と友人Aは、コンビニに行くためにホテルを出て2人で外を歩いていた。しばらくすると、小1~中学生くらいの年齢の子供たち十数人が、私と友人それぞれを取り囲むように集まってきた。1人の少女が私の右手を優しくつかみ、か細い声でお金を要求してきた。少女の手は細く柔らかく、冷たかった。私の胸の高さくらいの背丈の少年も、べったりと体を密着させてお金をねだってきた。内心は小銭くらいあげてもいいかなと思っていたが、収拾がつかなくなりそうだと思い、目を合わせることなく歩き続けた。左のポケットには現金が入っていたので、そちらを左手で防いで歩いた。このときの私には、彼女らを振り払うことができなかった。

 10秒ほど経過したところで、反対のポケットに入れていたスマホがなくなっているのに気付いた。子供たちに集られ困惑していた私は現金を守るので精一杯で、スマホにまで注意が向いていなかった。哀れな子供たちへの同情もまた裏目に出た。背筋に電流が走るような感覚を覚え、怒りと焦りがこみ上げてきた。久々に大声を上げた。スマホを盗み取ったと思われる少年を捕まえるために振り返り、走って周囲の脇道を確認した。だが、手遅れだった。ここは完全に相手のホームグラウンドであり、異国に彷徨う観光客に勝ち目などあるはずがなかった。少年は闇の中へと消えていった。さっきのは少女が片手を塞ぐという連携プレーだったということに遅れて気づき、自らの情け心を恨んだ。

 タクシーに寄りかかり、気だるそうに会話する運転手たちを横目に、私は文字通り右往左往していた。気づいたら元の場所から離れており、友人Aともはぐれていた。これでは埒が明かないと思い、近くにいた別の子供たちに少年の居場所を聞いたが、分からずじまい。高額のチップを払うと言っても答えなかったので、本当に知らなかったのかもしれない。そこで、近くにいた赤いTシャツの男性に声をかけた。深夜に用もなくぶらぶらしている地元民ならば、少年のことをよく知っているかもしれないと考えたからだ。謝礼を約束して事情を説明すると、彼は少年の名前と家を知っているからついてこいと言った。名前は「ドビー」というそうだ。滞在4日目だったので薄々気づいていたが、この国の人はカネがもらえるとなれば基本何でもしてくれる。良くも悪くも単純だ。

 先ほどまでいた大通りとは打って変わって暗く不気味な路地を、彼の案内に従って進んだ。途中で彼の奥さんが「あんたたち、何してるの。」といった感じで合流してきた。道中では別のストリートチルドレン5、6人が、白いプラスチックの椅子を囲んで集まっていた。明らかに盗品と思われるスマートフォンが椅子の上に数台。自分のiPhoneによく似たものが見えたので慌てて手に取ったが、いつものシリコンケースではなかった。自分のスマホがないことを確認した後、引き続き3人で歩いた。私と同様に男性もあまり英語が上手くなかったが、十分に意思疎通はできた。彼いわく、少年と彼とは信頼関係にあるとのことだった。彼が現金をちらつかせ、少年がスマホを差し出したところを捕まえるので、隠れていた私がそこへ駆けつけてスマホを奪い返す、という手はずになった。交渉用の現金を貸してくれと言われたので、半信半疑ながらも彼に500ペソ(=約1000円)渡した。しかし、これでは足りないと言うので仕方なく追加で1000ペソ渡した。奥さんも同伴していたので、裏切って逃げる可能性は低いと踏んでいたからだ。それに、スマホを取り返すためならばこれくらいの出費は大したことない。スマホ奪取作戦を打ち合わせながら、灯りの少ない道を進んでいった。しばらくすると、突然彼は立ち止まった。私に頬を近づけ、30mほど先の狭い道沿いにある建物を指さした。少年ドビーの住処らしい。私のアドレナリンは最高潮に達しようとしていた。場合によっては暴力も厭わない構えだった。

 月が低く鈍くまちを照らしていた。ホームレスが蒸し暑そうに路地に横たわる姿が目に映る。

 突然の出来事だった。我々の1~2m前にある警備員ボックスの後ろからおもむろに黒い男が現れ、それを見た奥さんが悲鳴を上げた。直後にふたつの閃光が走り、耳をつんざく破裂音が空高く響き渡った。一瞬の時空の歪みを経て、開ききった瞳孔に映ったのは、男の右手に構えられた拳銃だった。とにかく一瞬の出来事で、何が起こっているのか全く整理がつかなかったが、気づいたときには私の体は動き出していた。左側は壁だったので逃げ場は右側の駐車場のみ。被弾を避けるために蛇行して走った。敵もそこまで銃の扱いに慣れていないはずなので、ある程度の距離をとれば逃げ切れると考えた。いや、考えたというよりは本能でとった行動だった。しかし、重大な弱点があった。私が履いていたのはランニングシューズでもスニーカーでもなく、現地で調達した250ペソの青いビーチサンダル。履物界隈の底辺スペックである。無我夢中の心境とは裏腹に、ペタペタと緊張感のない足音が敗北を予感させる。

 気づいたときには数十m先に一本だけ生えていた木の裏側にいた。右半身を幹に密着させ、極力死角に入るようにした。気の向こう側には私を探す銃の男。右は行き止まりで、左には大きなゴミ箱と数台の車があったが、その先も行き止まり。残された背後には道があったが、鋭利な鉄柵で堂々と隔てられており、念を押すかのようにその上部にはトゲ付きの鉄線が長く広がっていた。つまり、ここから脱出するには来た道を戻るか、重傷を覚悟して柵を乗り越えるかの二択だった。敵との距離をとりたくても、身動きすれば気づかれてしまうだろう。結論は出なかった。四面楚歌などという表現では生ぬるい。嘘みたいに頼りない木の幹だった。

 不幸はさらに重なる。鉄柵の向こうの細道にいた野良犬が私の存在に気づき、急に吠え始めた。この瞬間、未曾有の絶望感に苛まれた。居場所がバレると思った。さらに犬の横ではジジイが怪訝そうにこちらの様子を眺めている。私は柵越しに「シーッ」とジェスチャーで伝えようとしたが、万が一ジジイがリアクションを取ったら隠れている場所が敵にバレると思い、踏みとどまった。外界のすべてが敵の味方をしていた。1秒1秒がとてつもなく重苦しかった。刻一刻とあの世が近づいてくる感覚を覚えた。

 悔しかった。真っ先に脳裏に浮かんだのは家族の顔だった。あれが走馬灯というやつだったのかも分からない。どれほど悲しませてしまうだろうかと思い、涙が出そうになった。いろいろ頑張ってきたのに、人生これからだというのに、ここで見ず知らずのイカれた外人に殺されてすべてが終わるのがただただ悔しかった。このときはパスポートもスマホも持っていなかった。もし殺されたらしばらく身元が判明しないかもしれない。海外で日本人が殺されたとニュースになるかもしれない。せめてニュースになってくれ。死後のことを考えたのは初めてだった。とはいえ、感傷に浸っていられる状況ではない。もし敵に見つかった場合は、逃げるよりは接近戦で戦ったほうが期待値は高いと判断し、覚悟を決めた。人生初のケンカ相手は実銃持ち。試合開始のゴングが鳴らないことを祈った。荒ぶる鼓動が顔を出さぬよう、夜風に揺れる木々の摩擦音に紛れこませた。

 あまりにショッキングな出来事だったので時系列の整理がついていないが、2発の銃声の後、我々は散るように走り出した。高校で打ち込んでいた陸上競技は思いもよらぬ形で活きた。実弾を発射するスターターなど見たことがないが。一緒に歩いていた赤い服の男性は、来た道を戻るほうに逃げたと思う。その奥さんはワンテンポ、ツーテンポ遅れて私と同じ駐車場内に走り出したのを背後に感じた。私が蛇行しているときに、3発目の銃声が鳴り響いた。「……セーフ。」暗い駐車場を突き進む。

 女性は転倒した。木の幹の向こう側で人の動きが止まったのが分かった。目で見てはいないが、確かに女性は転倒した。撃たれたか否かはわからない。彼女は滅茶苦茶に泣きわめいていた。死を目の前にした人間にしか出せない声だった。胸が張り裂けそうになった。4発目の銃声を聞きたくなかった。罪なき人が不運な事件に巻き込まれ、目の前で銃弾をぶち込まれる理不尽に耐えられなかった。その一方で、こちらの近くまで来なくてよかったとも思った。いや、むしろそのようにしか考えていなかった。自分の命さえ助かれば良いと思った。息を殺した。心を殺した。彼女の鳴りやまぬわめき声から、急所には当たっていないことがうかがえた。息継ぎを挟み、一定間隔で繰り返される奇声。その切れ間に、敵の冷徹な声が聞こえた。

" Where is the Korean ? "

 全身が震えた。目的が何かは分からないが、やはり狙いは私だった。旅行中何度か間違われたが、韓国人に見えたらしい。彼女からすれば私は所詮赤の他人。見知らぬ異国人の1人。彼女自身の命が助かるならば躊躇なく私の居場所をしゃべってしまうに違いなかった。だが、彼女の気が動転していたおかげで、また、私がすぐに木に身を潜めたおかげで、彼女には返答する余裕も問いに対する答えも持ち合わせていなかった。

 何分経っただろうか。まったく分からない。サイレンの音が近づいてきた。木の向こう側で車のドアが閉まる音がして、それと同時に女性の鳴き声が途絶えた。エンジン音が鳴り、サイレンの音は引き返していった。先ほどまでの喧騒とは一転して、辺りは静寂に包まれていた。私はひたすら隠れ続けた。異空間にひとり取り残されたかのような、また違う恐怖を覚えた。1分ほどすると、木の横からガタイのいい男が現れ、私は見つかった。手に拳銃のようなものはなかったが、反射的に私は両手を挙げた。男は私を捕まえ、強引に引っ張っていく。どこかに連れていかれると思った。震えながら " Who are you ? " と尋ねると、"Security man" と帰ってきた。確かに警備員の格好をしていたが、それでも現地の人間を一切信用できなかった。やがて野次馬やほかの警備員が現れ、ひとまずは助かったのだと安堵した。警備員の " Relax, relax " の一言で力が抜けた。それでも、ひらけた空間に立っているのが怖くて、警備員にぴったりくっついた。かなり鬱陶しそうにされた。別にゲイだと思われても良い。とにかく人の近くにいたかった。そのまま現場の警備ボックスに張り付き、死角をなくす努力をした。狙撃されるのが怖かった。ゴルゴ13の読みすぎかもしれない。すぐにパトカーも到着し、警備員と警察に順を追って事情を説明した。平易な単語で分かりやすく伝えようと脳を使うことで気がまぎれたのは不幸中の幸いだった。問題なく経緯が伝わったところで、警備員の人に女性がどこに行ったかを尋ねると、病院に行ったと答えた。後頭部に銃を突きつけるジェスチャーをしていたが、その解釈は保留した。赤い服の男性についても尋ねてみたが、そのような男は知らないと言われた。

 警備員がタクシーを呼んでくれたので、ドアまで全力で駆け込み、一気に車内に入り、座席の下にしゃがみこんだ。近くにいたみすぼらしい身なりの歯抜け男がホテルまで同伴してくれた。臭かった。ひどく頼りなかった。それでも、ホテルが近づくにつれ「生」を実感した。ロータリーに入ると、歯抜け男が運賃を持っているか上から聞いてきた。モンスターズインクばりのギョロ目だった。彼はどうやら一文無しのホームレスのようだ。左ポケットを漁ると、運賃分のお札がギリギリ入っていたので支払い、部屋まで駆け戻った。歯抜けはずっとついてきた。部屋に着くと予想通りチップを要求してきた。友人に借りて500ペソを渡した。歯抜けにとっては莫大な臨時収入だろう。嬉しそうに帰っていった。

 いつもの表情をした仲間たちが部屋にいて肩の荷が下りた。生きていてよかった。


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↓ 発砲現場の警備員ボックス

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↓ 隠れた木と鉄柵

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↓ 避難経路

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↓ 事件直後の私

■ 教訓


 すべては自分が蒔いた種であり、完全な自己責任である。十分に自覚しており、大いに反省している。しかし、ここまで治安の悪い地域だとは思っていなかった。今思えば、発砲してきたのはスリの少年か、その身内だったのではないかと思う。怒り狂った私が住処の近くまで来ている危険を察知し、防衛手段としてこのような行動に出たのかもしれない。彼らは教育を受けていないので、極端な話、人を殺してはいけないことすら知らない。目先の利益や保身のためならば、このように極めて短絡的な行動に出る。日本で裕福に育った我々の価値観で解釈しようとしても限界があるのかもしれない。

 フィリピンは銃社会であり、セブ島では銃の密造・密売が横行している。安価なものならば数千円で入手できるらしい。オートバイで襲撃され、日本人が射殺される事件も多数発生している。この背景には数万~数十万円で雇われたヒットマンの存在があることが多い。また、フィリピンではドゥテルテ大統領が強権的に麻薬対策を行っており、密売人や中毒者は容赦なく射殺される。一部では自警団による罪なき人への誤射も発生しており、朝起きたら道端に死体が転がっていることも珍しくない。要するに、それほど治安が悪く、我々の常識が通用しない地域ということである。

 世界にはこれよりも治安の悪い地域が数多くある。日本人が訪れるようなリゾート地も例外ではない。むしろ、そのような場所にはお金持ちが集まることから犯罪が起きやすい。私が今回の事件から得た、海外旅行における教訓を以下に記しておく。

・夜に出歩かない。
・単独行動をしない。
・ポケットにスマホや現金を入れない。
・脅されたら素直に金を渡す。物を盗まれたら諦める。
・にぎわっている地域も一本奥に入ると別世界である。
・航空券の番号は紙にも控えておく。
・SIMカードは現地のものにしておけば盗まれても被害を抑えられる。

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