「踏めば助かるのに…」当時の人は変な取締り”踏絵”をどう思っていたのか?
江戸時代の日本ではキリスト教が禁止されており、キリスト教徒を摘発するために絵踏みが行われていました。
その絵踏みに使われていたのが踏絵ですが、どのように管理されていたのかはあまり知られていません。
果たして江戸時代の日本で踏絵はどのような扱いを受けていたのでしょうか?
本記事では踏絵の種類や管理のされ方などについて紹介していきます。
なおこの研究は、西南学院大学博物館研究紀要4巻p25-38に詳細が書かれています。
参考文献
絵踏の展開と踏絵の図像 ―貸借にみる踏絵観― (seinan-gu.ac.jp)
http://repository.seinan-gu.ac.jp/handle/123456789/2150
ライター:華盛頓(hanamoritomi)
華盛頓(はなもりとみ)です。大学では経済史や経済地理学、政治経済学などについて学んできました。本サイトでは歴史系を中心に執筆していきます。趣味は旅行全般で、神社仏閣から景勝地、博物館などを中心に観光するのが好きです。
形骸化しつつも、江戸時代を通して続いていた踏絵
江戸幕府は創立以降、何度もキリスト教の禁教令を出していました。
そして1629年、キリスト教徒を取り締まるために絵踏みを導入したのです。
この絵踏みでは幕府はキリスト教のシンボルについて描かれていた絵を領民に踏ませることによって、領民にキリスト教を信仰していないということを証明させていました。
なお踏絵を踏むことのできなかった人は棄教するまで様々な拷問にかけられることとなり、その中で命を落とす人も決して少なくなかったのです。
とりわけキリスト教徒が多くいた九州では盛んに行われ、江戸時代初期の段階では年に数回行われていました。
しかし何度も行うにつれて目立つキリスト教徒は概ね摘発し、残ったキリスト教徒は隠れキリシタンとして地下化したこともあり、絵踏みの効果は徐々に低下していきます。
こうした隠れキリシタンたちは、「たとえ絵を踏んだとしても、内面でキリスト教を信仰していれば何も問題ない」と解釈して絵踏みを行っており、絵踏みによってキリスト教徒を炙り出すということは困難になったのです。
それでも絵踏みがなくなることはなく、江戸時代中期には長崎奉行所で毎年旧正月に絵踏みが行われていたとされます。
当時の長崎の人々はこれを正月の恒例行事としてとらえており、遂には「絵踏み」が春の季語として認められるまでにいたりました。
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