■#3 なずな、言語聴覚士さんに出会う
物には名前があり、人と話し合うために会話がある、お互いの気持ちや考えを理解しあうために、言葉がある。それぞれの経験や知識をシェアしあい、一緒に生きるために時間を共有する。相手を好きになれば、なおさら相手を知りたくて、目と目を合わせ、ことばを使って語り合う。
人として生きていくために、「ことば」は必要でしょう。
健聴者は生まれた時から両親の優しい語りかけで、自然に言葉を覚えていく。聴こえなかった私は、どう声を出すのかもわからないのです。
音というものを、高熱で消滅した私は、あえて「言葉を話す」練習する必要がありました。
言語訓練をする際に、言語聴覚士という専門の方がいます。そういう職業の方がいることを初めて知った方は多いかと思います。健常者でいる限り、もしくは家族にハンデを持った人がいない限り、出会うことはほぼないでしょう。大学病院、総合病院、リハビリテーション、介護老人保健施設、デイケアセンターなどにいます。
言語聴覚士(STとも呼ばれている、Speech-Language-Hearing Therapist)はことばによるコミュニケーションに困難がある人に対し、問題解決に向けて専門的に、共にしてくださるパートナーです。
脳卒中などによる失語症、聴覚障害、ことばの発達の遅れ、口腔内の問題による発音障害、吃音、嚥下障害(食事形態などの指導)などの、多くのことばのハンデに対して、対処法を見出し、指導、助言、支援をしてくださる専門家です。ことばに関して問題のある本人とその親を精神的にも支える、素晴らしい仕事です。
息をする時に、息の音があることで、呼吸しているという実感をみなさんは得られるでしょう。
聴覚障害者は、「息の音」があることを最初は分かっていないのです。呼吸音が聴こえてないので「息のかたまりを肺、お腹に移動させている」ことも、補聴器をつけ始めてから、知りました。
息のかたまりを声帯に押しあげて、発声しているという、みなさんにとって無意識にできることが、聴覚障害者には「え?そうだったんだ」の世界です。
ことばを話すためには、音を作りだす口唇、舌やあごなどの器官に、脳から指令を送られます。肺から息を出し声帯を震わせて、「声そのもの」を作るのです。舌の形を変えたり舌を上あごにつけたりしながら、思い通りの声を発します。
このことを「構音」というのですが、聴覚障害児はもともと、サ行、タ行が耳に入りにくいのです。
特に感音性難聴児はサ行、タ行は最難関です。なぜならば、音がゆがんで聴こえることが、感音性難聴の性質だからです。(難聴には伝音性難聴と感音性難聴があります。障害の部位が、外耳、中耳にあるか、内耳から聴神経なのかで変わります。これはまた今度詳しく書こうかしら)
発音でサ行、タ行がクリア出来れば、数年かかりますが明瞭な発音ができるようになります。息を使って発声するにも、「息の音」が聴こえてない子に、まずは、息の出し方を教えるのです。
ろうそくをふいたら消える、シャボン玉を吹けば、まんまるの虹色の球が飛び出す、たんぽぽの綿毛をふけば、風に乗って舞い上がる、それを知ったのは言語訓練を始めてからでした。
厳密に言うと、難聴と発覚する前に、まぐれなのかシャボン玉をふくことはできていました。言語訓練を始めてから、「ふっ」という音が、声帯からの息とともに飛び出すことを、初めて知ったということです。
「ふ」という言葉を覚えるためには、ろうそくを出してきて、母がふいて実演して見せてくれます。
母のろうそくは消える、私は消えない。
あれ?どうやったら母のように消えるのだろう、という「気づき」を、聴覚障害児である私に与えることが大切で、気づかせるための工夫を言語聴覚士さんが考えてくださり、保護者である私の母に指導してくれます。母は家で私に向き合って、何回も繰り返し練習します。そうやって私は日本語の発音を覚えていきます。
今は言語聴覚士と言いますが、私が言語訓練を受けた40年前は言語訓練士という名称、でした。言語訓練士という名前が使われていた頃は、国家資格として認められてなかったそうです。言語を障害児に定着させることの重要性が高まり、認識され国家資格になったと考えています。
先生方は悩みながら、発声、発音の方法論を構築し、子どもそれぞれに合ったものをさぐりあてて、私たち聴覚障害児とその親を導いてくれました。
私の現在も保たれている発音、日本語は、言語聴覚士の存在なくしてはあり得ません。
★この記事を書くにあたって、下記のURLと書籍を参考にしました。
ゆう@ことばと摂食の発達・療育・リハビリさんのTwitter
ゆうさんのはくぐみブログ
kikoelifeさんのTwitter kikoelifeさんのInstagram
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今日は逝去した祖母の誕生日です。東京藝大のピアノ科を目指していたものの、戦争で諦めざるを得なかった祖母。祖母は孫娘が難聴と知ってからは、私の前で弾くことはあまりしませんでした。私に遠慮しなくてもよかったのに、と思うのですが。
ショパンを愛した祖母でした。
祖母のイメージは私にとっては、コスモスです。
箱型補聴器がバンドから飛び出すほどお転婆だった私は、相変わらずに積極的。聴こえてないからこそ、情報ハンターで生きていきます。それと同時に、知的好奇心を持った素敵な方や、子どもたちに、「聴こえない世界」を楽しく伝えていきたいと考えています。私のことは心配しないで、天国で思いきりピアノを弾いてください。
ではまた来週。まだまだ言葉について書きます。
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