灰羽連盟考察 ~死を奪われた天使たち~ 「02:灰羽連盟のせかい」
雰囲気が素晴らしいアニメ、灰羽連盟。雰囲気だけだと思ってませんか?灰羽連盟の舞台装置について考えてみます。
ネタバレ注意。
雰囲気アニメの真髄を見たか
灰羽連盟についてのネット上の評価を見ていると、「雰囲気アニメ」という評価を見かけることが多い。私の友人に感想を聞いてみたところ、似たような回答が得られた。息を吞むような、裏切りのどんでん返し!みたいものをこの作品に期待すると確かに得られる物は少ないだろう。しかし、ラッカが主人公の物語として見ていたはずなのに、実はこの物語の主人公はレキでもあったという、主人公のシフトは自分にとっては目が離せなくなる展開だったように思う。
レキの「面倒見のいいお姉さんキャラ」というのはいわば安置”である。それが崩れ落ちるのは、ホラゲーでは休憩スペースであり、安置である「エレベーター」で敵に襲われるという演出を入れてきたDead Spaceを彷彿とさせる(させない。)
灰羽せかいでしか、描けないこと
雰囲気アニメーここでは「雰囲気は良いが中身が伴わないアニメーション」のことーに共通する特徴として、その世界観と物語の本筋の関連性が薄い、もしくは本筋自体の中身がないことが挙げられるように思う。物語を進めるための舞台装置として世界観・設定があるはずだ。しかし、世界観ばかりが表に出てきて物語としての内容が薄いというのは考え物だ。もちろん、物語は二の次で世界観を見せることがメインなんだ、というような方向性が明確な作品ならば、全く問題はないし優れている作品も多い。どっちつかずで意味深な感じを残しながらも結局何も伝わらない、という宙ぶらりんなものは”雰囲気アニメ”と揶揄されても仕方が無いだろう。
以上のことを考慮に入れた上で、灰羽連盟のことを考えてみよう。作品の設定として挙げられるのは、羽根の生えた主人公たち、オールドホーム、壁に囲まれた街、巣立ち等々だ。もしも、これらの要素のうち、一つでも無くした場合、物語は進行しなくなるだろう。つまり、このどれもが灰羽連盟の世界観を構成する要素であると同時に、物語の本筋の根幹ともなっているといえるのだ。
ここまで考えた上で、灰羽連盟に対する「雰囲気”しかない”アニメ」という評価は全く不当であることが分かるはずだ。このカテゴライズが、雰囲気アニメだと思って見に来た人間を(深めの)物思いに耽らせる原因になっているかもしれない。
舞台装置
ここまで灰羽連盟が雰囲気”しかない”アニメでは決して無いと述べた。しかし、灰羽連盟は「雰囲気が良いアニメ」という点では間違いなく雰囲気アニメである。ここではその舞台装置として機能しているものについて考えてゆきたい。
まず、この優れた独特な雰囲気を構成している重要な舞台装置の一つが「壁に囲まれた街」だ。この優れたコンセプトが、村上春樹の「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」の構造を「利用/オマージュ/リスペクト」していることは非常に分かりやすい。安倍吉俊さん本人がこの作品に影響を受けたと語っている。以下引用。
村上春樹から影響を受けたか?という質問に対して。通訳の人が『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』というタイトル名を知らなかったからだと思いますが、ちょっと変な受け答えになっています。正しくどう答えたかは憶えていませんが、僕は空想癖のある子供で、ずっと『自分の頭の中に架空の街がある』という空想を抱えて子供時代を送っていました。17歳の時、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』を読んで、内容がまさに自分の頭の中に架空の街がある、という物語だった事と、その街の描写が自分の頭にあった架空の街とかなり近かったために、強い衝撃と影響を受けました。灰羽連盟は自分の無意識を反映した物語で、『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』に強く影響された僕自身の無意識を描くという意味で、『門番』や『図書館』『西の森』といった単語だけ、ある程度意識して似せています。
私は村上春樹作品は全て読んだが、この作品が一番ポップ(?)で面白かったことは記憶に残っている。
出ることが出来ない街。超えることが出来ない壁。鳥だけが超えてゆく。「世界の終わりと~」では鳥は無意識の表象としてあった。灰羽連盟の世界では、超えられない壁とは何を意味するのだろうか。何を超えることが出来ないのだろうか。存在そのものだろうか、違うだろうか。壁は外の世界から灰羽を守っているという。灰羽たちの傷つきやすい魂を守るため、外の邪悪さをシャットアウトするのが壁なのだろうか。いずれにせよ、灰羽連盟における最も大きな舞台装置である「グリの街」は村上春樹リスペクトの安倍さん自信の無意識の表現だったというわけだ。
村上春樹作品で個人的に目を引く舞台装置、あるいはコンセプトに「井戸」がある。灰羽連盟でも「井戸」は物語の重要な転換点としての役割をしている。これが意図してなされたものなのかは不明だが、その共通項から、「井戸」が灰羽連盟の中でどのような役割を担っているのか見ていこう。
井戸は、村上春樹の「ねじまき鳥クロニクル」や「ノルウェイの森」において重要な役割を果たしたコンセプトである。
「井戸は草原が終って雑木林が始まるそのちょうど境い目あたりにある。大地にぽっかりと開いた直径一メートルばかりの暗い穴を草が巧妙に覆い隠している。まわりには柵もないし、少し高くなった石囲いもない。ただその穴が口を開けているだけである。縁石は風雨にさらされて奇妙な白濁色に変色し、ところどころでひび割れて崩れおちている。小さな緑色のトカゲがそんな石のすきまにするするともぐりこむのが見える。身をのりだしてその穴の中をのぞきこんでみても何も見えない。僕に唯一わかるのはそれがとにかくおそろしく深いということだけだ。見当もつかないくらい深いのだ。そして穴の中には暗黒が――世の中のあらゆる種類の暗黒を煮つめたような濃密な暗黒が――つまっている。」
(ノルウェイの森より)
「声を限りに叫んでみても誰にも聞こえないし、誰かがみつけてくれる見込みもないし、まわりにはムカデやクモやらがうようよいるし、そこで死んでいった人たちの白骨があたり一面にちらばっているし、暗くてじめじめしていて。そして上の方には光の円がまるで冬の月みたいに小さく小さく浮かんでいるの。そんなところで一人ぼっちでじわじわと死んでいくの」
(ノルウェイの森より)
引用の通り、「ノルウェイの森」で描写される井戸と、灰羽連盟で登場する井戸は見た目的にはかなり近いように思われる。しかし、この井戸の灰羽連盟と言う物語における役割としては「ねじまき鳥クロニクル」の井戸の方が近いように思われる。
「分かります」と加納クレタは言った。そして自分のこめかみを指した。
「もちろん何もかもが分かるというわけではありません。でも答の多くはここに入っています。中に入っていけばいいのです」
「井戸の底に下りるように?」
「そうです」
(ねじまき鳥クロニクルより)
しかしある時点で、思いもかけぬことが起こりました。太陽の光がまるで何かの啓示のように、さっと井戸の中に射し込んだのです。その一瞬、私は私のまわりにあるすべてのものを見ることができました。井戸は鮮やかな光で溢れました。それは光の洪水のようでした。・・・・深い穴の底にまで太陽がまっすぐに射し込むのは、おそらく角度の関係で一日のあいだにたったそれだけなのです。その光の洪水は私がその意味を理解するかしないかのうちに、消えてしまっていたのです。
(ねじまき鳥クロニクルより)
ねじまき鳥クロニクルは数ある村上春樹作品の中でもかなり長い作品なのだが、その全篇を通して、重要なメタファーとして井戸が登場し続ける。
登場人物は井戸の中で、「何かを理解する」「自分の心の深くへ下りていく」ということを経験する。まさにラッカは作中でこれと同じことを経験するのである。状況や描写的にはノルウェイの森の井戸だが、灰羽連盟における井戸の役割はねじまき鳥クロニクルのそれである。
ラッカは井戸の底、という自己の深層、自意識の底まで降りてゆき、そこで自分にとって大切なものを発見するのだ。あるいは、「動物を追って、穴に入る」ということが、物語における王道の演出なのかもしれないと考えることができる。「不思議の国のアリス」ではアリスは兎を追って穴に飛び込んでゆく。
ハイバネのせかい、僕たちの世界
図書館を調べ尽くしても、"世界の始まり"は見つからない。
ネムとラッカは「世界の始まり」の物語を考えて本にしてプレゼントする。
問いに対しての解答の不在という空白を、物語という形で埋めたのだ。
これが、我々の暮らす世界と、その始まりを解き明かそうとする我々の態度と同型であることは自明である。
どのようにしてこの世界が出来たのか、この世界は何なのかという根源的な問いに対して、科学や宗教はいくつかの答えを用意した。ある人は神様がつくったと信じているし、現代科学によればビッグバンにより誕生したというのが定説だ。しかし、結局のところ、不可知論的であり、理解することはできないだろう。
だったら、自分で物語を考えたっていいじゃないか。そんな自由な楽しさが溢れている。それが灰羽連盟だ。
鳥かご
「グリの街」の話に戻るが、灰羽連盟における、出ることが出来ない街、というのは「この世」もしくは「地球」のメタファーとしても機能していると思う。お気づきかは分からないが、私たちは地球、そしてこの世に閉じ込められているのである。
これは、村上春樹作品の「回転木馬のデッド・ヒート」的なとらえ方かもしれない。
我々はどこにもいけないというのがこの無力感の本質だ。・・・・・それはメリーゴーラウンドによく似ている。それは定まった場所を定まった速度で巡回しているだけのことなのだ。どこにも行かないし、誰にも抜かれない。しかしそれでも我々はそんな回転木馬の上で仮想の的に向けて熾烈なデッド・ヒートをくりひろげているように見える。
(回転木馬のデッド・ヒート)
ちょっと違うか。
羽根をもつ生きものが閉じ込められる場所といえば、まっさきに思い浮べるのは鳥かごである。私は、どんなに過ごしやすい場所でも、閉じ込められたとなれば何としてでも出たいと思ってしまう。だからこそ、レキの感じた衝動は痛いほど理解できる。グリの街は閉じ込められる場所として捉えるならば、「鳥かご」である。そして、「巣立ち」という言葉から分かるように、成長するまでの束の間とどまる「巣」である。巣立ちはまさに閉じ込められた狭い世界からの解放であり、自由そのものだ。魂の解放。グリの街はやはり優れた舞台装置だ。
自由への旅立ちで個人的に思い浮べる曲はこちら。Spread your little wings and fly away~
出ることが出来ない街。のコンセプトで面白かった作品といえば、「ウェイワード・パインズ~出口のない街~」という海外ドラマがあるので、ぜひ見てみて欲しい。こちらは思わず手を叩いてしまうこと請け合いの、とんでもないオチなので、ネタバレを読まずに見ることをオススメする。