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イメージの砂嵐 描くということ
私は人の顔を描く時、なるべくはっきり描くのを避ける。その理由は単純で、はっきりと見えたことがないからだ。顔というのは不思議なもので、全体をしげしげと見つめるほどに目や鼻の細部が霧の様に散っていく。だからといって一つ一つのつくりを吟味しようものなら、今度は全体が曖昧にとろけてきて「目と呼ばれるもの」「鼻と呼ばれるもの」といった名前の残骸だけがのっぺらぼうの上に漂い始める。
表情を「読む」と言うけれどまさにそうで、人の顔から伝わってくるメッセージはまともに向き合うと多すぎて、本当のかたちまでまず辿り着くことができない。可能性の砂嵐みたいなものが、顔の前に常に立ち塞がっている。私にはその状態でしか人の顔が見えないから、嘘を付きたくない。その砂嵐とセットで、人の顔を描きたいと思う欲求がある。
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昨夜寝る前に壺を描いていて、ふと「そういえば壺だって顔と同じことだな」と思った。
普段絵を描く時は、何かを見ながら描くことはまずなくて、頭の中にこれから描くもののイメージを強くつくって、それをなぞるようにして描いている。顔の場合はそのイメージが前述の通りいつまで経っても揺れているので、それをそのまま描いているのだけど、よく考えたら壺にしたって事は同じなのだ。実物の壺を観察して知ればいい、という話ではなく、私のイメージの中の壺は人の顔と同じように、永遠に完成され得ないということに気がついた。
私が描こうとしているのは、物自体つまりオブジェとしての壺ではなく、私のイメージの内の壺だ。ならば中に何が入っているのか知らなければならないし、もし中身を知らない壺のイメージを描きたいならば、「中身に何が入っているのか知らない壺」と「それについて私が感じている印象」を意識の上で統合して思い描かなければならないはずだ。それなのに、これまでの私は「壺は壺だからこういう形だよね」とさらっと無批判に描いてしまっていた。でもそれは私のイメージの中の壺ではなくて、誰もが知っている壺のぼんやりとした(だからこそ汎用性を獲得した)記号でしかない。
私の内なるイメージは、私自身が投影された風景であり、常に私の鏡像であり続ける。人の顔がいつまでも見えないのは、それを捉える私自身がいつまでも揺れているからに他ならないのではないか。ならば、壺にしろ他のものにしろ、全ては揺らぎの中にあるとした方がはるかに自然だ。
イメージの内の壺が、私にはどう見えるのか。どう感じるのか。それが定まることは決してないと思うし、定まってしまうのは永遠に嫌だ。そして、そういうわがままさが生きている状態を指すのだと思う。壺も顔も、そのまま描いたらいいだけだった。それだけのことだった。
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吹き荒ぶ可能性の嵐の中でかろうじて立っている何か
自己という言葉でまとめあげられたかに見える透明なモザイク