コンバートの失敗
2001年。開幕戦でマリーンズは黒木と西武の松坂との投げ合いを制し最高のスタートダッシュを切りました。
そんな中、若い選手が1999年に出てきました。
彼の名前は大村三郎選手です。
1994年にPL学園から千葉ロッテマリーンズにドラフト1位で指名されました。
当時オリックスにイチローがいたためか、登録名を「サブロー」にし、背番号も36になりました。
サブローは最初の3年間は二軍でみっちりと体を作り、1999年に一軍に定着するようになりました。その時に背番号も2を与えられました。
そして2001年、山本監督はサブローの出場機会を増やそうと考えていました。
外野には外国人、大塚、立川、諸積選手と飽和状態で、なんとサブローをマリーンズの看板選手にしようとセカンドを守らせるという守備のコンバートをしました。
当時セカンドを守っていた職人である酒井忠晴選手を差し置いてサブローをセカンドの守備に着かせました。
しかし、4月のスタートダッシュの影で慣れないセカンドの守備についたサブローはエラーや悪送球など失策を多くだしてしまいます。
守備の混乱は打撃にも大きく影響しました。
中途半端なスイングによる三振。凡打の山で打率は1割台になっていました。
サブローのセカンドコンバートをみた山本監督はスタメンから外し、結局酒井選手に戻しました。サブローのコンバートは失敗になりました。
今のマリーンズファンは「サブローがセカンドを守っていた時期があった」ということを知らないと思います。
結局サブローは足もあり肩も強いことからセンターやライトの守備に戻ることになりました。
サブローにとっては苦い経験でしたが、まだ25歳でしたので伸び代はあることから、二軍に落とすこともなく、貴重な外野守備の要として頭角を少しずつ表していくのでした。