自分自身との会話
ここ数日、バイトも学校もあまりなく、昼夜逆転生活をしてしまっていた。
夜寝れずに布団で1人過ごす時間。僕はこの時間に自分自身と永遠に会話を繰り返す。自分自身と会話をする目的は、自分の本音を探るため。その本音はなぜ出てくるかを探る。
例えば、僕は若い人達だけが使う流行り言葉みたいなのがすごく嫌いだと感じてしまう。
今日、知り合いのインスタグラムのストーリーで、友達とラーメンに行っている写真をあげている人がいた。その人がまた30分後に映画館での写真をあげ、文字で「ラ後の映画」と添えていた。
あぁ。
なんでだろう。
何故だかこんなどうでも良い事が気に食わない。気に食わない理由を自分と会話して探るのだ。
う〜ん。
ラーメンを一文字「ラ」と略す事を面白いとでも、カッコいいとでも思っているのだろうか。そもそも夜遅くにラーメンを食べているという、食生活として悪いことを行っている自分の事をカッコいいとでも思ってるんじゃないかとも思ってしまう。そしてそれをインスタにあげ、アピールしてるこの人はダサいやつという結論にたどり着き、そのダサさが気に食わないと感じた。
似たような類で言ったら、バイトを「バ」と略す人も嫌な感情を抱いてしまう。前に「バ後のラ」とインスタのストーリーに挙げている人も見たことがある。一番最悪のケースだ。
僕もラーメンは大好きだし、バイト後の夜遅い時間にラーメン食べに行く事もまぁまぁある。だけど、わざわざインスタにあげようと思わないし、ましてや「バ」、「ラ」とは絶対に略さない。
でも僕が考えすぎな性格の悪い奴なんだってことはまだ20年しか生きてないが、なんとなくは気付いてる。そんな自分もすごく嫌だ。毎晩、自分自身と会話しても自分の性格の悪さを押しつけられてまた嫌になる。
こんな時間は必要ないかも知れない。でも、僕は自分という人間を知りたい。自分を知ることで、悪いところを直し、少しはマシな人間になろうとするんじゃないかなと思うから。
でも、自分の悪い所なんて知ったところで簡単には変えられないという事をなんとなく気付き始めた。
それが自分という人間だからと片付けてしまう。
これも良くないのか、でも仕方もないのかな。悪い所は変えられないかも知れないけれど、表には出さないように、本当に信頼できる人の前だけ、少しだけ愚痴に付き合ってもらうようにするのがいいのかな。
本当に難しいな。自分って。