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極短編小説『月が高いですね』
誰もいない暗がりを、高く上がった月を見て帰る。
陰鬱な疲労感と少し肌寒い解放感。そんな夜でも、満月なら少しだけ気分が良い。
コンビニで顔色の悪い店員から低アルコール飲料を一本買い求め、高台の公園に行く。ここがこの街で一番月に近い、様な気がする。
「こんばんは」
ベンチに腰掛ける先客に声を掛ける。
「ああ、こんばんは、また」
満月の夜、帰るのが惜しくてここへ来るといつもその男がいた。
男は小さい日本酒の瓶を傍らに煙草を薫らせている。その先から立ち昇る紫煙が月へと向かう。私は祖父の葬儀、火葬場の煙突を思い出していた。あの煙は太陽に向かっていた。そう言えば月光浴も効果はあるんだろうか。
「今日も残業ですか?」
男が私に訊ねる。
「はい」
「お疲れ様です」
と男が頭を下げる。私も下げて、
「お疲れ様です」
と返す。
「生憎私は疲れていません。暫くまともに働いていませんから」
「羨ましい」
素直な気持ちが口を突いて出た。
「そうかもしれません。しかしね、働く気力が在った頃を思い出すのは正直難しいのですが、きっと、働く気力は在った方が良いですよ」
男の口から吹き出された煙は消えゆく気力の様にも見えてきた。
「その、あなたの働く気力は何処へ行ってしまったんですか?」
と私は訊ねる。男は満月を指差す。
「あそこです」
「なるほど」
分からない時でもなんとなく「なるほど」と返してしまう癖を先輩に辞めろと言われたばかりだが、相変わらず息を吐く様に言ってしまう。
「分からないと思うので無理しなくて良いですよ」
男が微かに笑う。私は「すみません」と頭を下げる。
開けるのを忘れていた低アルコール飲料のプルタブに指を掛ける。
かしゅっ。気まずさも一緒に飲み込む。
暫しの沈黙の後、男は口を開いた。
「私には好きな人がいたんです。ものすごくわがままな人でした。あれが欲しいと言うからあれを買い与えると、今度はこれが欲しいと言ってこれを買い与える。その繰り返しです。私は一生懸命働いて、欲しいものはなんでも買い与えました。それでも賄いきれず、いつの間にかその人は他の人にもねだる様になっていきました。私以外にも4人いた様です」
「それでも好きだったんですか?」
恋愛どころか人間関係にも希薄な自分には手に余る話で、率直に質問してみた。
「はい、好きでした」
「どうしてですか?」
男は私を透かして遠くを見つめ、途方に暮れた様な表情をして見せた。
「どうして、でしょう。そう訊かれると分かりません。分かりませんが、私はその人がたまらなく欲しかった。そう言わざるを得ません。私は他の4人に負けない様、仕事も増やして働きました。しかし最期にその人がねだった物は恐ろしいもので、到底与えられるものではありませんでした。お金じゃどうにもならないものです」
「それは?」
「一緒に死ねるか、と訊ねてきました」
「他の4人はどうしたんです?」
「1人だけ、その申し出を受けた人がありましたが結局死にきれなかった。そして、あの人、私の好きな人は姿を消しました。あの人が住んでいた部屋には”月へ帰ります”と書置きがあって、それきりです。私は満月の光が差すその部屋で、その書置きを見ました。私の気力は、その時一緒にいってしまったんです。翌日仕事を辞めました。幸い馬車馬の様に働いて、大きい買い物に備えていた分の貯金と、あの人が置いていった品々を売ったお金で、贅沢を言わなければまだ暫く生きていけます。お金が尽きたら、私は死ぬかもしれません。でもそれなら、あの時一緒にいけばよかったと、こうして未練たらしく満月を見上げながら、想ってしまうのです」
私は黙って聞いていて、話が終わってからも黙っていた。
当然「なるほど」とは言えない。「わかります」とも言えない。
「月が綺麗ですね」も場違いだと思い私は、
「月、高いですね」と独り言みたいに言った。
すると男はそっと立ち上がり、一等高く煙を吐いた。
紫煙が月に届かず立ち消える。
届かないから欲しいのか、と私は思った。