国立ハンセン病資料館/スナックぐるり「私の好きな詩歌」の日①
(見出し写真は「STOP GENOCIDE 即時停戦FREE Palestine」のパッチをつけた黒の布バックを背景になぜちゃん(ぬいぐるみ)がこっち見ている)
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この日も忘がたい1日だった。
前から来たかった「国立ハンセン病資料館」へ
ついに行く日が来た。
1人ではなく、友人たちと。
家の近くからバスに乗るときに、ひとつしみじみと噛みしめた気持ちがある。
子供の頃なにかの資料館へ学校から
足を運ぶときに ちゃんと見ていたら
ダサいやつみたいに思われている気がして、
じっくりと見ることができなかった。
小学生のじぶんへ「あなた、ついに1人ではなくそのことに興味を抱いてるひとと資料館へ行くことができるよ!」と過去のわたしへ思いを馳せてみた。
電車やバスを乗り継ぎハンセン病資料館の近くまでバスが来たときに 山を明らかに切り開いたであろう住宅街を抜けるとき わたしは友人たちとここで待ち合わせしていることに緊張とどきどきが ないまぜになっていた。
そもそも、なぜハンセン病に興味をもったのか。
幼少期 もののけ姫のビデオが家にあり それを見ていたら 祖母と母が「タタラバ」で銃を作っている人々のシーンでハンセン病ということばを教えてもらった。
いや、そのとき「ハンセン病」と祖母からは教わっていない。
後にこの名称を知った。
母が様々な被差別に対し、母の時代では学校の先生が平然とこんなことを言った、「してはいけないことだ」というベースで子供の頃から話してくれた。
わたしの祖母は大正生まれなので まさに資料の人権侵害の歴史、強制隔離政策から平成8年の「らい予防法」の廃止を生でみていたことになる。
どんな言葉を言っていたかは 差別を助長するとおもうのでわたしの心にとめる。
だけど、わたしはこういうことを言う人言わせた時代の人をみたということを忘れてはいけない。
祖母のことをわたしは批判するけど 根本からすることはできない。
なぜなら、わたしも同じ「人間」という生き物で別の物ではなく同じ物だ。
常に他者を踏みにじらないことを意識しないと同じことは繰り返されてしまう。
今だってそうじゃないだろうか。
✰
もののけ姫のはなしをしてくれたのは、
平成10年代なので この歴史が全然遠いことではなく むしろ今なのだということがとても衝撃だった。
朝鮮統治、優生思想、信仰、加害の歴史...様々な事柄に繋がっていた。
資料館には、「らい予防方闘争」の歴史もかなりの熱量で展示してある。
もうひとつ。
ハンセン病の影響で失明することをはじめて知った。
展示には舌で点字を読み取る人の写真もあった。
父はわたしが子供の頃、難病を発症してから 緩やかに視野が狭くなり失明した。
皮膚は毛で覆われているが頭皮などが特に鱗状になっている。
祖母が「絶対に近所の人にお父さんが病気やってこと言うたらあかんで」と家のガレージという外と家の繋ぎのような場所で 念押ししてきたことがずっと忘れられなかった。
わたしは父が失明したあとの今も「全盲になってしまった」と表現してしまう。
「なってしまった」はそのことを良くないことだと捉えている心の表れではないか。
もうこの言葉を使いたくない。使わない。
(もうひとりの)祖母が「あんたのお父さん、いつから目がわるくなったんや、かわいそうやかわいそうや」いま何度も言われてきる。
父は果たしてかわいそうなのだろうか。
かわいそうとしている外側(社会)のせいなのではないだろうか。
この日の夜、この後に書く「スナックぐるり」に座っているとき、9ヶ月前まで住んでいたお家の上に住んでいた大家さんと二人暮らしの妹の「もとちゃん」から引っ越してからはじめてワンコールのみ電話がかかってきた。
もとちゃんは生まれつき全盲で父以外の全盲の方とはじめて仲良くなった。
大家さんの「おねえさん」(姉という意味ではなく、彼女がこう呼んでと言った)と共にあたたかい時間を過ごさせてくれた。
翌日にかけ直したが繋がらなかった。
残暑見舞いの葉書を家のポストへ今度投函しに行こうとおもう。
「国立ハンセン病資料館」
ぜひ、お近くの方には足を運んでほしい。
友人たちと絶えず意見交換しながら歩いていたので4時間ほど滞在していた。
もってきていたお花を供えて手を合わせてまたバスへ乗り込んだ。
②はスナックぐるりのはなしを書きたい。
丸木美術館へ行った②も下書きの中...
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