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短編小説『枯れ井戸』

「あの井戸には近づかないで、お化けが出るよ。」
そんなベタな注意を母親からされて、今時素直に聞く子供がどれだけいるか、と当時私は小学生ながらに思った。近づくなと言われれば寧ろ近づきたくなる。注意されなければ最初から井戸の存在自体意識しなかったかもしれない。家の敷地内かも怪しい、端の目立たない所にその古い井戸はあった。とうに枯れて誰も近づかない。
その頃クラスは丁度オカルトブームが到来していた。テレビで心霊番組が放送されたことを皮切りにお化けの噂からこっくりさん等占い、呪いの類まで、各々本や雑誌から仕入れた情報を教室の片隅で披露し合っていた。それはまるで秘密の倶楽部の様でもあり、集まる時は男子を遠ざけた。私はその日、皆に井戸の話を披露した。するとグループの中でもリーダー格のKがその話に食いついてきた。Kは姉がホラー好きと言うこともあって、その手の知識も豊富で一目置かれていた。
「その井戸見に行こうよ、6時頃」
門限を過ぎた時間だ。難しい、と私が親の顔を思い浮かべて言うと、
「幽霊が昼間出るわけないじゃん。見に行くなら逢魔が時だよ。それとも怖いの?」
とKは挑発めいた笑みを浮かべた。私はそれにまんまと引っかかり、一緒に井戸を見に行くことになってしまった。他の人たちは口を揃えて「やめとくよ」と言った。私はそれをずるいと思った。
私は一旦帰宅し、「宿題するから」と自分の部屋に籠ったふりをして、時間が来ると家を抜け出した。庭を突っ切って井戸に向かう。
夕方の6時、夕飯まであと30分。
井戸の前には私、K、それに男子のOが集まった。
「なんでOがいるの?」
「良いじゃん、混ぜろよ」
Oは盗み聞きしてここに来たのだ。私はウザいなと思うと同時に、男子がいる心強さも感じて、複雑な気分だった。
「じゃあO開けてよ。男でしょ。」
とKが指示する。井戸には厚みのある木製の蓋がされている。Oが渋々蓋を開けると中は暗く殆ど何も見えない。辺りはだいぶ暗くなっていた。
Kは用意していた懐中電灯を灯すと、それを井戸の中に差し入れた。3人とも井戸の縁を掴み、身を乗り出して覗き込む。光が真っすぐと降り、目が慣れてくる。井戸の底にはぬらぬらと光る黒い水面が光を反射して揺れていた。まるでナマズやサンショウウオの表皮の様で少し気持ちが悪かった。
「なんだよ、何もいないじゃん。」と舌打ちするO。
「ほんと、残念。」とそれほど残念でもなさそうなK。
私は名残惜しく井戸の蓋が閉められるのを見ていた。

大人になってから、そろそろ時効だろうとその話をすると母は笑った。
「そんなこと言ったっけね。流石にお化けなんて嘘よ。万が一落ちたら危ないからって、父さんに注意しろって言われてたのよ。」
私は、なんだ、やっぱりと笑った。しかし母はその後、
「でもおかしいね。その頃なんて井戸はとっくに枯れていたはずだからね。」と首を傾げた。
私は時折、あの時の井戸の底、黒い水面を思い出す。

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