いとおかし、いとおかし7 水魚玉石
体験重視より「妖異譚」
プロ仕様です。仏教は「法に依って自己をいきる」教えです。
したがって、人のみに帰依しては、外道です。
個人の体験や思想を語るときは、「伝達したい」という欲が前提ですから、相手がありますね。それが大衆であるなら、どういう意匠で表現するかで、その支持、まあ受けるか受けないかでイイのですが、の量がきまります。
つまりは、エンタメになっているか否か。おもしろくなかったら、わざわざ、何十分も話を聞こう、とはなりません。
でそういうことを一切考えずに、「法話」として「個人のお味わい」をいう、ということがいかに危険かがわかるでしょ。聞き手によっては、話し手スーパーマン、「エライ先生」にし、モデルにし、「かのようにいただかなければ信心ではない」としてしまうからです。そうなるとウチの宗旨では迷いにいく。
「味わう」とは食べると言う動作の果のメタファーなので、つまりはいただき心をいう、ということです。
それは、「信」を共によろこぶ者同士の表現としてはいいので、確かめ合いの場ならいいんでしょうが。
未信の人に「信」をすすめるという立ち位置ではないので、無宗教や宗教嫌いの人を遠ざけるはたらきになっちゃいませんか。
そういう話をモデルにしたため、真宗プロパーでない世間からみれば、エンターテインメント性が失われ、人が集まらなくなったのでは?
真面目一辺倒は、宗教のコアとして絶対ある。しかし、私は啓示か示談(釈尊のような一対一の説法)でやるべきだ、そうでないとアカンと思うのです。
妖異は「常識」を揺るがせる
で、ファンタジー。近代社会においては空想的お話。或いは妖異譚。そういった物語が、実は大乗仏典には多いのです。
ファンタジーは、不合理なことへのメタファーなのですが、その不合理性だけにとらわれると、科学の領域に「接近」します。
科学はその現象が、どこでも誰でも再現できることを前提に立てる「法」の集成ですから、一定の合理性を前提とします。しかし、実は、その誕生は「錬金術」であったり「魔法」であったりするので、不合理としか思えない事象の中に、合理的な説明を求めるという心情から、生まれています。
仏教は智慧の宗教。したがって、ありとあらゆる現象をいかに説明できるか、を手に入れるために徹底したリアルな観察をもとにします。
そこから生まれるメタファー。そういう聞き方をしてみて下さい。さて、
説教の「水魚玉石」
説教原稿をまるごとあげる。2012年春彼岸の説教の前席。
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