100円玉とグリコ・森永事件のおはなし
私が幼い頃から、そして父親が「定年退職」するまでの約35年間、私の両親は「共働き」をして家計を切り盛りしていた。
父は鉄やアルミニウム系の製造業の一般社員として働き、母は理容室でパートとして働いていた。(母は現在も)
父は生前、姉と私に対し、口癖のように言っていたことがある。
父
「お前たち2人を大学に行かせる為に頑張っている」
しかし、そんな父の労働意欲/モチベーションも私達2人には届かず、最終学歴は2人共「高卒」となった。(今はすまないと思っている)
さて、ここで幼少期(小学生)の頃を思い返してみたいと思う。
私は両親が共働きだった為、学校から帰ると家には誰もいなかった。
7歳年上の姉は学校の部活動もあり、帰宅するのは大体18時過ぎだった。
そんないわゆる「かぎっ子」と呼ばれる部類の少年だった私に、母親はいつも食卓テーブルの上に「100円玉」を1つ置いて務め先に出勤していた。
この「100円玉」でいつも近所の「駄菓子屋」や「八百屋」でお菓子を買うのが1日の楽しみだった。
100円と言っても、これが1ヶ月(30日)×100円=3000円になるのだから馬鹿にできない。
現代からしたら8歳ぐらいの少年が、独りで15時~18時過ぎまでお菓子を食べながら外を徘徊しているなんて不振に思うだろう。
今思えばウチの家庭は「放任主義」の典型だったと思う。
だが、いつの日かその「100円玉」がテーブルに置かれなくなってしまったのだった。
私はなぜ急に100円をくれなくなったのか、母親に問うと
母
「お菓子に毒物を混入する事件があって危ないからダメ」
そう、これは1984年(昭和59年)に起きた「グリコ・森永事件」の影響である。
小学生だった私は、なんのこっちゃ理解が出来ず、ただただ「100円」の出し惜しみをしているのかと思っていた。
だが、テレビのニュース等でこの事件の内容や「犯人像」を見るようになり、母はけして嘘をついていないんだと納得した。
ある日、母親とスーパーに行くと、私の大好きな「プリッツ ロースト味」の包装が厳重にパッケージされて店頭に並んでいた。
もちろんその他の物もメーカーが包装を見直して「開封しにくく」なっていた。
私はそのいつもと変わってしまったお菓子達を観て「本当にヤバいんだな」と子供心に怯えていた。
お菓子食べたら=死ぬ(かも)という恐怖心も芽生え始めていた。
学校では「キツネ目の男」や「かい人21面相」という言葉が流行り、一重瞼で切れ長な目の私は同級生に「お前が犯人だ!」などと揶揄されたのを覚えている。(軽いイジメ)
「早く犯人捕まって欲しい・・・」
そうでないと「100円」が貰えない。
当時の私は事件の犯人とされる「キツネ目の男」を酷く憎んだ。
それから数年が経ち、私が小学校高学年になると、テーブルの上の「100円」は復活した。
テレビにもあまり報道されなくなり、自然と時が流れ人々の記憶から徐々に消えていった。
今「グリコ・森永事件」って聞いても20代以降の人は知らないだろう。
この「グリコ・森永事件」は犯人が捕まっておらず「未解決」とされているが、人々の記憶から薄れてかかっている。(問題解決はされていないのに)
現在、世界中を恐怖の渦に巻き込んでいる「ウイルス」と比較できる内容ではないが、騒動が落ち着き同じように人々の記憶から薄れる日が来るのだろうか?
もしくは一生涯このウイルスと「共存」して生きていくのか?
可能なら1984年頃、8歳で独り家で家族の帰りを待っていた自分と語り合いたいものだ。
※「グリコ・森永事件」は2000年に「時効」が成立されております。
終わり
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