
短編小説『待って』
あさこさんからのTwitterリプライ「めんどくさい女」より。
「待って」
彼女の口癖だ。本当に待ってほしいわけではない。
「待って」のあとには「なにそれ面白い」とか「なにそれ意味わかんない」が隠されていて、僕の発言が何か面白かったり、予想外だった時の反応だ。何を待たされているのか、最初分からず数分待ってから事情を尋ね、「なんだその固有言語感覚は」とツッコんだら「待って」と返されたのを覚えている。笑いながら肩をしたたか叩かれた。
「待って」
今度は別の意味で使用されている。
彼女は足が痛いのだ。慣れない靴を履いたせいらしい。
「しっかり試着しないから」
「でも可愛かったからさー」
アキレス腱の辺りが赤く擦れて少し血が滲んでいる。
お洒落には痛みが伴うらしい。
僕には理解しかねる世界の話だ。
速度を落として歩いたせいか、家に帰ると普段擦れない箇所が少し痛んだ。
「待って」
彼女はいつも待ち合わせに遅れる。
15分はザラだ。
「来ないなら帰るぞー」と連絡するといつも返信は「待って」だった。
まぁ僕も帰る気はない。
折角休日に早起きして、寝癖を直してここまで来たんだ。
それから30分後、僕たちはギリギリに映画館へ滑り込んだ。
「待って」
待つ義理はない。別に僕たちは正式に付き合っているわけじゃないんだから、彼女が別の人といたところで問題はない。
彼女が何か言っているがまるで遠い所の話みたいで耳に入ってこなかった。
弁解の必要なんかない。
彼女がその時過ごしたい人と過ごせば良い。
僕は今彼女と過ごしたくないというだけだ。
僕は怒ってなんかない。
「待ってください」
僕は医者にそう言った。
医者はもう一度丁寧に説明してくれた。
淡白な響きのせいでまるでセリフの様に聞こえる。
現実味がない。
意味が分からなかった。
啜り泣きが聴こえる。
「待って」
花屋の店員が追いかけてきた。
ぼんやり昔のことを思い出していたせいか、カウンターに財布を忘れたらしい。
「ありがとうございます」
僕は財布をポケットに入れ、花束を持ち直した。
「待ってくれ」
を言う間もなく、突然僕の人生から消えた彼女。
僕の性格もあってか、あまり笑い合ったという記憶もない。
ただ彼女はよく笑っていた。
僕はムッとしていることの方が多かったかもしれない。
それでも彼女は僕を誘って遊びに出かけた。
付き合わなかった彼女と僕。
だからこそ、僕は彼女を忘れずにいた。
何かにつけて彼女は記憶の綻びから顔を出し、
「待って」
と言う様に思えた。
厄介な女だ。
僕は彼女が二度と現れることがないと知りながら、長らく待っていた。
だけど、
「もう待ってやれないんだ」
僕は墓石にそう告げた。