旅行の死を考える
2018年夏、私は友人Bと渋温泉を旅行しました。Bは同じ小学校、中学校に通っていた同級生です。普段あまり自分から人を誘わないタイプのBでしたが、この時ばかりは「渋温泉という温泉街はなかなか良いところらしい」とか「雲海を見ることができるスポットがある」などと言って私を誘ってきたのです。
誘われたら断らないタイプの私は二つ返事で了承し、早速レンタカーや宿泊宿を手配して、Bとの二人旅をスタートさせました。
出発当日の天気は快晴。二人で楽しい音楽を聴きながら、格安レンタカーで借りたデミオは関越自動車道を走ります。ささやかで楽しい旅が始まりました。途中、サービスエリアで小休止、ラーメンをいただきました。贅沢でも貧相でもない、丁度良いささやかな時間が流れていました。
雲海が見られるというスポットに辿り着きました。天候次第で雲海が見られないこともあるとのことでしたが、私達は運良く素晴らしい雲海を見ることができました。
私達は雲海を見たことがありませんでした。いつでも見ることができるわけではない景色を見られた幸運に、私達は素直に感謝しました。
おまけに、地上へ降りるロープウェイからの空模様も美しいものだったのです。
その時の空模様は、よく考えてみれば自然現象の一つに過ぎません。気象が偶然、私達が美しいと思う形に収まっただけなのです。しかし旅行をしていると傲慢な気持ちが湧いてきて「今日この地を訪れた私達を祝福してくれている」などと思うのです。
美しい景色を堪能した私達は渋温泉へ向かいました。なんとなく大正時代の趣を残した美しい街並みを歩きながら、湯巡りをしました。
温泉や食事を堪能したあと、宿に戻りました。事前に買っておいた美味しいりんごジュースが冷蔵庫で冷えていたので、二人でそれをグラスに注ぎ、乾杯をします。
翌朝、温泉街を少しぶらついて帰路につきました。
このような感じで、1泊2日の渋温泉旅行はとても楽しく、穏やかな気持ちになれる、素敵な旅になったのです。
この渋温泉旅行から半年後の冬、Bはこの世を去りました。
旅行の寿命
Bが死んだ。今までの人生の中で最も多くの感情が身体の中をざわめきます。そしてそのとき、この渋温泉旅行は死んだのだと、私は感じたのです。
旅行とは何でしょうか。色々な答えがあると思いますが、私は誰かと人生を一時的に共有することだと思っています。同じ移動手段で同じ場所へ向かい、同じ景色を見て同じような飯を食べて、同じところに泊まって過ごすのです。その情報量は膨大でとても一人で抱えきれません。旅行という体験記憶は、一緒に行動した人の記憶をすべて足し合わせて、はじめて完全に再現されるのです。
今回その相手がBだったわけですが、Bは亡くなってしまった。するとどうなるかというと、旅行が無かったことになると私は思うのです。この旅行の証人が自分しかいなくなってしまったわけです。
もちろん、記事冒頭にあるように旅行の様子を思い出すことはできます。写真もたくさん撮影しましたから、より写実的な光景も蘇らせることはできます。
しかし、これらの思い出の記憶は、私の妄想と区別がつきません。なぜならこの旅行の証人は私しかいないからです。まるで胡蝶の夢のような話。素朴な味のサービスエリアのラーメン、美しい雲海を幸運にも目撃できたこと、静かな温泉街…これらの記憶全てが、私の夢想、妄想ではないと断言できるでしょうか?旅行の記憶を共有していた唯一の証人であるBが死んでしまったのに……。
旅行の寿命はその旅行が終わった時に尽きると思われがちですが、実は旅行が終わった後もずっと続いていると思うのです。一緒に旅行した人と思い出を語り合うことで、何度も、何度もその旅行を蘇らせ、再現し、追体験ができるからです。
そしてある日、旅行は死を迎えるのです。誰もがその旅行を忘れて語らなくなった時、あるいは、一緒に旅行した人間が死んだ時に、寄り添うようにして、旅行は静かに死んでいきました。