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短編小説 『ブルー・ブルー・トゥース』


ケーブルがないのに音が聞こえる、不思議なイヤホンを買った。
Bluetoothイヤホンと言うらしい。

翌朝電車を待つホームで僕は、手慣れた風を装いながらBluetoothイヤホンを装着した。

音楽が聞こえてくるはずが、アプリの再生ボタンを押しても一向に音が聞こえてこない。どうしたのだろう、とスマホを触っていると、微かに何かが聞こえ始めた。


耳をすますと、どうやら誰かの話し声のようだった。
思わずスマホの音量ボタンを操作する。
聞こえる声は大きく、鮮明になっていった。


「...今度の連休、どうしよっか。お天気良さそうだから、久しぶりに遠出しない?」

「そうだね、たまには車で海とかもいいかもねえ」


カップルか夫婦の会話のようだった。一体何が聞こえているのだろう。ラジオでも拾ってしまっているのだろうかとスマホをチェックするも、開いているのはいつもの音楽アプリだけだった。

二人の楽しげな声が聞こえる。
狐につままれたような気持ちになりつつ、僕はついつい会社に着くまで彼らの声に耳を傾け続けた。


***


彼らの生活をイヤホン越しに聞くようになってから、もう数週間が経つ。彼らの会話はあたたかく、心地よく僕の耳をくすぐる。暇さえあれば僕はこのイヤホンを耳に挿した。

ある朝目覚めた僕は、目を擦りながらいつもの習慣でイヤホンを耳に着ける。



ざざーん、ざざーんと波の音が聞こえる。

そういえばこの前海へ行こうと話していたっけ。
きゃっきゃと子供たちがはしゃいでいる声が、やけに大きく聞こえる。


「...楽しそうね」


「そうだね」


二人の短い言葉の後、しばらく波の音だけが聞こえていた。


「...ごめんね。」


唐突に、女性の声が謝罪の言葉を口にした。


「...なんで謝るんだよ。別に君のせいじゃないだろ。」


二人は多くを語らなかった。しかしこの数週間の会話から、彼らが頻繁に病院に通っていることは知っていた。
そしてそれが、子どもを授かるための通院だということも。


「...君との時間が、僕は好きだよ。」


夫のその言葉に嘘はなかった。
第三者として聞いている自分が言っても何の説得力もないかもしれないが、僕の耳が、そう訴えている。


「......ありがとう。」


音だけでは分かるはずもないのだが、彼女の頭が彼の肩にとん、と乗せられたことが分かった。彼らの心が、深いところで通じ合っていることが伝わってくる。


波の音が聞こえる。

繰り返し繰り返し。

彼らの心が、寄せては返す。

僕はそれを、波打ち際で静かに眺めている。



***


今日も僕はイヤホンを着けている。
最近仕事以外で誰かと会話をしただろうか。

今も、会社の昼休みだというのに僕は机に突っ伏しながら、彼らの会話を聞いている。今日も通院の日だったはずだが、帰り道の彼らの声は暗かった。
一緒になって僕も落ち込んでいる。


助手席に座った妻がか細い声で言った。


「……ねえ。もう私、諦めてもいいかな。」


彼女の強くて、切なくて、心細げな声が僕の鼓膜を、心を、震わせる。僕の口は、ひとりでに動き出していた。


「二人だって、絶対、幸せになれる。絶対、幸せになるよ。」



僕のくぐもった声は、突っ伏した机に吸い込まれていった。
つい言葉を発してしまった自分に気恥ずかしさを感じながら、僕は固唾を飲んで夫の反応を待っていた。


しかし次の瞬間、誰かに肩を叩かれた。


むくりと起き上がって振り向くと、隣の課の後輩の女の子が心配そうに僕の顔を覗き込んでいる。普段あまり話すことはないが、飲み会などでは時たま言葉を交わす。



「……大丈夫ですか?先輩。
 最近、ずーっとイヤホン着けて寝てますけど」


返事をしようとする僕を制するかのようなタイミングで、今度はイヤホンから妻の声が聞こえた。


「......ありがとう。裕介さん。」


その瞬間の僕はきっと、さぞ面白い顔をしていただろう。

妻が呼んだ名前が、自分の名前だったこと。
そして、声をかけてきた後輩の声が、その妻の声とそっくり、いや、そっくりなんてもんじゃない、全く同じであったこと。

この数週間毎日聞いていた声だ。間違えようがない。

僕は思わず立ち上がった。

目の前で、彼女は怪訝な顔をして僕を見つめている。

言葉をかけたいのに、なかなか声が出てこない。
喉の奥が、声帯が、わずかな潤いを持って震えるのみで、音になってくれない。

出てこい、早く。早く出てこい。

ようやく絞り出した声は、自分でも恥ずかしいほどに緊張していて、掠れていて、そしてちょっと上ずっていた。


「…今度、海でも見に行かない、かな。」


突然過ぎる、そして奇妙過ぎる誘い。
ひと呼吸置いてから彼女はぷっと吹き出して、うつむきながらころころと楽しそうにひとしきり笑ってそして、ひと息に。

「なんですかそれ。いつの時代の誘い方ですか?」

と呟いた。目の端を人差し指で拭いながら。


そうか、そうだよな、変な誘い文句だよな、でもそんな笑うことないじゃんか、という僕の思考を、彼女は横から遮った。



「……で、いつにしますか?」


もう聞き慣れた、優しく、少し高めのアルト声。

僕はイヤホンを外すと、スケジュール帳を開いた。



ことん。


机に置かれた衝撃だろうか、イヤホンからは微かに、赤ちゃんの産声のようにも聞こえるノイズ音が漏れたが、楽しげに話す二人の耳にはもう聞こえていなかった。




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