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短編小説『イーラスパイア事件』

探偵事務所には冒頭謎めいた良い女が来る、と相場は決まっているはずなのだが、俺の探偵事務所にはオープン早々肥ったなりのむさ苦しい男がやってきた。
脂っこそうな匂いが漂って来そうな割に、案外フローラルな香りがしてきてる辺りに余計腹が立つ。

「この事件を解決して欲しい」
男は新聞やらファイルやらをテーブルに置いた。
新聞、懐かしい代物だ。思わず匂いを嗅ぐ。紙とインク、悪くない。親父を思い出す。
新聞の一面には「イーラスパイア事件、迷宮入りか?」と記されている。
21世紀初頭。社会が総出で浮き足立っていたあの時代。イーラスパイア事件は起こった。
懐かしい事件だ。物理的な被害者のいない事件。
多くの人々が【概念】を汚され、折られ、壊された。

しかしこの新聞は新しく見える。新しく匂う。日付を見ると20年前だ。
俺が新聞と男を交互に見ていると、
「そう、タイムスリップしてきた」
と男は言ってきた。
やっぱり安物のエナジードリンクばかり飲んできたツケが回ってきたんだ。いよいよおかしなモノまで見えてきてる。エナジードリンクの缶を握りつぶして目を瞑るが、目を開いてみても新聞と男はそこにあった。
「夢じゃないし、幻覚でもない。でもそのドリンクはオススメしない。僕らの時代では禁制品だ」
肥った体に似合わないことを言うヤツだ。
「僕らの時代?過去から来たんじゃないのか?」
このエナジードリンクがこの国で発売されてからそれほど経ってない。
「過去にタイムマシーンはないだろう?ここからで言えば未来、20年そこら未来からタイムマシーンに乗って、ここからで言えば20年前に飛んで、イーラスパイア事件についての資料を集めてきたんだ。君に依頼する為に。イーラスパイア事件が解決しなかった為に、将来この国はエラいことに」
「まさか、冗談だろ?それになんで俺なんだ?優秀な探偵ならこの時代にだって沢山いる。」
霧山とか、いやあれは警察官か。
多田?いやあれは便利屋だ。
城塚?霊媒師だ。と首を振る。
この国に探偵はいない気がしてきた。
「タイムスリップ後、1番近い所にあった探偵事務所だから」
未来人の割にタウンページみたいな業者探しだ。
「ちなみになんだが、タイムマシーンを使ってイーラスパイア事件の犯人を捕まえに行くことは出来ないのか?」
男は目をぐるりと回してエクスクラメーションマークと電球を頭上に点滅させた。顎の肉が揺れる。
「その手があった!流石だ!君は名探偵だ!」
空間がぐにゃりと歪んで男は消えた。
テーブルの上の資料もろとも。

「イーラスパイア…」
俺はふと呟いてみた。

男がたちまち消えてしまうと、突然全部夢だった気がしてきた。やっぱりエナジードリンクの「効能」か?
俺は缶の成分表を端から見ていった。さっぱりわからん。

電話が鳴る。
「なぁ、飲みに行かないか?」
「ああ、良いだろう、ところで、イーラスパイアって聞いたことあるか?」
「良いスパイウェア?」
「イーラスパイア。イーラスパイア…?」
「なんだそれ?」
「分からない。イーラスパイアじゃない気がしてきた」
「なんだそれ」
検索してみたところで1件もヒットしない。
イーラ…?
「まぁいい、大事なことじゃないんだきっと。あと1時間もしたら店に向かうよ。いつものパブで良いのか?」
「いや、今日は別のところにしよう。とりあえず事務所に行くよ」
「分かった」
電話を切る。

俺は何故だか、手についた匂いで親父の営んでいた印刷所を思い出していた。なんで刷りたての雑誌みたいな匂いが指先からするのかは思い出せない。

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