見出し画像

暗闇の中で手を握って

noteは、ただ書きたい時に書くメディアである、と思っている。書く事で満足し、それでもせっかく書いたなら、、と特に誰もいない暗闇に対して文章を放り投げるような感覚で書くのが精神的によい使い方な気がしている。

今僕が書こうと思ったのは、星野源さんが書いた「いのちの車窓から」という本の中の一節と、最近体験した出来事がリンクしたからだ。

文庫版の最後に、「ひとりではないこと」というタイトルのエッセイがある。文章が素晴らしいので読む他ないのだが、自分なりに感じた事で言えば、「ひとりではないこと」を認識できる事の喜びや幸せを綴っている文章である。


話は飛ぶが、こないだダイアログ・イン・ザ・ダーク「内なる美、ととのう暗闇」というエンタメ施設に行ってきた。

本当の真っ暗闇の中で、視覚以外の感覚を研ぎ澄ます体験をする施設なのだが、今まで体験した事のない素敵な時間だった。その中でしたある体験が、エッセイを読んだときに立ち現れた記憶である。

途中で椅子に座らないといけない時があったのだが(もちろん真っ暗闇の中で)、他の参加者が座っていく中、僕は一人立ち尽くしていた。椅子の場所が全く検討がつかなかったのだ。

真っ暗闇の中で、一人ぼっち、しかもその状態を誰からも確認できない状態は、想像しているよりも怖い。僕は、「あれ、椅子どこ、、」と小声でつぶやきながらうろちょろしていたのだが、そこで、さっと手を握ってくれた人がいた。

おそらく参加者ではあると思うが、強く誘導するわけでもなく、落ち着いてと言うわけでもなく、ただ握ってくれた。結果、なんとか椅子に座る事はできて、その方は手を離した。

何度も言うが真っ暗闇の中なので、誰から握られてるかも分からず、体験が終わってからも特にお礼を言う事なくその場を立ち去った。


この記憶を星野源さんの文章を読んで思い出した。僕はあの時ひとりだった。文字通りの暗闇の中で、立ち尽くす事しかできなかった僕の手を握ってくれ、「ひとり」を「ひとりではない」状況にしてくれたのだ。

「ひとり」という状況は、案外見えにくいものだと思う。「ひとり」は、身体ではなく精神に由来するものだからだ。

ばか楽しい飲み会があったり、誰かと分かり会えたと思う瞬間があっても、自分はどうせひとりだと思い込む事で自分の凡庸さの否定ができたりする。そして、どうせひとりという思い込みが、時が経つにつれ本当の「ひとり」になるのだ。

ダサい、ダサすぎる。

僕はいつわかるだろうか。

たとえ本当に「ひとり」であったとしても、自己認識の中でかすかに手を握られていて、そしてあわよくば僕も誰かの手を握って、その人を「ひとりではない」状況にできるだろうか。


暗闇のなかでひとり考える。

考えてもわからないので、とりあえず寝るわ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?