短編小説『探偵は膨らんで推理する~湯けむり編~』
プロローグ
「この人、探偵だけど。」
全員の視線が僕に刺さる。
言った当人はしれーっとした様子で雑誌のクロスワードパズルに視線を落としている。彼女の声は無表情だ。否、声も、かも。
しかし僕は知っている。彼女がそのポーカーフェイスの下で三日月の様に微笑みを湛えて居ることを。
1
明日からここに泊ります。」
僕が閑古鳥すら実家に帰った様に静かで長閑な我が探偵事務所にて、昼下がりのひと時及び微睡みを満喫していたところ、彼女は突然、机の上で本を開いて見せた。
おススメ宿泊先一覧。どうやら旅行雑誌らしい。隅っこの方の一カ所に赤ペンで丸がしてある。
「まん・・・ふく・・・りょかん・・・?」
「萬福旅館《まんぷくりょかん》よ。あなたにぴったりの名前でしょ。」
中華料理屋みたいなその旅館の名前と彼女の目に灯った煌めきで腹が鳴る。身体は正直だ。
「だけど、そんなお金どこにあるの?」
残念ながら今ヤンキーにジャンプしろと言われても音が鳴るかも怪しい。
「その点なら心配ないわ。ご都合主義万歳ですもの、さっき商店街のくじ引きで旅行券なら入手済よ。この雑誌に載っているところなら何処でも泊まれる。」
「ならもっとこっちにおっきく載ってる高いホテルでも良いのでは…?」
折角何処でも泊まれる夢の様なチケットなら一番いい所に泊って当然ではないか。
「あなた私と結婚でもする気…?」
訝しんだ目で彼女が一歩下がる。確かに僕が指差した先にチャペルもあります!って元気に書いてあるけども。
「よく見なさい。」
彼女が僕の手を払いのけ、先ほどの旅館の欄を指差した。
『心も、お腹も、満足してお帰りいただくことをモットーに』と書かれている。
どうやら彼女の話によると、ここの旅館は大食いの間でも有名で有数のたらふく食える旅館らしい。しかも元老舗レストランで修行を積んだ料理人が担当で味も確か。
腹が鳴る。喉も鳴る。
「決まりね。」
返事と受け取られたらしい。否定はしなかった。
というわけで翌日、僕と彼女は萬福旅館を訪れた。
随分と遠い所まで来てしまったね、という山奥。
流石は雨女との旅行、道中急な大雨に見舞われた。バスは数時間に一本。
お陰様でタクシーに乗る羽目になった。しれっと僕に払わせて。カードが使えて助かった。
旅館は名前の割にこぢんまりとしていて質素、まるで小説家がお忍びで執筆活動に利用しそうな佇まい。またの名を趣、とでも呼んでおきましょうか、と知った様な軽口を脳内で叩いていると物理的に重い一撃で後頭部を叩かれた。彼女が昨日の旅行雑誌を丸めて握っている。旅行雑誌って便利なんだな、読む以外武器にもなるなんて、うちも一冊買っておこうか母さん。また叩かれた。彼女は僕の脳内ジョークを見透かしたようなところがある。やれやれ。
彼女に旅行雑誌を突き付けられた形で暖簾を潜る。
静か。
「おいでませもいないわ。」
「仲居さんのことを”おいでませ”と呼ぶな。」
「すみませーん!お客様ですよー!」
彼女が声のトーンを変えずに音量だけ増大して旅館に呼びかける。無機質で大きい声が響き渡る。声が立ち消えて静けさが戻ってくる頃、とっとっと、と足音が廊下の奥から響いてきた。
「は、はいただいま!!!」
裏返り気味の声と共に髪を振り乱して大層取り乱した様子の着物の女性が現れた。歳の頃、40歳くらいだろうか。ふっくらとしていて健康的で美しい。既婚だが仕事の時は指輪を外すのか、左手薬指の跡は割とくっきり残っている。その締め付けられた跡から察するに結婚してからふくよかになったタイプか。とすると彼女が女将で、噂の料理人がご主人か。というのは飛躍し過ぎた推理かもしれない。
「あのー、昨日ご連絡した、」
「その件なのですが、誠に申し訳ございません。実はちょっとしたトラブルがありまして、近くの別の宿泊施設をこちらで手配いたしますので、少々お待ちください。」
トラベルにトラブルはつきものというどうしようもないギャグを思いついた時点でまた叩かれた。この子の方が探偵に向いているかもしれない。
女将らしき人物は宿泊者名簿を開いたり閉じたり、電話機を取ったり戻したりしている。あたふたの擬人化という感じ。手が震えている。
「もしかして、何かありました?」
僕の隣の彼女がテンションそのままに尋ねる。怪訝でもなく、笑うでもなく、ただただ持った疑問を自然的に発露する。
「いや、それが、っ…」
落ち着きを見せて然るべき妙齢の女性はもじもじしているとなるとなんだかグッとくるものがあるが、そこは抑えて少し思考する。すぐに言えないこととなると、旅館としては隠したいことなのだろう。つまり流布しては困る類の事件が起きたのだ。例えば、
「死体でも出ましたか?」
暫定的女将が目を大きく開いて口元を押える。何か自分がまずいことを口走ったかと思っているのだろう。おろおろと目が宙を舞う。少々涙目、可哀そうになってきた。
「ずぼしですね。案内してください。」
彼女がとんとん拍子に話を進めようとするので、
「いやいやいや。なぜそうなる。今日はバカンスじゃないのか?」
僕がそう言うと彼女は大層呆れた表情を浮かべ、
「昨日までずーっとバカンスだった気がするんですけど?」
と言った。閑古鳥が仕留められた音がした。
「し、失礼ですが、あなた方は、どういった…?」
女将(女将じゃないと重ね合わせの状態)は恐る恐るこちらを窺ってくる。
今日の所は探偵と名乗りたくないなぁと僕がだらだらしている内に、
「奥ですよね。」
と言って彼女は廊下の奥へとずんずん歩いて行ってしまった。熟女女将風が「お待ちください!」とその後を追う。僕もその後を追う。
廊下を進むと突き当りの引き戸に『露天風呂-安静-はこちら』と書かれている。
引き戸から一度表に出て、石畳の上を進んでいくと男湯、女湯の暖簾が見える。
男湯入口で人が集まっていた。周囲の人の制止をすり抜けて彼女が男湯の暖簾を潜っていく。ここまで来たらもう従うしかない。
洗い場の近くに男は仰向けで倒れていた。
先に検分を始めていた彼女は脈を確認して首を横に振る。
30歳くらい。頭を打ち付けたらしく、頭を持ち上げてみると後頭部から出血が見られるが、あらかた流れてしまっていた。顎にかすかな切り傷。その他の部分から争った形跡は認められない。僕は注意深く周辺を観察する。男の周辺には手ぬぐい、桶、リンスインシャンプー、石鹸、髭剃りが散乱している。頭を打ち付けたものはなんだろうと見ていると
「この人、足おっきいね。」
と彼女はそのツヤのある足を持ち上げて言った。
「うげ、無闇に触らないでくれ。でも確かに大きい。」
露天風呂は思いの外広かった。と言っても僕の露天風呂に対する思いを大抵の人は知らないと思うけど。周囲も見渡す。辺りを埋める岩々はしっとりと濡れている。
旅館側の入り口とは反対の塀にも小さな戸が設けられていて、どうやら入口は一つではないらしい。
「おい、なんなんだ、あんたたちは…?」
板前風の格好をした男がいつの間にか後ろに立っていて、近づいてきて僕達をねめつける。まぁ当然の反応ですよね。彼が噂の料理担当だろうか。
「この人は、」
と彼女が僕を指差したタイミングでサイレンが聞こえてきた。
女将が警察官2名とあからさまなトレンチコートを連れて戻ってくる。
「通してください。」
先ほどの僕たちとそう変わらなそうな検分をしてから、警察官たちが現場保存用のテープを貼り出した。
「後はこちらに任せてください。それと、関係者はこの旅館から出ていかないように。」
2
僕たち関係者は、というか僕たちは自ら志願して関係者になった杞憂なくちだが、というかもっと言えば僕は志願もしていないのだが、関係者一同は女将に連れられ宴会場に集められた。
僕と彼女、向かって左から女将、板前、仲居、番頭、宿泊客は小林夫妻、女子大学生の櫻井さん、職業不明の原田さん。以上のラインナップである。とりあえず本編に関係あるのか、読者がこの部分に興味があるのかは分からないが、トレンチコートが「ヨシッ」と言うまで僕たちも暇なので、僕個人から見た関係者のディティールでも説明してみちゃおっかな。
まず女将、さっきも言ったけど40歳くらい。身長は160センチあるかないか。
後れ毛一つなく結われた髪のつやもよく、肌も白いながら血色が良い。唇が上下でモテる割合の厚さをしており、唇の下、顎の所にあざとすぎるほくろがある。大きなたれ目。セクシー女将の具現化みたいな容貌である。隣にいる板前との距離感を見る限り、先ほど指輪の跡から推察した関係性は合っている様に思える。しかし結婚後幸せ太りする様な料理か、早く食べたいなーと思ったが、これそもそも食べられる世界線なのだろうか。
続いて板前、ますます読者が興味あるのかなという人物だが、あくまでミステリーの様相を呈してみる為にそれらしい人物像で描いてみる。重要そうだし。
女将と歳の頃は近いと見えるが少し若いかもしれない。身長は180センチくらい。
それなりに肩幅も広く、引き締まった印象。顔も表情は堅く、精悍な顔つき。職人らしい。いや、もしかしたら普段はもっと柔和な顔つきかもしれない。なんせ自分の勤める旅館で死人が出たらこんな顔つきにもなるかもしれない。手を見てみる。造形の綺麗さもさることながら、清潔さを保っている指先。この手からどんな繊細な料理が繰り出されるのだろう。
続いて、と思いながら隣をちら見してみると我が探偵事務所の女性スタッフは随分退屈したと見えて旅行雑誌についているトラベルクロスワードなるコーナーに取り掛かり始めていた。正直僕も説明するの飽きてきた気がしなくもない。でもあと6人もいるしな。ここから急に手を抜いたらいざって時に女将か板前が犯人となりかねない。いや、寧ろそれこそミスリードに繋がるのでは?と思っているとトレンチコートが宴会場に入ってきた。
「お待たせしました。それでは一人ずつお話を伺いますので、何処か部屋をお借りしても?」
女将が頷いて、トレンチコートを連れて出ていく。
そういえば事情聴取なんて面倒なイベントありましたね。まぁ僕が話せることなんてほぼないんだけど。
というわけで僕のプロフィール、ここに関わった経緯を話してみた時の刑事の胡散臭そうな表情は各々のご想像からそう遠くないと思うので割愛させていただく。僕はショートカットが大好きだし、髪型も含めて。
全員の事情聴取が済み、再び宴会場に集まる面々。
番頭だけ長いと思ったら第一発見者だったらしい。
「今回の件は大方事故という見込みで進めますが、念の為今日の所はこの旅館でいてください」という様な事をトレンチが言い、旅館スタッフたちが深々と頭を下げた。
「次は向こうを調べるぞ」と露天風呂の方にトレンチたちが去ったあと、最初に口を開いたのは大学生の櫻井さんだった。
「あの、」
「なんでしょう?」と女将。
「私、今夜には家に帰らなければいけなかったのですが、どうしてもだめなんでしょうか…?明日講義もあるし。じ、事故死なんですよね…?それなら、」
「本当に事故死なんですかね。」と原田さん。
女将がぎょっとした顔で原田を見る。そりゃあ事故が起きた旅館、自殺があった旅館、殺人が起きた旅館、マシなのは当然最初のやつだろう。
「私、少し考えてみたんですよね。今回の事件。」
おや、原田氏の目つきが変わった。そして確かに「事件」って発音した。
「私はこの中に犯人がいると考えています。」
3
「犯人はこの中にいます」
原田さんももう一度、噛み締める様にもう一度言った。
旅館関係者始め、小林夫妻がどよめく。どよめいていないのは僕、彼女、板前、櫻井さん。
「御冗談はよしてくださいよ。」と裏返り気味に小叫ぶ仲居。
「そ、そうです。心臓に悪いな。」と苦笑う番頭。
女将はおろおろと状況を見つめ、板前は原田を睨んでいる。
「お聴きしたいのですが、あの被害者の方は宿泊者ですか?」
原田さんが立ち上がってスタッフ陣に尋ねる。
「そ、それが、宿泊者ではなくて…」
「ではどなたか分からないと?」
「そうですね、存じません。」
「なるほど。実は先ほど、勝手ながら脱衣所を調べさせていただきました。しかし彼の衣服や持ち物の一切がなかった。正体不明の死体というわけです。」
スタッフ陣は唖然とした顔、小林夫妻は完全に怯え切っている。この夫婦はたまの休みに来た旅行なのだしたら気の毒でならない。
「どうして殺人だと?」
板前が尋ねる。
「あの刑事は事故と言っていましたが、血の付いたものがそばになかった。つまり凶器があり、それが持ち去られたということです。それに顎の切り傷も気になりました。きっとその凶器を一度避けた際に出来たものでしょう。」
原田さんどんどん姿勢が良くなって、発声も深く、顔つきも逞しくなってきた。やっぱり思考や精神って肉体をみるみる変えるものだなーと感慨深くなってくる。
「今から皆さんの荷物と部屋を調べさせてください。凶器と彼の持ち物が何処かにあるはずです。勿論チェックは任意ですが、断る方は、ね?」
原田さんが痙攣したように両目を瞑る。ウインクかもしれない。
そんなこと言われて断る人もおらず(ここに某ノベルゲーでお馴染みの関西系社長でもいれば大いに揉めて面白かったかもしれない)、皆素直に部屋と荷物チェックに応じた。一部女子大生の下着類の袋にまで手を伸ばした原田さんを仲居さんが威圧するシーンなどもあったが、そこはかとなく平和に済んだ。
その後、トイレ含め、その他の共有エリア全体も原田さんはくまなく調査した。
それはそれは丁寧な仕事ぶりだった。少しねちっこいくらい。
しかし努力もむなしく何も出てこなかった。
「共有エリアから何も出てこないということは、つまり、」
原田さんは深く深く深呼吸して、続きを話した。
「犯人は旅館の関係者ってことになります。」
女将は目を瞑って震えている。
その姿を見て板前の眼光はさらに鋭く原田を射抜く。しかし原田もここまで来たら引くに引けない。
「本気ですか?お客さん、私どもの誰かが犯人だと?」
と板前が今にも包丁でも取り出しそうな顔つきで言う。
原田さんは分かりやすくビビるが、必死に食い下がる。
「も、もし違うなら証拠を見せてください!犯人でないって証拠を。私だって今日はこのままここにいなきゃならないんですから、殺人犯の運営する旅館なんてごめんです!」
さっきまで少しは探偵役の風格があったのに、これでは急に死亡フラグの立った小物だ。「こんなところにいられるか!俺は部屋に戻るぜ!」とか言い出しかねない。
「お客さん、もう一遍言ってください。」
板前がドスの利いた声ですごむ。なかなか堂に入った佇まいだ。
やはり板前、上下関係が厳しく、歴史のある世界ともなると多少の修羅場は経験済みなのかもしれない。
「あのさ、」
と音量大きめの無機質な声が響く。当探偵事務所の紅一点(紅も黒も一人しかいないけど)。
「この人、探偵だけど。」
と僕を一瞥して、雑誌に視線を戻す。
全員の視線が僕に集まる。一応「どうも」と頭を下げておく。
「た、探偵?」と原田氏が顔を赤くして僕を見つめる。息まいてた彼をまっすぐ見られない。
「た、探偵…!」「あの!?」と見合う番頭と仲居。どの?
「探偵って本当にいるんだ…。」と呟く櫻井さん。いるんだよ。要るかはさておき。
小林夫妻はもう助かったみたいな顔をして手を握り合っている。
どうやらこの世界(旅館内)では探偵と言う職業は救世主と同意語らしい。
未だ険しい表情の女将と板前。この人たちがまだこの状態なのはまずい。
いただけない。
「あの、一つ確認したいことがあります。」と僕は女将と板前の方を向く。
「なんでしょう…?」と女将は更に何を言われるのかと恐る恐る訊いていた。
「今晩のメニューのお品書きを教えてください。」
4
1時間後、同じ宴会場にて。
僕は料理に囲まれていた。
小林夫婦も。
櫻井さんは「食欲がない」
原田さんは「殺人鬼かもしれない人の料理は食べられない」とのことです。
探偵と名乗ってしばしのチヤホヤの後、彼女が僕の「性質」について話した。
「鋭敏過ぎる推理力を安定させる為、また情報を整理させる為に、胃を満腹にする必要がある。」
女将は戸惑い、板前も睨む相手が1人から3人に増えた。
ここらで僕自身、ご飯にありつく為のキラーフレーズ、および美味しい料理を作ってもらう為の布石を投じる。ご飯が無事いただけるなら働くも易し。
「もし満腹にしていただけるなら、僕があなた方の無実を証明致します。」
というわけで、僕は無事料理にありつくことが出来ている。
「老舗レストラン」で修行した「旅館の板前」が作る「大食い御用達料理」とは。
そのちぐはぐな要素を実に上手くマリアージュさせた料理が所狭しと並べられていて、それを片っ端から平らげていく。
焦がし気味のベーコンを取り入れたきんぴらごぼう。ベーコンの旨味が全体に染み渡り、噛むたびに旨味が押し寄せる。
宴会用と呼べる量の刺身は一人前。わさび醤油だけでなく、ごま油と塩辛い柚子胡椒、オリーブオイルと岩塩など、複数の調味料が楽しめる。
お通し、前菜と呼べるものを片付けていると、続いてスープがやってきた。ミネストローネやポトフの要素を感じる豚汁だ。柔らかい脂の甘味に程よい酸味、ごろごろと入った食材は目も歯ごたえも楽しくしてくれる。添えられたバケットには豆腐とクリームチーズがマッシュされた特性クリームが隅まで塗られている。美味い…。
「やっぱりパンと液体来ると良いね、ちょっとずつ。ちょっとずつだけど膨らんできてる。」
隣で僕の食事風景を見つめていた彼女が、爛々とした瞳にフェードしつつ僕のお腹を触り始める。その指先の動きはなまめかしく少しくすぐったい。指先に意識を集中すると自分が徐々に膨らんできていることを実感できる。
次は大きなだし巻き卵に取り掛かる。一見大きいだけで形は普通のだし巻き卵なのだが、割るとしっかりチーズが入っていた。舌の上で溶ける。懐かしさと現在が繋がる様な旨味の調和が、あっという間に消えてしまう。「今を大切にしなさい」という祖母の言葉が蘇ってきた。様な気がしたが僕の祖母はそんなこと言ったことない。イデア的祖母の金言。
舌平目のムニエルは塩麴が使われていた。これは大きくすることが出来なくて当然なのだが「おかわりもあります」と女将に言われた。この後めちゃくちゃおかわりした。
この次に和牛ステーキ五百グラムが出てくるのだから、大抵の場合この段階では満腹で「もっと早くステーキ出してよ」との嘆きが聞こえてきそうなものだが、隣の小林夫妻を見てみると意外なことに健闘していた。小林妻が応援する中、小林夫が玉の汗を浮かべながら平らげていく。え、まさかのライバルキャラだったの?確かに良い膨らみ具合をしている。小林妻が夫の膨らんだ腹を撫でる姿を見て、ちょっと良いなとか思ってしまったのを悟られたのか、僕は彼女に睨まれた。ぐぶっ!!?腹を殴られた!?今は勘弁してください。
気を取り直して、ステーキを特製の醤油だれで食べる。特性醤油だれは和風と見せかけてコリアンダーとはちみつが隠されていた。あと赤ではなく白ワイン。それが程よく優しく甘い。グレービーソースの様にも感じるが、別物だ。こういう食べやすさで誤魔化されがちだが、油分は蓄積され、血糖値もしっかりと上昇していっている。甘くて飲みやすいがしっかりとアルコール度数をキープしているレディーキラーなカクテルの様だ。そろそろだいぶぼんやりしてきた。
「膨らんできた、膨らんできた。」
彼女がこの時だけ見せる表情がある。普段色をなくして死んだようなアーモンド形の瞳は、今はしっかりと開いて僕のお腹を食い入るように見つめ、キラキラと光を反射させている。僕がそんなことを指摘したら、彼女は恥ずかしがるか、またはぶちぎれてその顔を辞めてしまうかもしれない。だから僕は、いつも無視して黙々と食事に勤しむ。まるで「邪魔しないで」と言わんばかりに。そのくらいの方が彼女の「無防備」が見られるのだ。
僕は彼女と出会った時のことを想起していた。ある事件だった。
僕は既に探偵で「性質」にかこつけて、お腹を膨らませていた。
いやいや、今回はその話じゃない。その話はまた今度。
やばいやばい、血糖値急上昇で落ちるところだった。食べねば。
「カツ丼か親子丼からお選びいただけます」
ここまで来て、ラストが丼ものというのもなかなかイカレ、コホン、失礼。
「…むっ…親子丼でお願いします…。」
カツは揚げ物だから、という考えは安易だったかもしれない。
親子丼はチーズとクリームを使ったカルボナーラ風。ここに来てなかなかやってくれるじゃないか、板前氏。いや、もしかしたら「無実」証明の為に一肌脱いだ結果かもしれない。だとしたら責任は僕にある。しかし隣の彼女を見る限り、まだ満足まで今一歩。僕はレンゲを手に、親子丼へと向かった。
クリームとチーズが織り込まれた半熟卵は、濃度はあるにせよ滑り込んで来やすく、お陰で飲み込みやすい。これは正しい選択だったかもしれない。小林夫はカツに苦戦している模様。しかし奥さんの甲斐甲斐しい応援が少し羨ましくもある。
「ちょっと、余所見し過ぎじゃない?」と彼女に顎を掴まれてぐにっとなる。
「しゅびばせんっ」
いつの間にか彼女が外してくれたベルトとボタンのお陰で、お腹は無限領域に突入しつつある。長年の鍛錬のお陰で随分と膨らむようになった僕の皮膚。パンパンの風船まであと一歩の腹を突いたり、撫でたりする彼女。たまにぐりぐりも。ぐっぷ。あんまり遊び遊ばせなさると出てしまいます姫君。と思って彼女を見つめる。本当に楽しそうに僕のお腹を抱いている。まるでこのお腹が自分のテリトリーであるように。普段事務所で僕にする塩対応とは別次元の何か。そんな彼女を見る為に、僕はこうして「探偵」でいるのかもしれない。満腹になると推理がまとまる性質の「探偵」に。
小林夫は丼ものを平らげた時点で気絶したらしく、奥さんが膝枕で介抱していた。
僕はデザートに向かう。ラストスパート。これで僕のお腹は「完成」する。
ラストは特性黒ゴマプリン。人気商品らしい。お持ち帰りも出来るとか。
しかし全体通してこってりとクリーミーなものが多く、なかなか泣かせに来るラインナップだったが、それでもラストまで美味いと感じさせるというのは、あの板前の腕が確かである証拠だ。プリン最後のひと口がつるりと喉を通って落ちていく。
ぷはーっ、と息が漏れるが、調節しないと世界(卓上)を再度いろどる危険性があった。
「…かわいいな…」
と彼女が腹を撫でる。当然僕のことではない。
僕の丸々と膨らんだお腹に対しての褒め言葉だ。今日は大層気に入ったらしく、キスまでしてくれた。まいったね、ぐっぷ。
5
さて、本編(食事シーン)も終わって蛇足となる推理シーンである。
僕としては「本職」の仕事ならぬ「本食」を終えたので、あまり気は進んでいないのだが、美味しい料理でもてなしてくれた萬福旅館の方々に報いる為にも、一仕事しなければいけないだろう。
一同、片付けの終わった宴会場に集まってもらった。
「それでは、今回の事件に関して、私なりの推理を話そうと思います。」
と原田さんが皆の中心に立つ。あれれ?
「それは探偵さんがしてくれるんじゃないの?」と櫻井さん。
「ふふ、その前に聴いてほしいのです。なにせ、彼は旅館職員たちの無実を証明すると宣った。私は逆に、犯人は職員の中にいると踏んでいます。そう、女将!あなたが犯人です!」とズバッと女将を指差した。
「お前、まだ言うか!!!」と板前が原田さんに向かって殴りかかりそうになるところを番頭さんが羽交い絞めにして止める。
「話を聴きましょう。」
よく響いたが、感情的ではない。そんな凛とした声を発したのは女将さん本人だった。板前も居住まいを正す。原田さんは鼻で笑い、板前を一瞥してから口を開いた。
「私の推理はこうです。被害者の持ち物は何処にもなかった。ということは職員たちが共有スペース以外に隠していると。ここまでは先ほどお話しましたね。そしてこの膨れた探偵が”探偵”と分かった時に、険しい顔を崩さなかったのは女将と板前の二人です。そりゃー困りますよね、探偵が現れてしまっては自分たちが行った犯罪が明るみになってしまう。しかしそもそも私がいた時点でゲェイムオゥヴァー(ネイティブっぽい発音)だったのです。私の推測では、女将はあの男に脅されていて、露天風呂に呼び出された。貴女は美人だ、そんな手合いもたまに現れるでしょう。しかしそこで揉み合いの末、相手を殺してしまった。その後凶器と男の持ち物を隠滅、死体をどうしようかと考えていたところを後から来た番頭が死体を発見してしまった。板前は、もとい女将の御亭主は、それを悟ったのか、女将に請われたのか、今は協力している。そんなところでしょう。如何ですか?」
女将は何度か頷き、僕の方に向き直る。そして深々と頭を下げた。
「探偵さん、よろしくお願い申し上げます。」
がってんでい!と立ち上がりたいところだがお腹の都合上そうもいかない。
ふてぶてしく安楽椅子探偵の様に座って、世界を汚さない程度に咳払いでもしてみる。こほん。そして言おう。この恥ずかしい結末を。
「事故ですよ…これ。」
僕の発言を聞いた原田がぽかんとした顔をする。良い顔するなー、笑わせないでほしい。出ちゃうから。
「っむ…だから、そもそも事故なんです…犯人なんていません。」
「そんなバカな話があるか!?」と原田ちゃん。
「だって、刑事さんも…うっぷ…そう言ってたじゃないですか。」
「言ってたね。」と彼女。
「そうだった」「そうだった」と番頭と仲居。
「あほくさ」と櫻井さん。仰る通り。
「じゃあ凶器とあの男の持ち物はどうなんだ!?どこへ消えた!?」こんなに敵は多くても後には引けぬ。男の性か。
「そもそも凶器と言うか…っ…事故…石鹸…足…後頭部強打。洗い場近くの…ぐっ…岩。」
やばいやばいあんまり調子に乗って喋るとまずい。溢れる。単語で察してくれ。
「岩?血なんてついてなかったじゃないか!」と察しの悪い原田が読者用とも思える立ち振る舞いをしてくれちゃう。
「そうか、雨だ!」と仲居が叫ぶ。グッジョブ仲居。
「雨?」嘘だろ原田、察せよ原田。
「あの直前強い雨が降っていた。それで洗い流されたわけか。」と板前が続く。助かります。
「じゃあ荷物は…?」と原田。
「それは、」と僕が口を開こうとすると、廊下からどたどたと足音が聴こえてくる。
「いやー、夜分にすみません。例の御遺体の身元が分かりましてね。一応ご報告に。」とトレンチが入ってくる。誰も知らないであろう名前を発表する。どうやらそう遠くない地域に住む人間らしい。
「ど、どうして身元が?彼の所持品はなかったはず。失踪届でも出ていたんですか?」と原田。このままトレンチが全部説明してくれると助かる。
「ん?どういうことですか?」とトレンチ。仕方ない。トレンチ側からすれば意味わからんだろうし。
「そもそも…あの露天風呂は…ぐぷ」
「入口が二つあるんです。」と女将が続いてくれた。
その露天風呂は、萬福旅館専用のものではなく、寧ろ裏の風呂屋「安静」が管理する露天風呂を共有させてもらっているものであった。だから安静側から入った客を萬福旅館側は把握していないし、当然荷物もこちらにはない。知らないと言うしかないのである。ただ発見、通報した者として警察に協力したまでである。
引き戸のところにも「露天風呂-安静-」とは表記されていたし、別の出入り口もあったことを、原田さんは確認していなかった様だ。
『山奥の知る人ぞ知る旅館、美人女将、正体不明の死体』
という三連コンボにミステリーでなければ!と思ってしまう気持ちは分かるが、それで目がくらんでしまっては「探偵役」は務まらない。
「じゃ、じゃあ、あの顎の傷は…?」もうやめておけば良いのに。
「剃刀負け…。」と彼女がトドメを差す。
原田は膝から崩れ落ちた。僕も限界だった。おやすみなさい。
エピローグ
そもそもどうして最初に原田さんが「活躍」し始めた時に、女将は弁解しなかったのか。それはあくまで探偵役を自任し、声を挙げた原田さんが「お客様」であったことに起因する。
「お客様は神様である。」
それはある演歌歌手が「神前で歌う気持ちで挑む」という本来自分に課したものであったのだが、いつの間にか言葉が一人歩きして、お客様>サービス業という悲しい構図作りに一役買ってしまったのだ。「お客様」は多くの場合、絶対である。
そんな接客業体質が染みついた女将は「お客様に恥をかかせない」という気持ちから沈黙を貫いて耐えた。しかし結果はエスカレートしてしまった原田に、より深い恥をかかせたのだから考えものである。
しかし今回僕という真の探偵役のお陰で、恥をかかせた犯人は僕になすりついたわけだから、まぁ結果オーライなのかも。そこまで算段して僕を利用したのだったら、あの女将はなかなかすごい人と言える。
「探偵が旅行してもろくなことがないな」と僕。
「そう?いっぱい膨らんだし楽しかった。」と彼女。
心なしか彼女の足取りが軽く見える。
彼女がリフレッシュ出来たなら、それもまた良いか。
「そういえばさ、クロスワードの最後の一個が分からないんだけど、分かる探偵さん?」
「どれ?」
「”現在確定される結論と規則を用いてある前提条件が結論を説明できると裏付ける論理的推論法は?”カタカナ7文字。」
「うげ、なんで旅行雑誌に載っているクロスワードがそんなに難易度高いんだよ。」
「知らんし。で、分かるの?」
「うーん…。」本当は知ってる。でももう少し粘ってみる。そうすればきっと。
「膨らめば…分かるんじゃない?」
と彼女が艶めかしく微笑んでお腹を撫でる。
僕は自分が唾を飲み込む音の大きさにびっくりした。まるで喉が別の生き物みたいに隆起する。お腹が疼く。
「じゃあ、何か食べに行こっか。」と彼女が無表情で悪戯に微笑む。
彼女は僕の「神様」かもしれない。