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短編小説『真夜中の死闘』
男は腕の良い殺し屋だった。40歳を迎えたその年、この仕事を始めて15年が経過していた。今までに目立ったミスは一度もない。また難易度の高い案件も時間を掛けつつ丁寧に完了させてきたこと、依頼される千差万別な暗殺方法を的確に遂行するそのスタイルから業界人からは”職人”とも称されていた。
職業柄妻や子供はいない。家族を持つと弱みが増える。そうは言いつつ、先日父が他界した為、一人になった母と一緒に暮らしている。男の母親は自分の息子が何を生業としているかは知らず、その晩も安らかな表情で床に就いていた。男も男で、いつ何時襲撃されてもカバーできる程度には神経を保ちつつ、床に就いてた。
男は異音で目が覚めた。渇いた音だ。耳を澄ますとその音は少しずつ移動している。男は目を瞑ったまま枕の下のナイフに指先を添わせる。安心感を抱かせるに十分な重みを感じながらナイフを構え、素早く身を起こして照明をつける。自分はこの部屋を熟知している為、目を瞑ったままでもなんとかなる。しかし暗闇に目が慣れた相手、もしくは暗視ゴーグルを装着した相手は照明で目が眩む算段だった。しかしその計算は外れ、目を開くとそこには誰も居なかった。窓もドアも閉まったままだ。なんの音だったんだ?と辺りを見回すと壁に黒い影が這っているのに気が付いた。
男は「ぎょえっ」とらしくない声をあげて愛するナイフを取り落とした。我ら人類の大いなる敵。ゴキブリだ。
男は幼い頃から虫が苦手だった。中でもカマキリ、バッタ、セミ、ゴキブリは苦手虫四天王の名を欲しいままに少年を弱虫にさせていた。正確にはカブトムシでさえ得意でなかった。この性質に関しては今も変わらない。過去15年殺しの仕事が上手くいっていたのも、ひとえに虫の邪魔が入らなかったことにあるとも言えた。もし絞殺用のロープを引いている最中にカマキリが飛びついてきたのなら、変装用のサングラスと顔の隙間にセミが飛び込んできたのなら、男は今頃廃業していたかもしれない。
男は部屋の隅に身体を縮こませ、ゴキブリの動向を見守った。正直見たくないが、見失うのはもっと嫌だった。サイドテーブルのデジタル時計が過ぎる時間を教えてくれる。明日の仕事は早い。医師会からの依頼で「これを食べれば医者いらず!」とコピーを打った健康食品メーカーの代表をランニング中の朝6時に事故に見せかけて暗殺しなければならないのだ。だからそろそろ寝なければならない。ゴキブリが徐々に移動し、本棚の後ろに入ろうとしている。あそこに入られたらおしまいだ。もう永遠に見失ってしまう。男は仕事を始めた最初の頃、やたら歩き回る対象者を必死で尾行したことを思い出した。あの時は見失う前に殺せた。今回だってやれるさ。伊達に15年殺しで食っていない。こっちは殺しのプロだ。何人殺したかももう数えられない。ゴキブリがなんだ。ずっと下等な虫野郎じゃないか。男はそう自分に言い聞かせ、サイドテーブルに置いてあったゴシップ雑誌を静かに掴み、慎重に固く固く丸めた。以前求人誌を丸めて襲撃者をボコボコに返り討ちにしたことだってある。相手は肋骨を3本折って、鼻の骨は曲がり、前歯を失った。上手くやればこれで人だって殺せる。男はそう信じていた。男はこの瞬間、人生で一度もまともに信用したことのなかったゴシップ雑誌を信じた。丸めた表面に男の好きなハリウッド女優が映っていた。女神よ、と男はその写真に口づけし、目を瞑り、一度も熱心に祈ったことのない神に祈りを捧げた。
「力を、そして勝利をこの手に」
男は素早かった。蝶の様にかろやかでもあった。決意に裏打ちされたスピードでゴキブリとの間合いを詰める。少年時代、弱虫だった自分に、こんなに強くなれるんだぞと見せる。そんな気持ちを込めてお手製のゴシップソードを振り上げた。重要なのは叩く力ではない。引くスピードだ。打つと引くをほぼ同時に行う。それで十分だ。スパンッと心地よい音が部屋に響く。
しかしゴキブリはもっと素早かった。ゴシップソードの切っ先が打つ壁から20センチ先にゴキブリはいた。瞬間移動したとしか思えなかった。身体中から汗が噴き出る。男が、一時撤退、と思った時には遅かった。ゴキブリはその羽を羽ばたかせ、男に向かって飛び立った。
「貴方、良い声。低くてとてもセクシー。よく言われるでしょ?」
1週間前、男が仕事の関係で立ち寄ったバーでマスターと話していると、近くでグラスを傾けていた女が声をかけてきた。紫色のカクテルドレスがぴったりと身に合っていて、均整の取れたボディラインが見て取れた。
「ああ、たまにそういったこともある。君もよく言われるんじゃないか?他人の話の腰を折るなって。重要な話をしているんだ。よそをあたってくれ。」
女はくすくすと笑い、
「本当にたまらない声。ベッドでもそうやってぞんざいに扱うの?連絡して」
と近くにあったナプキンに電話番号を書くと男の胸ポケットに勝手に差し入れた。正直男はまんざらでもなかった。
寝室の扉が勢いよく開く。男の少女の様な悲鳴を聞きつけた母親が飛び込んできたのだった。
「どこ!?」
母親は殴りつける様な声で男にゴキブリの所在を問うた。男は必死にゴキブリを指差す。ゴキブリは男より素早かったが、母親はもっと素早かった。左手に持った冷却スプレーをゴキブリに吹きかけ、動きが止まった瞬間、右手に持つ丸めた”月刊刺繍”でジャブの様に叩いた。ゴキブリが床に落ちる。
「死んだの?」と男は恐る恐る訊ねる。
「気を抜くんじゃない!気絶しているだけだよ!」と母は言った。
「ここで仕留めると仲間が来るんだ。表でとどめを刺すから、お前はもう寝なさい。明日早いんだろう?」
母親はそう言うと、月刊刺繍を開いてゴキブリを包み部屋から出て行った。男は腰が抜けてなかなか立てなかったが、なんとかベッドに戻り泥の様に眠った。
翌朝、男はミスをした。虫が何処からか飛んでくるイメージがちらついて健康食品メーカーの代表を仕留め損ねたのだ。しかしながら代表が病院送りになったこともあってか「医者いらず」の看板はいつの間にか消え去り、医師会としては不満もないらしかった。
男はその仕事を最後に殺し屋を引退した。案外穏便に退くことが出来た。
男の母親は亡き夫の遺産を使って害虫駆除の会社を立ち上げた。
男はナプキンの番号に連絡を取り、それから暫くして結婚し子供を授かった。私のところに届いた手紙には「息子が虫を持ち帰るのを辞めさせる方法はないだろうか?」と綴られていた。