いとおかし、いとおかし13 制作過程1
ようこそ。説教台本の制作過程公開です。まずは上書きした、原話。
その裏取りです。次に、お話が史実かフィクションかと言う判断です。
これは、講談ネタや落語ネタも検討します。最後に、「説教」とするときの思考と描き方です。3部になります。
「石門心学」
そもそも、江戸から明治の説教本や指南書を読んでいきますと、「メタファーとしてよくできている」、「くりかえしいろいろな先師が採用されている」という「お話」や「譬喩」にであいます。
それらは、そのまま現代でも興味深く通用すると思われるものや、多少手直しをしたり、物語の舞台である、空間と時間を移すことで「現代化」できるのでは、と考えられるものです。
そこで、それらの「裏取り(一次資料探しと上書きの確かめ)」をします。
その中で、気がついたのは石田梅岩流の「石門心学」と「真宗・仏教」との関係性でした。梅岩は京都亀岡市の出身で京にでて商家で奉公したあと、「四十にして立つ」となられたのか、人の道を説き始めます。自宅を開放して男女身分を問わず、無償で講義をし「倫理」をときます。
石平道人、徳川家譜代から出家して曹洞宗僧侶となった、鈴木正三(1579~1665)は、『破切支丹』を書き仏道を高揚し、天草の乱のあとに入り寺院を復興した人。在家の仏道として「世法即仏法」を根拠とした「職分仏行説」とと呼ばれる日々の職業生活の中での信仰実践を説かれ、真宗でいう「現生正定聚」の在り方を示したのです。
しかし時代の制限で、「商人の職分」と仏教を説明できませんでした。梅岩はそこを「交換の仲介」と明らかに説いたので、最盛期には、門人400名にのぼります。
弟子に、京都呉服商人の手島堵庵(1718年 - 1786年)をはじめ布施松翁(1725年 - 1784年)、柴田鳩翁(1783年 - 1839年)などが輩出し、「石門心学」が日本各地へと拡がったのです。
その講話は、真宗説教との近似性が高く、前後席で一座とするなど、どちらが先かもわからないスタイルで行われています。出版された「道話」は、口語書き写しのが多く、はっきりと聞書であるものもあります。
「心学」は後世についた呼び名で、江戸で「参前舎」を開き講義を重ねた中沢道二の教えを、松平定信が「心の学び」と言ったことから「心学」と呼ばれるようになったのです。しかし、陽明学でも心学という用語があるので、それと区別するべく「石門心学」といわれます。
「あれ?これ落語で聞いた……」
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