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短編小説『ありがとう、エスメラルダ』
Twitterにて見かけたloverydude氏のお題
「ボロの冷蔵庫が壊れて今日中に空にしなくてはいけなくなった夏の孤独な作家」より。
これはある夏の暑い日の話だ。いや、夏は暑くて当然なのだが、それにしてもって日だ。飲んでも飲んでも汗で出ていく。強か頭を打ち付けられて、目眩がする様な、蜃気楼で揺れている看板の女が3Dに見えてきて、その胸ですら冷たそうで、本気で揉みたいと切に願う様な、そういう類のめちゃくちゃ暑い日を想像してくれ。
そんな日に我が家の愛機、エスメラルダが息を引き取った。そりゃあもうポックリと。大往生だったと言ってやりたい。なんてったってうちで10年?15年?は文句も言わず働いてたんだ。ああ、説明が足りなかった。エスメラルダってのはうちの冷蔵庫のことだ。濃い緑色のドレスを纏った様なボディーで、なりは大きくないがたまらなくセクシーなんだ。ここ数年は随分ウーウーと唸る様なところがあって、夜映画を観る時なんかはうるさい時もあったんだが、昼夜問わず休みなく働いてるんだ。それぐらいの欠点には目を瞑らないと、文句は言ってられない。俺も若くはないしな。
そんなエスメラルダが、その日は唸り声一つあげてなくて、なんだ、鼻炎がついに治ったか?って頭を撫でてやったら脈がなかった。この脈がなかったってのは、普段こいつから響く地響きみたいな振動のことだ。それに熱くなかった。暑い日だってのに随分冷めてよそよそしかったんだ。俺は悟った。それで俺はあいつのドレスを脱がして、いつもは乱暴に脱がして色々突っ込んだり、欲しいまま扱っていたが、その日はそうはいかなかった。俺にも良心とか愛着とかあるんだ。開ける前に頭も下げた気がする。俺はすごく丁寧に、慎重に扉を開けて、エスメラルダの中を拝見した。中身はすっかり温くなっていた。夜中には死んじまっていたのかもしれない。昨日ビールを取り出した時にはまだピンピンしてた。俺は信じられなくて、何度か開けては閉めて、また開けてを繰り返したが、エスメラルダの中はずっとぬるかった。
俺はエスメラルダと過ごした時間のことを想った。初めてうちに来た時、こいつも俺もまだ若かった。俺もこいつもピカピカしていた。懐かしい。こいつはいつだってうちで食品の鮮度を保って俺の腹を満たし、ルートビアやらハイネケンやらをキンキンに冷やして俺の喉を潤した。エラい奴が言う様に、健康な精神は健康な肉体に宿るのだとしたら、俺のこのやたらと頑丈な身体や精神を支えてくれていたのは、間違いなくエスメラルダだ。お袋の様であり、良き妻の様であった。
しかしいつまでも悲しみに暮れてられない。買い出しは昨日行ったばかり。エスメラルダにはパンパンに食品が詰まっている。パンパンに詰まった食品が傷んでしまうのもエスメラルダの本意ではないだろう。それに誰かが死んじまった時は、忙しくした方が良いって葬儀屋が言っていた。俺は忙しくせにゃならない。
「もしもし」
「どうした?」
「お前今暇か?」
「暇だよ」
「うちに来てくれないか?」
「それは無理だ」
「どうしてだ?暇なんだろう?」
「今ホノカアにいる」
「そりゃあ暇だな、暇を楽しんでくれ」
「もしもし」
「んっ…はぅ…なんでしょう?」
「悪い、お取込み中か?」
「いや、まぁ、お取込み中と言えば…んっぷ…目下事件の捜査中です」
「なるほどね、”膨らみ”中だ」
「ぐぷ…まぁそんなところ」
「邪魔したな、例の彼女によろしく」
「もしもし」
「はい」
「君、暇か、あるいはお腹空いてたりしないか?一緒に食事でも、」
「先生、貴方は暇なわけありませんよね。締め切りだってもうすでに3日伸ばしているんですよ!?そろそろ原稿をいただけないと、」
アドレスリストの数少ない番号に片っ端から電話を掛けてみたが、なんやかんや誰も捕まらなかった。
こういう時に頼れるヤツがいない。酷く寂しい気持ちになってきた。
思えば昔から、ここぞという時に誰も来なかった。
きっと俺が誰かの為に何かをしなかったから、何処へも行かなかったからに違いない。他人にしたことは巡り巡って返ってくるとお袋は言っていた。
何もしなければ何も巡らない。返ってこない。
俺は最終手段に手を掛けようか悩んでいた。
正直掛けたくない。しかし背に腹は代えられない。
時計の秒針の音は、食材の状態悪化を刻一刻と報せてくる。
俺は意識的に無視していた、アドレスリストの最後のページに未練たらしく挟んでいた一枚のメモを取り出す。
掛けたくなんかない。
「もしもし」
「…」
「もしもし…?」
「…なんの用?」
「その、あー、ちょっくら困ったことになって。」
「お金なら貸せないよ。前のも返してもらってない。」
「それは悪かったよ。それを返すから、一つお願いを訊いてくれないか?」
「いやいやいや、借りを返して終わり。その上でするお願いはプラスアルファの借りでしょうよ。相変わらずだね。」
「じゃあ、借りにしていいから、頼みを聴いてくれるかい?」
「断るかもしれない。でも、訊くだけね。」
俺は彼女に事情を説明した。
エスメラルダが死んだこと。
エスメラルダには昨日買い込んだ食品がパンパンに詰まっているということ。
そして今は恐ろしく暑い夏の昼下がりで、食品は今も徐々に傷み始めているということ。
「はぁ、冷蔵庫を急いで買ってきたら?」
「エスメラルダとの付き合いは長いんだ。そうホイホイ次の冷蔵庫を迎え入れられると思うか?」
「そんな、奥さんじゃあるまいし。」
「俺はお前と別れた後だって、誰も家に入れちゃいないぜ?そういう男なんだ」
電話の向こうで深いため息が聞こえる。
「OK、ウザいからそれ以上喋らないで。今から行く。」
「すまないと思ってる」
言い終える前に通話は切れた。
彼女はインターホンもノックも知らない様で、挨拶もなくドカドカ上がり込んできた。
両肩にはパステルピンクのクーラーボックス。
彼女の好きな色だ。
「それで、エスメラルダは?」
まるで刑事ドラマの「現場は?案内して。」という敏腕女性警部補の様な立ち振る舞いだ。サングラスも決まってる。俺は遺族の様に彼女をエスメラルダの前まで連れて行った。
彼女はエスメラルダを開けて中身を注意深く点検し始めた。
「うーん、流石に全部は無理。というか、半分も持っていけないよ。うちも結構パンパンなんだよね。」
「どうしよう。」
「情けない声出さないでよ。OK、じゃあここから、ここまでを私のクーラーボックスに突っ込んでおいてくれる?あと、キッチン借りて良い?」
彼女が長い髪をゴムで結わく。
「勿論」俺は頷いた。
彼女のクーラーボックスはアイスバッグが沢山入っていてうんと冷えていた。エスメラルダの中を思い出す。俺は指示された食品をクーラーボックスに詰めていった。あまりたくさんではないが、少しだって持って行ってくれたら有難い。うちの祖母さんは食べ物を粗末にすることをこの世で一番憎んでいた。
テトリスみたいな作業をしていると、良い匂いが漂っていた。懐かしい。俺が彼女と付き合っていた頃、時たまこうやってニンニクや玉ねぎ、バター、ケチャップの香りがしてきて、俺はよく喉や腹を鳴らしていた。俺は随分わがままで横柄だったと思う。幸せだったのは彼女のお陰だったんだろう。それは別れて暫くしてみなけりゃ分からなかった。エスメラルダの有難みだって、失った今こそ痛く分かる。人間ていうのは、いや、多くの人間はもっと器用に、清く正しく生きているに違いない。俺だ。俺はなんて卑怯で、おこがましくて、独りよがりな人間なんだ。その昔親父が言っていた。
「人間と人の違いか?それは”間抜け”かどうかさ。」
俺は独りよがりな”人”だ。
彼女は手際がすこぶる良い。食材たちはみるみる内に色とりどりの料理へと変身していった。俺の目の前に山と積まれた料理たち。
「まぁ食材として傷むより、料理しておいた方がまだマシ。さぁ、食べよう。」
「一緒に食べてくれるのか?」
「そんなには食べないよ。お昼も食べちゃったし。あんたは頑張って食べて。」
エスメラルダが死んで、今日は何も口にしていない。彼女が来て、料理をしてくれて、少し安心したら、自分が空腹だとやっと認識できたみたいだ。腹が鳴る。俺はその音を合図に、目の前の料理にかぶりついた。美味い。思えば今日は飲み物だって飲んでない。ぬるくなったルートビアで乾杯。
「ありがとう」
「黙って食べて」
喉を鳴らして飲んだ。むさぼる様に食べた。
俺は飽くなき探求者の様に、料理の深く深く、そのまた奥深くの何かを探す様に、一心不乱に食べ物を掻き分け、掴んで口に詰め込んでいく。
普段は到底食べられない様な量が、自分の口へと飲み込まれていく。
満腹かそうでないか、自分では分からなかった。しかしは腹は窮屈になりつつある。ボタンを外して、腹の余地を広げる。まだ食べられる。
料理の隙間から見える彼女は不安そうな目をしていた。
俺は親指を立てて、大丈夫だと報せる。そのついでに親指ついたソースを舐めとる。ガツガツ食べ、ゴクゴクと流し込む。を繰り返していく。
エスメラルダはこれだけ沢山の食材を体に入れて、いつも冷やしてくれていたのだ。それで頑張って、それでウーウー唸っていた。そんなあいつを俺は少しでもうるさいだなんて思いやがって、剝きになってテレビの音量を上げて、近所から苦情が来たこともある。
「泣いてる?」
料理の山が崩れて、俺の顔がやっと見えたらしい。
「ああ、美味すぎてな。」
と俺は答える。
食事を取るのに前かがみになりたいが、膨らんだ腹が邪魔で姿勢が後ろに反り気味になる。段々シャツが汚れてきていた。でも俺は食べる手を止めなった。何に対する信念なのか、何に対しての償いなのか、自分が今一体何に一生懸命になっているのか、それを言葉で説明するのは非常に難しい。作家としてどうかと思うが、俺は兎に角、今目の前にある料理を平らげないといけない。その一心だった。
自分の身体がどうなっているのか、もうよく分からない。
手と口の周りは、何処からがソースでどこからが皮膚なのか。
ただ目の前に山とあった料理は、残すところあとひと掴みで。
その失われた料理、いや、失ってはいない。失うわけにはいかない。
その平らげた料理分、俺の腹は立派に膨れていた。
最後のひと掴み。彼女の息を飲む音が聞こえる。
それを合図に、俺は、最後の一飲み。
それと同時に座っていた椅子が砕けて俺は床に転がされる。
溢れ出しそうな胃の内容物を、なんとか息も絶え絶えに抑え込む。
彼女が俺のところに駆けつけて、俺の手を握る。
「起き上がる?」
「いや…そりゃあ無理だ…ぐっぷ…」
彼女は俺の腹を撫でる。
「そんな無理するほど美味しかった?」
彼女が呆れ顔と笑顔のあいのこみたいな顔をする。
「ああ…絶品だった。」
俺はそのまま夢へと落ちていった。
腹が重いからどこまでも落ちていく。
そして腹が膨らんでいるからどこまででも飛んでいく。
彼女は俺の腕に捕まっている。
このままどこまでも行こう。
ありがとう、エスメラルダ。
「まだ決まらないの?」
「エスメラルダの後継だぜ?そんな軽く決められるかよ。」
「冷蔵庫ないと毎日買い出し行くの面倒だよ。」
「もう少し待ってくれよ。狙ってるのがあるんだ。」
俺はカタログの近日発売のページを彼女に見せた。
そこにはパステルピンクの冷蔵庫が載っている。