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短編小説『屹立』

それは、中年の痩せた男が大木に背中を預け、立っている様な絵だった。何故"立っている"ではなく、立っている"様"なのかと言えば、その男が既に死んでいるからだ。
題名は『遺体』。
その男の胸にはナイフが深く突き刺さっており、そこから赤い筋が白いシャツの裾に向かって流れ、ズボンにまで伸びている。シャツの上に描かれた顔には絶望からの弛緩が見て取れた。静的だが、インパクトのある絵だ。嫌に生々しく、リアリティがある。まるで、本当にこの死体を見ながら描いた様だ。気になって題名の下にある名前を見る。私は知らない画家だった。
しかし国立の美術館に展示されているくらいだ。私の浅学に過ぎないだろう。私はその絵と画家に、興味が湧いていた。


「遅い」
また父の陽動に乗ってしまい、脇腹を強か打たれ、地面にうずくまる。土と草の香りも、幼い頃と違って疎ましいものになりつつあった。僕は立ち上がって、再び木剣を構える。今度こそ、と地面を蹴って距離を詰めに行く。しかし半身で躱され、足払いで再び地面に墜とされる。そして父の持つ木剣の先が僕の喉元を捉える。
「もっと考えて動くんだ。感情に任せるんじゃない。」
家に戻り、姉の淹れたコーヒーを啜りながらの反省会。コーヒーをあまり美味しいと思えないのは、僕が未だ子供なのか、それともこの時間が苦味を増長しているのか。動き回ったはずなのに、感情と共に冷え行く指先を温める為だけにマグを持ち、暇つぶし的にその中身を舐める。
僕は父から男として必要らしいものを叩き込まれていた。いや、正確にはあまり身になっていないから、”込まれて”はいないのかもしれない。ただ木剣や平手で叩かれる日々だ。以前、姉が見兼ねて間に入ったこともあった。それで父が手を止めるわけもなく、寧ろより一層強く地面に叩きつけられた。それ以来姉が止めに入ることはなくなった。

「明日は朝早く出る。今日は食事が済んだら休みなさい。」
そう言って父は自室へと向かう。明日は山に登ると言っていた。山登りは特訓の中でも比較的ましな部類だった。何せ、父を倒そうとしなくて済む。脚は疲れるし、息はきついけど、それでも自分がただただ疲弊する方が幾分ましだし、何より山は空気が良い。山頂までいけば景色も美しかった。
「痛そう、大丈夫?」
僕の少し切れた唇の端や腫れた瞼を見て、姉が訊ねてくる。僕は目を伏せ、
—これくらい、。
平気、という言葉が続かず沈黙してしまう。姉も言葉に迷い、考えあぐねている様子が、そちらを見なくとも空気に乗って伝わってくる。
「今日はやめておく?」
姉の静かな声が、恐る恐ると言った様子で届く。
—いや、やる。
と言って、僕は姉の方を向く。
少し前から、姉は僕に「一緒に絵を描こう」と誘う様になった。姉なりの支え方だったのだと思う。姉が理屈でどう言っても、姉は"女"で、僕は"男"で、父の教育を直接止めることなんて出来ない。だから逃げ道としての提案だったのだと思う。実際効果はあった。厳しい鍛錬があったとしても、その後に姉との絵の時間があると思うと、以前よりは苦ではなかった。

初めてスケッチブックと鉛筆を渡された時、何を描けば良いのか、何の為に描くのか、よく分からなかった。
「まずこれを描いてみて。」
と姉がリンゴを持ってきた。うまそうだとしか思わなかった。結果その日は、今思えば"記号的"なリンゴしか描けなかった。次の日、また同じ様にリンゴが置かれた。
「今日は全部を描かなくて良い。このリンゴの中で、描きたい部分を描いてみて。」
—描きたい部分?
「そう。へたの部分でも良いし、表面でも底の部分でも良い。割ったって良いよ。」
なんだかよく分からなかったが、そうやってリンゴの中に"描きたい部分"を見つけてみようと思うと、その艶やかな表面の質感が目についた。描いてみようとするが、上手く描けない。それを見て、姉がコツを教えてくれた。すると少しずつだけど、自分の絵がリンゴの表面のツヤに見えてきた。
—すごい!
と思わず声を上げてしまった。自室にいる父に聞こえなかったかが心配で肩を竦める。姉は人差し指を口に充てながらそっと微笑んだ。
その翌日も、そのまた翌日も、少しの時間だけど絵を描いた。いつもリンゴだったけど、毎日注意深く見ていると、リンゴが個々で随分色や形が異なっていることが分かってきた。今まで食べられるだけがリンゴの役割だと思っていたけど、こんなにも個々に違いや美しさを持っているんだ、と感心すると共に、自分が如何に周りをよく見ずに過ごしていたのかを教えられた。
今まで姉は、1人でこんな風に世界を眺めていたのだろうか。

「お前は剣に向かないのかもしれないな。」
父の声は普段以上に無機質に響いた。僕はうずくまった状態から、急いで身を起こす。無理やり呼吸を整え、再びを木剣を構える。
「もう良い、無理をするな。」
父の言葉と裏腹にその表情の奥にあるもの、それを想って寒さと震えが押し寄せてくる。
以前よりはよく見て、考えて立ち回っている。しかし父には数手先すら見え透いている様で、難なくあしらわれる。僕は成長しているはずだけど、それでも足りない。まだまだやらなくちゃいけない。父の言う戦術的な理論は頭では分かる。しかしそれに身体がついてこない。いつもシミュレーションと身体にズレがあって、それがなかなか馴染まない内に次のことを教えられる。次の技が僕の四肢を捉える。絵なんか描いている場合じゃないのかもしれない。心の焦りを腕や脚に連動させてはならない。静かに、そしてなるべく素早く動く。父の動きをよく見る。考える。先を読む。駄目だった。土の味か、血の味か、分からない。1人、家に戻っていく父の後ろ姿が見える。「待って」と声をあげようとするが、地面に投げつけられたせいで、まともに空気が入ってこない。空が滲んで、ぼやけて、暗くなった。

父の表情、父の声、父の言葉。それを反芻したせいか、その夜は酷い夢を見た。
「もうお前は男じゃなくて良いな。」
今までに見た事がない程、残忍な父の表情と湿った声に、僕は齢も忘れて泣きじゃくる。恐怖と羞恥と深く鋭い痛み。
目が覚めても、僕はまだ泣いていた。

父はそれから特訓を持ち掛けて来ることがなくなった。それどころか、まともに目を見てくれることもなくなった。以前にも増して自室に籠る、姿の見えない父という存在は、より僕の焦燥を駆り立てた。1人でもやらなければ、と鍛錬を続ける。父の部屋の窓から見える様に。いつかカーテンが開いて、父の目に留まるはずだと。
しかし、暫く経って気付く。1人でやっていても自分が成長しているのかどうかが分からない。僕は強くなっているのか。速くなっているのか、賢くなっているのか。僕は何のために鍛錬しているんだろう。そもそもこの鍛錬の先に何があるのか、僕はよく知らない。ただ数年前から父に命じられ、これが日課であったから。分からない。なんなんだ、これは。

父の部屋のドアを見つめる。父という”謎”が僕を不安にさせる。それだけはなんとなく分かってきた。

僕はあっさりと鍛錬を断ち切って、姉と絵を描いて過ごした。姉は今まで以上に深く絵について教えてくれた。りんご以外の果物、姉が摘んできた花。鉛筆から絵具へ。風景。美しい山。そして姉を描く。
姉はあまり言葉数は多くはない。しかし、姉の見せてくれた通りに真似すると、絵は上達していった。今まで不安そうに僕を見つめていた姉の眼差しは、嬉しそうに細められることが多くなった。お陰で絵の中に込めた姉も微笑んでいる。

「何をしているんだ。」
久しぶりに聴いたその声にぎょっとして肩が上がってしまう。
振り向くとドアが開き、父が立っていた。洞穴の様な目が僕と姉の間にあるキャンバスを見つめている。僕は咄嗟にキャンバスを庇おうと立ち上がったが、父の方が速く、僕を部屋の隅まで掴み飛ばす。姉は動けずにいて、またあの不安の目で父を見ている。
「こんなことをしているから女々しくなるんだ。」
父はキャンバスを床に叩きつけ、踏みにじる。生地が引きつって、絵の中の姉が歪む。
「しっかりしないか、お前もどう考えているんだ。」
と姉に言葉と視線が向く。
「このままでいられると思うか。このままでやっていけると本当に思うのか。お前は”女”で、こいつは”男”なんだ。こんな男を欲する女はいない。戦えない、女もいない、そんな男でどうする。そんな男で、」
父の声が揺れて、途切れた。その震えが何処から来ているのか分からなかった。その謎が、更に父を分からなくさせていく。不安は僕の身体を縛り付けて離さなかった。

父が部屋に戻り、姉は散った画材を片付け始め、僕はそれをただじっと見ていた。僕も姉も泣いてはいなかった。僕は不安と、それに縛り付けられた自分への苛立ちを感じて唇を噛んでいた。鉄の味が滲む。歪んでしまった姉の絵。考えれば考える程、父への暴力的な衝動が湧いてくる。今なら父を八つ裂きに出来る気さえした。その衝動からか、気付くと僕の手にはナイフが握られている。これさえあれば。そしてこれがなかったから、今まで父に勝てなかったのだ。その確かな衝動を自分の中に感じながら、静かに父の部屋へと足が向く。しかし姉が父のドアと僕の間に立つ。姉は僕の手からナイフを無理やり取り上げると、絵筆を持たせて力強く握り込む。そして一呼吸してから口を開いた。
「父さんを描きなさい。死んだ父さんの絵を。そして、ここから出て行きなさい。」
目の前にいる姉が、本当に姉なのかと思えるほど、その瞳と声色は強く、普段の浮世離れした印象とは違う、確固たる存在感を放って、僕の世界を一変させた。


「これは画家本人の父を描いたものなんです。」
と案内係の女性が眼鏡の位置を直しながら言う。
「遺体を見て描いたんですか?」
「いえいえ、彼の父が亡くなるずっと前の作品なんです。なんせ処女作ですから。」
「なんて…」
不謹慎な、という言葉が適正か分からず言葉を飲み込む。そこで案内係が不思議な笑みを浮かべる。それこそ”不謹慎な”微笑みだ。そしてその唇を綻ばせる。
「実は、この作品が描かれた10年後。実際に彼の父が亡くなるわけですが、その死に様がこの絵の通りだったんですよ。」
ぎょっとして絵を見直す。彼女は解説を続ける。
「遺体の胸にはナイフが刺さり、木に背を預けた状態で、立ったまま息絶えていた。発見者はびっくりしたでしょうね。」
自分が森の中で、木に寄りかかった男を見つけ、それが死んでいる状況を夢想する。その落ちくぼんだ目や、だらしなく開いた口や、体温を感じさせない血の抜けた皮膚を。そしてふと思いついたことが口を突いて出る。
「ということはもしかして画家自身が…?」
案内係は表情を崩さない。慣れた質問なのだろう。
「いえ、彼にはれっきとしたアリバイがありまして、現場は田舎の森の奥。画家はとっくに家を出て、その時は遠い都で絵を描いておりましたから。」
「じゃあ、たまたま…?」
「そんな予言めいた絵ですから、当然話題になったわけです。そういう曰く付きの品はみるみる値段が吊り上がりますからね。彼も当然、一躍時の人に。」
そんなことがあるのか。推理小説好きの心が顔を覗かせる。そんな私の微表情を見抜いたらしい案内係は私の耳に口を寄せる。
「ここから先はあくまで噂話ですので大きな声では言えませんが、お聴きになりたいですか?」
と囁いて、意地の悪い眼差しで私を見つめる。聴く以外に選択肢が見当たらず大人しく頷く。
「画家には姉がいたらしく、彼の他の作品は殆ど、その姉が題材となっているんです。」
そう言って彼女は、近くにあったカウンターから画集を取り出して開く。確かに同じ女性がモデルの絵がとても多い。というより殆どその人の絵だ。微笑みを浮かべた女性が色んな風景の中、様々な服を着て、そこに座り、そこに佇んでいた。クローズアップしたもの、ロングショットのもの、角度も色々とある。その中で、今目の前にある処女作『遺体』がかなり異質なものなのは分かる。
「その姉が彼に絵を教えた、という説があって、もしかしたら彼に父の死んだ姿を描かせたのは彼女で、10年後、その絵の通りに彼女が父を刺し殺した。計画的に描かれた絵と、その実践、というわけです。」
彼女が今見せるフリー素材じみた笑顔すらも肌寒く感じられてきた。声を絞り出して訊ねる。
「何のために?」
彼女はスタイルを崩して、少しばかり無邪気に笑う。
「勿論、彼が有名になる為ですよ。確かに疑惑の目には晒されましたが、現にこの予言的な絵は、こうして国立美術館に展示が決まりました。大変な名誉です。」
絵が描かれる、10年後の死、疑い、裁判、絵画の価値の高騰、伝説化。
そのプロセスを思い描いて、目の前の絵を改めて見る。その塗りこめられた物語にゾッとすると共に、得も言われぬ恍惚がじんわりと身体の芯を温める。
「ところで、その姉はどうなったんですか?姉も当然疑われたわけでしょう?」
そう訊ねた時、彼女の瞳が眼鏡の奥で、最も凶悪に揺らめいたことを私は見逃さなかった。
「その姉なんですが、現場にも、画家の生家にもいなかったそうです。それどころか、そもそもその家庭、つまり画家とその父が住んでいた家に、女性が住んでいたところを見た人が誰1人いなかったとも言われています。」
と彼女は開かれた画集に視線を戻す。私も釣られて目を向ける。
そこには同じ女性の顔がいくつも並んでいる。その微笑みに潜む”謎”が私の不安を駆り立てる。私には、その屹立した不安を、ただ愛でるより他に術がなかった。

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