■#2 補聴器をつけ始めて なずな 4歳8か月
※ほぼ40年前の話です。現在の話ではありません。そのことにご留意いただきたいです。聴覚障害児に対する教育方法,聴覚障害者を取り巻く社会は常にアップデート、いい形に変わってきています。
1歳から言語訓練を受けていた子は、就学するまで5年あります。5000語の到達は可能かもしれません。
診断されたのが遅かった私。4歳8か月で、たったの10語未満。パパ、ママ、ない(いらないの意味)うん(わかったの意味)ワンワン…
小学校に入るまであと、たったの2年弱。
海外の大学に進学するのにTOEIC800以上などの基準がありますが、それと同じようなもの、かもしれません。
だけど、10語もない子どもに、小学校入学までには5000語をと言われる。
難聴の発見が遅かったことを、悔やんでも前に進むしかない両親、でした。
補聴器をつけた日のことですが、音が入り始めたときの感動は、それなりにあったのかもしれません。だけれどなぜか記憶をたどってみても、どうにも覚えていません。
ただ耳穴にイヤーモールドをはめ込まれての、不快さだけは覚えています。ヒヤッとつめたく硬いもの。イヤーモールドは、音が漏れないように耳の形ぴったりにオーダーメイドで作られているので、窮屈な感じはありました。
この頃つけていた補聴器は、ラジオのような箱型の補聴器だったので、それを胸元につけていました。転んでしまうと、胸の骨にあたって泣くほど痛いので、転ばないようにする技術も自然についていました。
(この絵を描いていたら、次男が「おねえちゃんの小さいときだ!」と言いました。モデルは私や娘ではないのですが…どちらかというと次男の幼いときに似ています。)
胸にある補聴器はどうしたって目を引くはず。「え?ラジオ?」と怪訝な顔で見る大人たちもいたと思いますが、何にも覚えていません。幼稚園の園服を上から着ていたので、耳につながるコードに気づかれない限り、じろじろ見られている感じはなかったかと思います。(程よい鈍感さも、生き抜いていくのに必要なのかもしれません)
診断される前の私。非常に勘が良かったと両親はいうのですが、「周りを把握する力」があり、言葉がなくても状況を察していた、ということです。
自分の言いたいことが伝わらなくての癇癪も起こさない、鷹揚さがあり、淡々としていたそうです。
お母さんの語りかけの声、お父さんの優しい声は聞こえなかったけれど、
ご飯のおいしそうなにおいがしてきた!もうすぐご飯なんだな。
夜になれば暗くなる、お風呂に入り寝る準備を始める。布団に入り一日が終わる。
日が昇れば起きる、朝ご飯食べて、幼稚園の制服着て、お友達と歩いて通う。
そうやって1日の流れを理解していました。
それが突然補聴器を通して、音が入り、両親の声が聞こえる。幼稚園から帰れば、毎日、母との「言葉の練習」をしなければならない。
診断受けた病院に言語訓練室があり、月に2回通っていました。毎日自宅で練習した成果が出ているか、発音のチェックをしてもらう。難聴と診断された途端に、そんなルーティンになっていきました。
ここで、聴力について説明させてください。(ある小学校で聴覚障害者についての授業をしました。その際の資料を使っています)
私は4歳時、中等度難聴と診断されました。(後に13歳の時に重度難聴、100デシベルになりました)
聴覚障害者に伝わる音、こんな感じなのかと感じていただけたかと思います。
聴覚障害の単位は、デシベル=「dB」です。
数値が大きければ大きいほど、聴覚障害の程度は重くなります。デシベルの「ベル」は電話の発明者、グラハム・ベルが由来です。
次は言語訓練について踏み込んだ話が、続きます。よかったらどうぞお付き合いくださいね。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?