知人から聞いた話。
私には好きなタレントSさんがいるが、何年も対面の機会はなかった。周囲にはSが推しであると公言もしていた。そんなある日、イベント開催のお知らせがきた。これは千載一遇のチャンス。しかも5部制だ。全枠ゲットしてみせると息巻くが、数秒の差で1枠チケットを逃した。悔しく落ち込み、推し活用アカウントでその気持ちを漏らす。すると突然知人Aからメッセージが来る。
Aは以前から自分に嫌がらせをしてくる人物だ。しかも周囲にはバレないようコッソリ嫌がらせをしてきて、表では愛想の良いタイプ。
そんな状態なので、じわじわ仕事にも支障をきたし始めていた。
嫌な予感に生唾を飲みながら、Aからのメッセージを開く。
──S好きなんだって?偶然C枠のチケット取れたんだけど、欲しいですってお願いするなら譲ってあげよーかなー笑笑──
C枠は私が逃したチケットだ。
補足だが、AはタレントSのことを全く好きではない。断言できる。職場で私が話していたのを聞いていたのだろう。また嫌がらせである。
私はこのチケットのために何週間も前からスケジュールを調整し、チケット発売日に臨んだ。負けられない戦いだった。しかしシステムエラーで円滑に進めず、コンマの差で1枠逃した。
Aからは、今回のような嫌がらせを受ける前は好意を抱かれていた。だが前向きでない為ずっと距離を置き、かわしながら過ごしていた。Aは私へ時々、髪型や化粧や服など身だしなみにしつこく言及した。Aの中の理想やこだわりがあるのか、それに近づいてほしいような語りぶりだった。しかしそれに従う理由はないためとても困っていた。そんな繰り返しのうちに、Aからの私への好意は、受け入れられない気持ちが肥大していき、いつからか嫌がらせに変わっていった。
メッセージを読んだ瞬間、怒りと恐怖が沸き上がった。
推しへの愛のない人間が、推しのイベントチケットを嫌がらせの為に手にするなんて。思考回路に目眩がした。Aは私が悔しい気持ちを我慢して、へりくだり懇願する姿を想像をしているのだろう。歪んでいる。
そんなチケット、欲しくない。それならまだダフ屋から購入するほうがマシだ。正規の何倍の額でも。ダフ屋は大嫌いだし運営に発覚しだいチケットは無効になるため、ダフ屋撲滅のためにも絶対に手を出さない。だがこの時はまだダフ屋のほうがマトモに思えた。
Aは異常すぎる。返信はせず連絡先もブロックした。
この件が決め手で、私は職場を辞めた。
実はAのことは内々に上司へ相談していた。しかしAは勤続年数が圧倒的に上で仕事もできるので上司から信頼されていた。対して私はまだ数ヶ月の中途。Aからのつきまといやハラスメントを訴えても全く相手にされないどころか、私の人格異常を疑われる状況だった。最近は帰宅後にパニック発作で救急車を呼ぶようにもなっていた。限界だった。
それから数年後。Aのことはすっかり忘れて、あるきっかけでタレントデビューした私。知らないことばかりで、あっという間に過ぎる日々。大変なことも色々あるが、時々何かの発売記念イベントもさせていただけるようになってからはファンのかたとの交流が仕事の励みになっていた。
この日もとあるイベントで、会場で順番にファンのかたがたと交流していたが、数人先の顔に見覚えのある人物に気づいた。……Aだ。すぐ分かった。途端に心臓がうるさく鳴り、目の前で笑っているファンのかたへプレゼントする物販にサインする手がわなわなと震え始めた。来る順番。
「元気?覚えてる?」
ニヤニヤしながら声をかけられる。
その手には、あの時私が受け取らなかったチケットがクシャクシャに握られていた。Aの瞳の奥に、言葉にできない狂気を感じた。
パニックを抑え、背中も顔も冷や汗びっしょりになりながら初めましての挨拶をする。
それから毎日のように仕事のアカウントに送られてくるAからのメッセージ。ブロックしても翌日には違うアカウントで送られてくる。内容はいつも何かの画像。承認していないので、こちらの意思で開かない限り何の画像かは分からない。開く勇気はない。
そのイベントから、Aは毎回参加するようになる。性質上出入り禁止などの対策ができないため、次第にイベント前日は不眠に陥るように。
しかし、ある時から急に顔を見せなくなった。
何の反応もないから飽きられたのかとホッとして、最後に送られてきたメッセージを出来心で開いてしまった。
──◯◯◯◯◯──
その後、すぐに仕事をやめて家も引っ越した。今は顔も変えて身分も偽りひっそり暮らしている。しかし時々Aの悪夢にうなされるのだ。
私はいつ安寧の日々に戻れるのか。穏やかな日々はもう戻らない。なぜこんなことになったのかも分からない。
今日も見えない姿に怯えながら生きている。
この物語はフィクションです。